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幕間:Jaunt


 ぽかぽかと気持ちの良い晴天。暖かいが、長く浴びるには少し疲れるような、そんな明るい日差し。

 それを避けるかのように、木立の陰には真っ白な椅子がひとつ。わざわざこの林へ持ってきたばかりなのだろう、椅子の足に踏まれた下草は生気そのままに天を目指す。椅子に座る小さな天使――ミカエルは、眩しそうに蒼い目を細め、少し離れた木のところに立つ天使を見つめた。

 見つめられた側。茶髪を後ろで束ねた長身の……、白衣だから天使に違いないのだろう。たとえ、その目付きが鋭いものでも。

 

「ん? あー、ダメだな。こいつァまだ早ェ。……」

 

 やさぐれ天使は何をしているのか。

 答えは彼が見ているその木にある。丈は彼の身長と同じくらい。青々とした葉を茂らせた枝には、拳ほどの大きさの薄桃色をした果実がなっている。そう、彼は“品定め”しているのだ。

 その様子を見ていたミカエル。椅子に座って所在なさげに足をぶらぶらさせていたが、少々退屈になったか、やがてあどけない表情のまま小首を傾げる。

 

「ねえ、ゼブル。その実の名前はなんて言うの?」

「これか? あー、アンブロ……なんつったかな。うん、そんな感じだ」

 

 ゼブルと呼ばれた天使。どうやら名も知らない果実を幼い天使に食べさせるつもりらしい。しかしミカエルも気にしてはいないようで、そうなんだ、と呟いただけ。

 

「まァ安心しな。味はオレ様が保証するぜ」

「見せて」

「おう」

 

 ゼブルことベルゼブブは、漸くひとつの熟れた実をもいだ。軽く汚れを払い、放る。

 ミカエルは慌てて腕を伸ばし、椅子から転げそうになりつつも、どうにかその柔らかな果実を両手の中に受け止める。ふわりと強い芳香。薄紅色が淡く優しい色合いに見えたのは、表面に生えた細かい毛のせいだと気付く。ちょっぴり痛いけれど、見た目までどこか愛らしい。

 

「可愛い!」

「ヒャハハ。美味そう、じゃなくてか?」

 

 歓声を上げた天使を見、ベルゼブブは楽しそうに言う。笑うと八重歯が見えて、刺々しい雰囲気が一気に鳴りを潜めるのだから不思議だ。

 

「寄越してみな。剥いてやらァ」

「うんっ」

 

 手についた土を払いながら近づいてきたベルゼブブは、ミカエルから実を受け取ると、慣れた手つきでその皮を剥き始めた。薄くて柔らかい皮の下からは、黄金色の瑞々しい果肉が姿を見せる。

 

「ほらよ」

「ありがとう! 食べてもいい?」

「ああ。衣にゃこぼすなよ」

「わかった」

 

 気を付けて、一口。

 

「……美味しい!」

「そりゃ良かった」

 

 弾けるような笑みに笑い返し、ベルゼブブ自身ももいだばかりの実を頬張る。溢れる果汁をこぼさぬように。手を濯ぐにも、小川は少しばかり遠いのだ。

 大きな彼より遅れること暫し。小さな口で、小さな体なりにあっという間に実を平らげた天使は、満足げに再び足をぶらぶらさせていた。……本当は、行儀が悪いと思われそうだけど。でも、ベルゼブブは特別なのだ。平素目付き鋭い彼はミカエルにとって、いちばん親しみやすい“友”のひとりだった。

 

「ゼブル。この実、鳥さん達は食べないの?」

「みてェだぜ。なんたって“しんせー”な果実だからなー。天使の特権、ってヤツ?」

「ふうん……。こんなに美味しいんだから、鳥さんや花さんも食べられたらいいのにね」

 

 そして彼の中では、環境に在る全ても友人。“お裾分け”を真剣に悩む天使を見、ベルゼブブは優しげに目を細めた。

 

「そうだな。だが獣はあんまし甘いモンが好きじゃねェ。草木に至っては口もねェからなァ」

 

