Old Long Since【 L-7 】
軍、というものはまさしく“力”の象徴である。
規律があり、序列がある。強者と弱者が生まれ、勝敗がつく。戦士は剣を取り、能力を磨き、来るべき時に備える。
その時とは。
或いは地獄との境界が乱された時。或いは煉獄の悪魔の気が変わった時。或いは掟を破る仲間が出た時。或いは――主に剣を向ける天使が現れた時。
そのために《神軍》は存在する。
この箱庭を守るために。主との約束を果たすために。
***
銀光が煌めく。白布が翻る。褐色の肌に滴が輝き、青い目が鋭く光る。その姿は勇ましく、気高く、華麗。
庭園の一画で素振りをする剣士の姿を、私は離れた場所から暫く眺めていた。
あの先端が尖った風変わりな剣は《炎の氷柱》といったか。氷柱、というのはきっとああいう形で、あの剣のように美しく澄んだ色をしているのだろうな。地獄の、寒い地域にあるのだと聞いたことがある。温暖な天界で見られないのは少し残念ではあるが。代わりにこの剣舞が見られるのなら悪くない。
「マルコシアス」
鍛練に勤しむ真面目な部下に満足し、私は近寄りながら彼の名を呼んだ。向こうも私に気付いたか、剣を下ろして青い目を見開いている。
「ルシフェル様」
彼は愛剣を鞘へと収め、流れる動作で膝をついた。立ち止まった私に向けて下げられる鈍紺色の頭。
「失礼しました。お久しゅうございます、ルシフェル様」
「久しいな。こちらこそ突然すまない」
「とんでもありません」
頭を上げさせ、立つように言う。礼儀、忠誠、仁義――そんなようなものを彼は重んじるから。私がいくら最敬礼を免除しても、実に自然に頭を下げてくれるのだ。有り難いけれども、たまにこちらが申し訳なくなるくらい。
「更に唐突な話になるが許してもらいたい。頼みがあるんだ、マルコ」
「何なりと」
誠実かつ聡明。そして私に匹敵するほどの剣の腕前。彼以上の適材はいまい。
「実はミカエルに剣を教えることにした」
「……!」
……何故そう驚くのだ、お前まで。
「マルコ?」
「……いえ、すみません。その、一体どのような心境の変化かと……以前は断固反対なさっていたように思いますが」
「気は進まないさ」
そう、今でも。誰が愛しい子に厳しい道を歩ませたがるものか。あの柔らかな白い肌に傷がつくなど、考えただけで恐ろしい。花を愛でるためにあるような彼の手に、肉刺をつくらせたくはない。
「……だが、私はひょっとすると――守るための剣ならば教えても構わないと思ったのだ。それがあの子のためになるのなら」
「そうでしたか。私個人の意見を申し上げるならば……ええ、賢明な判断かと存じます」
白い歯を見せた剣士の言葉に私もつられて笑う。マルコシアスに賛同してもらえるとやはり安心感があるものだ。そのまま、続ける。
「そこでマルコシアス。お前にミカエルの指導を一任したい」
「私に?」
「ああ。私はそう頻繁に仕事を抜けられない。だから、どうか。お前は最も信頼できる仲間のひとりだから」
暫し固まっていた青年天使は、やがて穏やかに微笑んだ。おもむろに鞘ごと剣を身体の前に掲げ、“誓い”をたてるような素振り。
「そこまで仰ってくださったら、やらないわけにはいかないでしょう。このマルコシアス、全力で弟君を立派な剣士に育てて差し上げます」
剣士、まではどうだろう。
少し苦笑したが、承諾してもらえたことは本当に嬉しい。
「……では、と言っては何ですが」
ふとマルコシアスの表情が変わる。悪戯っぽく笑んだ青い目の中に好戦的な光を見つけ、私は小さく身体を震わせる。恐怖ではない、紛れもなく歓喜だ。次に彼が口にするであろう言葉への期待だ。
「私からもお願いがございます」
「……ああ」
「以前ルシフェル様に敗北して以来、私は日々剣術の鍛練に励んで参りました。今、是非とも力を試してみたいのです。お相手を願えましょうか」
私はニヤリと口端を上げ。
「良かろう」
腰の鞘から一息に剣を引き抜いた。シャリン、という冷たい音。こんなにも興奮しているのは久々に強い相手と剣を交えるからなのだ。――そう言い訳めいたことを心中で呟きながら。
***
マルコシアスと手合わせするのは何時以来か――。
振り下ろされた《氷柱》を剣の腹で受け止めつつ思う。どうもこの特殊な形状はやり辛い。片手で押し返すのは難しいか。
私とマルコシアス。互いに仕事が忙しく、稀に廊下で見かけることはあっても、随分と久し振りに口をきいたように思う。まして稽古など遥か過去の記憶の気さえする。それだけ、彼の技術は上達していた。圧されている? まさか。
まったく、模擬剣を借りるべきだった。この剣で傷を負わせるわけには。マルコシアスほどの強者相手では下手な手加減はできないというのに。
しかし一方で、私の太刀筋に揺らぎがあることも事実。理由はわかっている。剣を振るう度に“奴”の言葉が頭を掠めるのだ。忌々しい!
