Old Long Since【 L-6 】
「――と言ってくれてな、すごく驚いたものだよ。だがあの子の優しさといったらないだろう?」
「…………」
「ああ、なんと私は幸福なことか! 本当にあの子は可愛らしいんだ。わかるか? わかるだろ? そうだっ、それからこの間は……」
「ルシフェル」
蒼の天使のため息に、私は理由もわからず言葉を切る。
「どうした、ラファエル?」
「あとどのくらい話の種が残っている?」
「さて……どこまで語るかによるな」
「…………」
「何なら出逢いから話そうか?」
「……遠慮するよ」
なんだ、つまらない。心中でこっそり呟き嘆息、腕組み。そのまま椅子の背にもたれ、目の前で苦笑している天使から顔を背けた。
首をめぐらせれば窓、机、何に使うかわからない細かい器具の数々、おおよそこの部屋以外では目にかからないであろう小瓶の群れ、そしてそれらが並んだ背の高い棚。更に向こうには寝台があるはずだ。
ラファエルの私室は数ある天使達の部屋の中でも特別に風変わりだった。
「……相変わらずだな」
思わず呟くと、彼は一瞬何のことかと私の視線を追い、ああ、と間もなく微笑んだ。
「それは、俺の与えられた役割だから」
ラファエル。風を司る癒しの天使。彼が与えられた才能のひとつが“調剤”だった。すなわち、薬を創り出すこと。
無論我々とて少しばかりの怪我ならば自力で治癒が可能だ。望めば他者のものでさえも。しかしそれも“対象”を理解していればこそ。体や力、精神に謎の不調を覚えた天使が――大概は宮殿の外にいる者達だ――彼のところに駆け込むことは珍しくはない。本人もそれをよくわかっているから、たまに外で診療を行うのだという。
“あの時から”肉体を持ってしまった我々が不調を覚えるのは驚くことではないが、しかし。
「薬、か」
正直煩わしさを感じる時がある。ラファエル曰く実験を行い、調査し、結果を検討しては試す……その繰り返しらしい。らしい、というのは私にはそういう知識はなかったからだ。最高の知識を与えられたはずの私に、重要であろう薬の知が欠けているとは。まして才を与えられた彼までも、自らの手で確認しなければ前進できないとは……そこも、いまいち解せない部分ではあるが。
それに命の保証がある天使にしてみれば、あまり合理的な手順ではない気がする。極端な話、不調も放っておいたところで大事には至るまいからな。
だが、主がこのようになさったのは、何かお考えがあってのことなのだろう。全ては主の御心のままに。
「ルシフェル?」
「あ、ああ。何でもない」
「貴方がぼんやりするなんて珍しい」
楽しげに笑い、温かい紅茶が入った容器を口元に運ぶラファエル。何だか少しだけ気恥ずかしくて、私も同じように口をつけた。大して熱くはなかったが、わざと眉をひそめてみたりする。
「少し考え事をしていたから」
今日は久し振りの休養日。たまたまラファエルとは休みが合ったのだが、ここへ来たのは他でもない、ラファエル本人から話をしたいと申し出があったからだ。
「それよりラファエル、話とは何だ? 私は今日は出来る限り早く戻りたいのだが」
……つい自分が語ってしまったことはこっそりと棚上げだ。
「用事でもあるのか? 俺が尋ねた時は何もないと……」
「早く戻って、あの子が帰ってくるのを待つんだ。今はアシュタロスと勉強中だろうからな」
肩をすくめられる。その呆れ顔は心外だな。
あの子は最近ますます立派に成長している。以前より背も伸びたが、愛らしい顔立ちはまだ幼い――愛しい弟の姿を思い浮かべ私はそっと頬を弛めた。彼を大切に思うのは、当然じゃないか。兄なのだから。
「そのことも、なんだが」
も?
「いや、少し気になっているというか……どうか貴方には何を言っても怒らないで欲しい」
ちょっとだけ顔を引き締め首を傾げる。無言で続きを促せば、彼はわずかに遠い目をしてあの子の名前を口にした。
「ミカエルのことだ。ルシフェル、彼に何か――主と通じるものを感じる時はあるか?」
「……は?」
あまりに唐突過ぎて間の抜けた声が出た。器を下ろしかけた手も止め、眼前で真剣な顔をしている天使の真意を探りにかかる。どこかを彷徨っていた翠の瞳はいつの間にか私を見つめていた。
「主と?」
やっとのことで聞き返す。質問の意味も意図も、わからない。
「ああ。これは俺の個人的な興味の問題だが」
そう前置きして、続ける。
「ミカエルは貴方を愛している。そして貴方もミカエルを愛している」
「無論だ」
誓ってもいい。
「だよな。兄弟仲が睦まじいことは素晴らしいと思う。だが貴方の話を聞くと、それにミカエル自身の態度を見ていると、些か彼の愛情は度を過ぎている気がする」
「…………」
「貴方も。ミカエルへの愛情は、他の者に抱く愛情と何か種類が違う気はしないか? 何か外的な要因がありそうな予感が……そうだな、端的に言えば、貴方達はお互いの存在に固執し過ぎているように思える」
……初めての指摘に心底戸惑った。怒りだのを感じる余裕もない。遠回しに“異常”だと――そう、言っているのか?
私がミカエルを愛する気持ちに嘘はない。見た目もひどく愛らしいし、性格も想いやりに満ちているし、何事にも懸命だし、あれ以上に愛すべき天使は……
と、そこまで考えてふと違和感を感じた。言葉にするのは難しい。わけもわからず鼓動が速くなる。決してときめき、ではない。違和感と呼ぶには些細過ぎるような、微妙に微妙に噛み合わない何か。
私は何故ミカエルを愛している? いつからだ? どうして彼なのだ? そもそも……疑問に思うことすら疑問ではないのか?