 肩をすくめたベルゼブブとは対照的に、ミカエルは何か思案し、うーん、と唸る。

 

「……じゃあ、草木には絞ってあげたらいいのかしら?」

 

 ぽつんと漏れた呟き。ベルゼブブは一瞬だけ目を見開き、そしてからからと軽快な笑い声をたてた。驚く天使の頭に手のひらをのせ、乱暴に、優しく撫でる。

 

「てめえも面白ェなーミカエル! ったく、兄弟揃って賢いンだか賢くねェンだか!」

「わ、わ! ゼブル、ちゃんと手を洗わなきゃ」

「要らん要らん。オレはミカエルと違って食べンのが上手いの! ――よ、っと!」

「ふやぁっ?!」

 

 勢い余って今度こそ本当に椅子から落ちた小さな体を、大きな腕がしっかりと抱き止める。二本の腕はそのまま肩の上に幼い天使を乗せ、木立の中に再び些か間の抜けた悲鳴が響いた。

 

「もうっ、ゼブル!」

「ヒャハッ、悪ィ悪ィ」

 

 金髪を乱され顔を赤く染めつつも、ミカエルはどこか嬉しそうに先輩天使の頭にしがみついた。束ねてある髪を解いてしまわないように気を付けながら。

 

「あ。てめえこそ手ェべたべたじゃねェのー?」

「今ゼブルの髪に拭いちゃった」

「ぅおいッ!」

「ふふっ、冗談だよ! あんな美味しいのだもの、僕だってきれいに食べられたよ」

 

 小さな天使は嬉しそうに、両の手のひらを広げて見せた。安堵か呆れか、息を吐き出した大きな天使の顔も綻ぶ。

 

「……ゼブルは、こんな風に世界を見てるんだねぇ」

 

 身動ぎ、座り直したミカエルが、ベルゼブブの頭上で感慨深そうに呟いた。彼にとって、こんなに高いところから景色を眺めるのは初めてのことだったのだ。

 

「んァ、怖いか? だったら下ろすが」

「ううん、平気。ね、ゼブル。ちょっとお散歩しよう?」

「散歩? どっか行きてェとこあンのか?」

「ない、けど。ゼブルに任せるっ」

「なんだそりゃァ」

 

 呆れながらもベルゼブブはゆっくりと歩きだす。肩の天使を落とさぬように、彼が振動で舌を噛んでしまわぬように。目的地なんてない。楽園はどこまで行っても“楽園”なのだから。

 

「ゼブル、ゼブル」

 

 風に巻かれた金髪を避けながら、小さな天使が目の前の茶色い頭を軽く叩く。彼がこんなことをする相手もベルゼブブだけ。

 

「んァ?」

「お仕事、いいの?」

「朝から付き合ってそれ言うかよ。今更だなァ、オイ」

「だって気になったんだもん」

 

 頬を膨らませてふいっとそっぽを向いたミカエル。その様子は見えずとも、拗ねたような声音に軽快な笑い声が上がる。

 

「ハハッ、そーかいそーかい。安心しな、オレの仕事は滅多にねェンだ」

「暇なの? 上級天使なのに?」

「てめっ……」

 

 今度はミカエルが笑う番。何か言い掛けたベルゼブブはしかし口をつぐみ、そういえばこの幼い天使には教えたことがなかったかとため息を吐く。

 

「オレだってなァ、ちゃーんと仕事はあンだぜ? 立場的には……ウリエルかルシフェルの下になるのか。あの辺は色々と兼任してっからなー。よくわからねェけど」

「ウリィの?」

「ああ、平たく言やァ軍事を司る部署な。他にはマルコシアスとかがいるな。……だがオレの“役割”はまたちと違う」

「……?」

 

 仕事は天使の社会を成立させるためのもの。役割は生まれた時に与えられたもの。上級の天使であればあるほど、その責任は重くなる。自覚する時期は、各々異なるようではあるが。