一度大きく薙ぎ、後ろへ跳んで間合いを切る。マルコシアスも私の異常に気付いたのだろう、牽制するように構えたまま攻めては来ない。
「……なあ、マルコ」
堪え切れず、問う。
「どうして天界に剣があるのだろうな」
対するマルコシアスはミカエルの話をした時よりも驚いていた。一瞬だけ惚けたように緊張の糸が弛み、それでも気付いた時には剣士は剣士らしく私だけを見据えていた。強い眼差し。優しくて、正義感に燃えた眼差しが私を貫く。
「決まっております、ルシフェル様。それは主が必要だとお考えになったからです。私達に望んだからです」
「…………」
「それ以上の理由が必要ですか?」
私も、こう真っ直ぐに返したのだがな。大切なことを思い出したような気がして、少し心が落ち着いた。どうやら言いくるめられた、ということらしい。あの美しい天使の詭弁に。
数度、己のために首を振った。
――ああ、主よ。愚かな私をお許しください。僅かでも疑念を抱いてしまった愚者にどうか慈悲を。
「――まだ、ですよ!」
すぐ近くで聞こえた声に、はっと意識を現実に戻される。咄嗟に剣撃を防ぐことができたのは、反応が体に染み付いていたおかげ。
「戦場では相手のことのみを。それが礼儀です!」
「っ!」
そうだ、その通りだ。無用な問題に意識を散らしている暇はない。
叩きつけられる剣。受け止めたその衝撃に土が抉れる。どうにか力を流し、向こうの勢いを殺しつつ刄を返す。
確実に、彼は強くなっていた。
「くっ……!」
――斬らねば、倒さねば、勝たねば!
僅かな焦りが生まれる。歯噛みした。何故だろう。いつもの調子が、出ない。
最高傑作は膝をついてはならない。誰よりも強くあらねばならない。こんなところで――こんな……
――コンナ、私ニ劣ルヨウナ者ニ。
「?!」
――つきん、と。
頭を貫いた鋭い痛み。
……本当に頭だったか?
一瞬後には不確かな記憶。何故なら痛みは今や“手”を蝕んでいたから。剣の柄を握った手のひらが、燃えるように熱い。
「ッ!」
踏み込んだまま、躊躇う。隙ができる。逆に攻め込まれ、私は諸手で力任せに一撃を弾き返した。諸手。添えた左手にさえも焼け付くような痛みが。
わけがわからなかった。何故? どうして? 一体何が?
強く握れば握るほど、手への痛みも激しさを増す。突き刺すような、切り刻むような。この剣が原因だというのか。主が下さったこの唯一無二の剣が……。
「く……!」
呻きを噛み殺した歯を食い縛り、私は左手を引き剥がす。仕方ない――“犠牲にするのは片手だけでいい”。
仮の勝負であれ本当の断罪であれ。たとえこの手が朽ちようとも、私は負けるわけにはいかない。《光》が負けることだけは許されないのだ。負けたら私は私でなくなってしまう!