この感覚は――水晶の部屋で、彼と出逢ったあの日感じたものに似ている。
――“それは君達が兄弟だからだよねぇ、きっと”
白い天使の言葉が蘇る。そうだ、私は確かにあの時から違和感というものは感じていたのだ。
「すまない、深い意味はないんだ」
ラファエルの声に現実へと引き戻される。私はゆっくり首を振った。深呼吸ひとつ分の間を置く。
「いや。お前は……愛に理由を求めるか、ラファエル」
「違う。そこに理由や因果を求めてはならないというのは、さすがに俺にもわかる。誰かを愛する理由なんて、自分ではわからないものだからな」
一瞬の微笑みに幸福そうな影がよぎる。たとえば、愛しい者のことを思い浮かべた時のような。
「では一体……その、主と通じるものとはどういう意味だ?」
「ああ……何か俺も混乱してきたな。本当に、感じたままを言っただけだったから。どうにも俺は疑問をすぐに掘り下げたい性格らしい」
知っている。頭を掻いて苦笑しているこの天使は、謎めいたことは何でも調べたがる癖がある。最初は、主がお与えにならなかった知識は不要なのだから、わざわざ求める理由がないと苦々しく思ったものだが。しかし彼が何かを求めることさえも意志の力だとすれば、敢えて止めるまでもないだろう。次第にそう思うようになっていった。
「少し疑問に思って。貴方のミカエルへの想いが、ややもすれば主への愛に似ているような気がしたから……。貴方は主とミカエル、どちらをより愛するのかと、そんな下らないことを思ってしまっただけだ」
――いくら慣れたとはいえ、こんな問いに誰が驚かずにいられようか?
「……主とあの子は別だ。同じ次元で考えてはならない」
「そうだよな、うん。大変失礼した。今のやり取りは忘れてもらえると助かる」
忘れられるものか。自分でも理由がわからないほどに狼狽えた己がいたのだから。笑んだ天使を前に、私はどんな表情をすべきか迷う。
あの子に主と似たものを見たことは皆無だと、果たして言い切れるのだろうか。いとおしくていとおしくて、命までも捧げられると思う相手は主以外にもいて良いのだろうか。未だ解釈できないあの子の名前の意味は――こういうこと、だったのだろうか?
これ以上考えていると、本当にあの子を愛せなくなりそうだった。やめよう。今まで何も不都合はなかったのだ、これからも私は変わらずミカエルを愛し続ける。それは主もお喜びに違いない。
「それで……もうひとつ話があるのだろう?」
私は何もかも忘れようと心の底に押し込めて、無理に話題を変えることにした。この笑顔に異論は唱えられまい。
「あ、ああ。そうなんだ。実はそちらの方が本題で」
“それも、ミカエルのことなんだが”――そう、言った。
「なんだ。また過保護だとでも言いたいのか」
「まぁ」
軽く睨めばくつくつと笑われる。渋面をつくりつつ、今度の話題はそれほど重くはないのだと密かに胸を撫で下ろす。
蒼の天使は柔らかな声で言葉を紡いだ。
「そろそろミカエルにも、剣を持つことを教えるべきではないだろうか」
――どうやら今日は私の予想が当たらないようだ。
「剣を?」
険のある声になってしまったのは仕方がない。何故ならあれを持つ道の厳しさは己がよく知っているからだ。できれば遠ざけたいと――そう思うのは兄として当然だ。未だに握らせたこともない。
「あの子はまだ若い。今から他者を傷つける術を知る必要はない」
「しかしいつまでも貴方がついているわけにはいかないだろう。自分の身は自分で守れるようにしなければ」
「私はずっとあの子と共に、」
「物理的な話ではなくて。精神的に、だ」
薄々思ってはいたことを改めて指摘されると、どうも直視するのが痛くて言葉に詰まる。私は依存と言われようが構わないのだ、あくまで。けれどやはり心のどこかで、それではいけないと漠然と思っているのも事実。
身を引くことが、手を離すことが、あの子のためになるのだろうか。正しいと納得する一方で、それはとても切ない気がした。
「それに」
ラファエルは僅かに声を落とす。
「いずれは彼も大天使となるのだろう。知らずに困るのはミカエル“様”自身だ」
思わず目を瞠る。
「ラファエル、お前」
「なに、この程度は他の大天使にも想像がつくはずだ。彼は様々な意味で特別だからな。将来、貴方と同等或いは準ずる地位に就いたとしても、驚きはしないと思う」
「そうか……」
幼い頃に世話をしてやった者が、自分の上に立つ……というのは一体どんな気持ちなのだろう。本人は――ミカエルはそれを望むだろうか?
それでも主の御心には逆らえない。定められたものと自らが紡ぐもの。以前私がミカエルに告げた言葉は、またほんの少し語弊があったらしい。それは確かに変えられる未来、かもしれないが。そうまでして変えたくはない――“変えてはならない”ことだって、あるのだ。
何の感情か、深いため息が出た。
「もちろんすぐにとは言わない。だがミカエルには素質がある、と思う」
ラファエルは私のため息を、悩みと苛立ちからきたものだと解したらしかった。気遣ってくれるのは素直に嬉しい。が、私の心は既に決まっている。
「ラファエル」
「ん?」
「……ミカエルのこと、考えてくれて感謝する。検討してみよう」
端正な顔が綻んだ。彼は穏やかに目を細め、力強くうなずいたのだった。