 思いの託された生まれ、願いの込められた器、運命へと導く名前。創られた理由は、依って立つにはあまりにも曖昧で、自由を求めるにはあまりにも重大。己が己だから存在できるということ、果たしてそれは幸か不幸か。

 

「オレの役割は、まァ《代理》……ってのがわかりやすいか」

「だいり?」

「そ。代わりっつーことだ」

 

 尾の長い小型の獣が二匹、互いにこけつまろびつ茂みから飛び出して、再び別の茂みへと潜り込む。枝に並んだ鳥達が光を讃える歌を歌う。

 

「……つっても、オレにもよくわかンねェんだよなー」

「ねぇゼブル、代わりって、誰の?」

「ルシフェルの、だ」

 

 蒼い双眸をいっぱいに見開き、ミカエルはまじまじと自分の下にある顔を覗き込んだ。

 

「兄さまの?!」

「驚いたか」

 

 ケラケラとベルゼブブは笑う。ひとしきり笑ってからも未だ笑いを堪えられない様子で、彼は片手を離して唐突に指をひとつ鳴らした。弾ける音と同時、その人差し指に小さな炎が灯る。

 

「代わりってあんましイイ響きじゃねェけどな、取りようによっちゃァ“天界の長並の実力者”ってことだろ?」

「でも……でも兄さまの代わりって、それじゃあ」

 

 そわそわと落ち着かないミカエル。再び笑ったベルゼブブだったが、今度の笑みには優しさが滲む。

 

「そうさ。だから言ったろ? 仕事は滅多にねェ、って」

「あ……」

 

 彼が責を果たす時。それは代理を立てざるを得ない時。

 

「アイツに代わりが必要な時があるかっての。何でもかんでも完璧にこなしやがってよォ、オレ様の出る幕なんかありゃしねェよ」

「けど……ゼブルの役割なんでしょう?」

「ああ。だからオレはアイツの補佐的なことをしてるワケ」

 

 ベルゼブブ。《王》の名を戴く彼は《光》の右腕と言われることもしばしばだった。

 

「兄さま、今日もお仕事してるよ?」

「……」

 

 ……実情は定かではないが。

 

「いいンだよ。オレの今日の仕事はミカエルと遊ぶことなの。下手な天使に任せるよか、オレに頼んだ方が確実だろ? それに今頃は会議の最中だろうしな」

「そっか。ガビィ達しか出られないもんね」

「そういうこった」

「じゃあこの後ゼブルは、お疲れの兄さまに代わって書類を読むんだね!」

「お……おうっ!」

 

 きらきらとした笑顔に気圧されたかのようにうなずいたベルゼブブ。面倒くさい、仕方ない、気が進まない――そんなことはおくびにも出さない、出せない。何故なら右腕だから。“主君”はきっとそれ以上に疲れているのだろうから。

 

「じゃあ、早く戻らなきゃ」

「ああ、そうだな」

 

 彼らはそのまま回れ右。散歩はどうしたのか。それでもミカエルは大好きな天使の話に満足気だった。

 

「……色んな役割があるんだね」

「だな」

 

 幼い天使には学ぶことがたくさんある。周りのことはもちろん、自分自身についても。少年が“役割”を知るのはもう少し先――もう少し、大きくなってから。

 

「僕ももっと頑張らなくちゃ。兄さまみたいに」

「まぁまぁ、気負うなって。時間が経ちゃァわかることもある」

「“ゼブルにだって”立派な役割があるんだし」

「どーいう意味だよコラ」

 

 木立に響くふたつの笑い声。澄んだ空には眩しい光。

 

「……僕も、」

「ん?」

 

 楽園を隈無く照らす陽を見上げ、ミカエルは希望に満ちた瞳を嬉しそうに細めた。

 

「僕も、主のお役に立ちたいな」

「……ああ。いつかきっと、な」

 

 白亜の宮殿はすぐそこに。光の居城に待ち受けるであろう主と仲間と。幸福に思いを馳せながら、彼らはほんの少しだけ足を速めることにしたのだった。


【気晴らしの小旅行】に彼を連れ出す。白亜の城の外もまた、光の加護を受けた籠。

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