――言うことを聞け!
愛剣に怒鳴る。私を拒絶するかの如き激痛は続く。
腹が立った。
この私を拒むなど……
――下レ。
温い液体が腕を伝っていく。既に剣を握っているという感覚はない。手が溶けて貼りついてしまったのではなかろうか――そう思うくらいにひたすら手のひらが熱かった。
突き出された切っ先を体を反らして避ける。が、僅かばかり頬を掠め。
――私ニ従エ!
紅い軌跡が宙に。
ふと。俊敏な剣士の動きも、風に揺れる草木も、煌めく銀色の光も。何もかもが静止した、ように見えた。
――遅い。遅すぎる。
中空に留まったままの紅い雫。停止した世界に構うものか、先にやらねば私が“消される”。だから最短の軌道で大気を貫く。
……そして。
「……っ!」
そして、気が付けば……
「ルシフェル様……」
《炎の氷柱》は持ち主の手を離れて遠く向こうの地面。肩で息をする剣士と私。《光》の切っ先は違わず相手の喉元に。
「相変わらず、お強い」
苦しいほどの動悸は体を動かしたせいか。こちらを見る青い瞳の中にある憧憬の光は純粋で、反射的に視線を逸らしてしまう。
勝った、らしい。終盤の記憶が曖昧だ、なんて。
気のせいだ、偶然だ。そう考えるにしては、柄を握る右手は濁った色に塗れ過ぎていた。
***
「貴方は馬鹿ですかッ!?」
――小瓶の並ぶ部屋に入るなり、ラファエルに怒鳴られた。
痛み止めだと言って渡された何かの葉。私はそれを噛み続け黙したまま。手のひらを切り刻むような苦痛が鈍くなってきたのは、やはりその葉の効能なのか。
未だにぶつぶつと言っている蒼の天使は、椅子に座る私に背を向けて、棚から次々に小瓶を選んでは並べていく。
「本当に……一体どうするつもりだったんだ?! そうまでして稽古を続けようだなんて、まったく信じられない!」
ガチャンッ、と叩き割る勢いで置かれる瓶達。ラファエルは何をそんなに怒っているのか。
「……。もう、いい。自分でどうにかする」
些かむっとしたので立ち上がろうとすると。
「黙って待つ!」
「……」
瞬時に振り向く不機嫌な顔。翠の瞳で強く睨まれ、浮かしかけた腰を再び落ち着ける。……実際、自分ではどうにもならないのだが。それがわかったからこそラファエルの部屋を訪ねたのだ。
見下ろした手。左手は、大したことはない。だがやはり利き手は酷い有様だった。
爛れている、というのか。指の付け根、腹。初心者ならば肉刺ができるような場所を中心に、べろりと皮膚が剥けて所々の肉は剥き出し、血やら何やらよくわからない液体に濡れた、元は白いはずの手。……重傷だ、どう見ても。
無論、自力で治そうとは試みた。しかしどうもこれは普通の傷とは違うらしい。あの剣が原因なのだからと私は妙に納得したものだが、それだけ痛みも並大抵ではなくて。
耐えきれずにラファエルのもとを訪れたは良いが、我らに備わった“治癒”の力では少しも治すことができず、ゆえに彼は薬を探している。
薬効に、頼るのか。少し複雑な気分だが、背に腹は代えられない。
「すぐに貴方がここへ来てくれて良かった。あと少しでも遅かったら、その片腕ごと使い物にならなくなるところだったろう」
私は手首に包帯を引っ掛けたまま肩をすくめた。消毒した時の名残か、鈍い痛みが伝わってくる。和らいだとはいえ、正直、かなりのものだ。だがそれを顔に出すことはしない、私は強くあらねばならないのだから。
「……不思議なものだよな。俺達が祝福した草木が、逆に俺達を助ける薬となるのだから」
「ああ、そうだな……」
白い粉末、茶色い枝のようなもの、粘り気のある薄緑の液体。瓶の中身が混ぜ合わされるのをぼんやりと眺めながら、私は適当に相槌を打った。別のことをずっと考えていたから――というより、はじめからそれしか考えていなかった。
“何故?” それに尽きる。
あの痛み。たかが一天使の言葉で揺らいでしまった私への戒めなのか? 主の御意向に疑念など抱いたから? ……それしか思い当たる節はない。
壁に立て掛けた剣を見る。主が下さった《光》……主が、私だけに……。
――強くならなければ。誰よりもずっと、今よりももっと。私が私であるために、光が光として存在するために。敗者に用意された椅子は私が望む席とは違う。
無事な左手で、かの首飾りを服の上から握りしめる。これは、まだまだ私の心が弱いことの証。きっと主が剣を通して私を叱って下さったのだ。元々自分は《最高傑作》、不可能なはずは、ない。あの方を信じていさえすれば全てうまくいくに違いないのだ。
「……とりあえず、これでいいだろう」
気付けば処置は終わっていた。塗り薬でも使ってくれたのだろう、恐らくはその上から右手全体に白い布が巻かれている。数度開き閉じを繰り返す。少し、動かしにくい。
ずっと噛んでいたがためにすっかり柔らかくなった葉を吐き出し、軽く水で苦みを流し込んでから礼を言う。気の持ち様というか、何というか。これが本当に草木の力ならばやや信じがたいものではあるが。
「しばらくは剣を扱わない方がいい。完治するには大分かかると思う」
「ああ、あれは控えるよ」
「あれ“は”?」
「模擬剣ならばいいだろう? 特別なものじゃなし」
何とも形容しにくい声でラファエルは呻いた。
「甘く見てはいけない。患部を動かすなと言っているんだ」
そう言われても。私はミカエルに稽古をつけると約束したのだ。それは困る。
なかなかうなずかない私を見、とうとう向こうが折れた。
「……と言っても貴方は聞かなさそうだな」
はあ、とため息。
「激しい動きは控えるよう。極限まで我慢するのはあまり感心しない」
「……ああ」
保証しかねる、と言いたいところだが。私から剣を取ったら誰が断罪するというのか。
だが無闇に心配をかけるのも嫌だから、そこは素直に承諾の意を示しておく。
「軍団の方は……」
「わかっている。ウリエルにも連絡せねばなるまいな。《神軍》兵士達への指導はしばらく休むことにしよう」
だがミカエルは、別だ。いくら彼が恵まれているとはいえ、さすがに剣に関してはまったくの初心者なのだし。――実はミカエルだけでなく兵士達も、私は怪我をした状態で相手をしても問題ないと思ってはいるのだが。
統率者として示しはつかないが、まあラファエルの手前仕方ない。適当に休養させてもらうことにしよう。その方がミカエルの指導にも専念できるしな。
立ち上がり、自分の剣へと腕を伸ばした。握る直前に一瞬だけ躊躇い……そして何も起こらないことに密かに安堵。またあの方に拒まれるのではないかと――恐怖感が皆無だったと言えば、嘘になる。
「そういえば」
何か書き物をしながらラファエルが口を開く。
「近々誕生するという生き物、噂によれば我々と似た姿形をしているらしい」
「ああ、あれか」
確かにそれらしい噂は聞いたな。最近は久しく祝福していなかったから、少しでもそういう話題があればすぐに天使達の間に広まってしまう。どこから漏れるのかはまったくの謎だ。
「どうせ外見だけだろう。二番煎じは“原本”に勝ることはあるまいさ」
「だと、いいがな」
軽く言ってやればラファエルは苦笑する。否、苦い表情をした。
「ルシフェル、怖くはないか?」
「何が」
「…………いや。何でもない。俺の考え過ぎだ」
萎れたようなその姿に首を傾げ、しかしまた彼の癖のせいだろうと思ったから大して気には留めなかった。知識を探求する者は得てして余計なことに気を揉む傾向がある、気がする。
「主は私達を悪いようにはなさらないさ」
言い置いて部屋を出る。思わず握りしめた剣の柄は、嘘のように冷えたままだった。