幕間:Escort
ただひたすらに真っ直ぐ続く回廊。前を行く大天使・ウリエルについて歩きながら、アシュタロスは眼前の大天使に緊張することさえ忘れ、ずっと同じことばかり考えていた。
――自分にこんな大役が勤まるのだろうか。
吐きかけた溜息を飲み込んで、代わりに軽く唇を噛む。
事の発端は数日前。一通の書状が届いたことだった。
唐突な使者の来訪に驚く彼女に恭しく差し出された伝令書。そこには流麗な筆跡でたった一行だけ。
“貴女をミカエルの教育係に任ずる。”
何度も何度も読み返した。これは何かの間違いに違いないと思って返そうとさえした。しかし使者は面会の日時だけを告げると早々に立ち去ってしまう始末。
――何故、自分が?
考えてみるも、答えは浮かんでこない。
ミカエルといえば、大天使長の弟だ。本来簡単に近づいていいような相手ではない。だから自分が選ばれた理由がわからなかった。大天使の中でウリエルだけは仕事上わずかに関わりがあったが、その彼にも尋ねることはできなかった。
それに……、とアシュタロスは思う。
この話が広がるにつれて、少なからず“嫉妬”されているのを感じていた。彼女は入殿して比較的まだ日が浅い。他の天使達にとって自分より小さな青二才が、大天使の弟君の教育係などという大任を任せられては気分が良いものではないだろう。
――それでも。
何回も断ろうと思っては迷い、口を開くも何も言わずにまた黙す。できることならば是非とも引き受けたい。とても栄誉ある仕事だから。
――けれど……
そうこうしているうちに目的の部屋の前に到着してしまった。扉に手をかけながら、ウリエルは久しぶりに口を開く。
「じきにミカエルもくるはずだ。それまで待機していろ」
無言で頷くと彼は顔を覗き込んできた。鋭い黒の瞳が、僅かばかり困惑を滲ませる。
「なんだ、緊張してるのか」
「それはもちろん……」
アシュタロスにとってミカエルに対面するのは今日が初めてなのだ。緊張しすぎて具合が悪いくらい。
彼は笑ってそんな彼女の肩を叩く。
「大丈夫、選ばれたのはお前なんだから。きっとお前の頑張りを認めてくれたんだろうさ」
言われてやっとぎこちなく笑い返す。
じゃあ頑張れよ、と言い残して踵を返す大天使。はい、と答えたはずの声は音にならなかった。
部屋にひとり残されて、気持ちを落ち着かせようと中を見回す。
そこは応接室のような部屋だった。中央にある卓を囲むように置かれた椅子。とりあえず座って待つことにした……のだが、座り心地が良すぎて逆に腰を落ち着けていられない。妙にそわそわした気分でただその時を待つ。
……永遠とも思えるくらいの時間が経ち、本当にこの部屋でいいのか不安になり始めた頃。
唐突に扉が叩かれ、アシュタロスは文字通り飛び上がった。
「は、はいっ!」
慌てて扉を開けに向かう。忘れかけていた不安や緊張が再び戻ってくる。
震える手で扉を開け――彼女は思わず息を呑んだ。
何故って、目の前に立つ天使が美しすぎたから。
透けるように白い肌、整った顔立ち、艶のある黒髪。そして宝石のような紅色をした、切れ長の瞳。
呼吸さえ忘れ、あらゆる賛美の言葉を無意味にするような。今まで見たこともないほどのその美貌に見惚れていると、彼は怪訝な顔をして初めて言葉を発した。
「……私の顔に、何か?」
言われて、はっと我にかえる。あまりに長い時間見つめていたと気付いて、恥ずかしさと気まずさに耳まで熱くなった。
「い、いえ。すみません……どうぞお入り下さい」
「ああ、ありがとう」
彼は颯爽とアシュタロスの横を通りすぎ、ごく自然に椅子へ腰掛けた。そして穏やかな表情で、身の置き場に困って立ち尽くしていた彼女を手招く。
「座ってはどうだ」
「あ、はい……失礼します」
一言一言を紡ぐ彼の甘美な声。不安も緊張も、既にどうでもよくなっていた。けれどこれから勉強を教える度にこの姿と向き合わなければならないと思うと、それはそれで苦労するかもしれない。
――と、ここでアシュタロスはふと気がついた。
勉強を教えるべきミカエルは、まだそれほど大きくはない“少年”であると聞いていた。ところが今目の前で椅子に優美に座っている彼は、――外見は――どう見てもアシュタロスと同い年くらいの“青年”。
「あの……失礼ですが、ミカエル様……ですよね?」
不思議に思って尋ねると、彼は微かに口端を吊り上げて。
「いいや――ミカエルは私の弟だが?」
一瞬、頭が真っ白になるアシュタロス。驚愕は一拍遅れてやってくる。
――ミカエル様は大天使長の弟君で、目の前の彼の弟がミカエル様で、ということはこの天使は……いやこの方は……!
固まったままの彼女を見てくつくつと肩を揺らす――大天使長ルシフェル。
「……もっ、申し訳ありません!! とんだ無礼を……!」
座ったばかりの椅子から転げ落ちるくらいの勢いで地に膝をつき、しどろもどろになりながらそれだけ言うのが精一杯。
「構わないよ」
下げた頭の上からは笑い含みの声。アシュタロスとは対照的に、彼がこの状況を楽しんでいることは確かだった。
だが彼女は笑ってなどいられない。天界の実質的な長、天使全てを束ねる天使長が目の前にいるのだから。主の傍に侍ることを許された偉大なる《光》の名を持つ天使を前にして、冷静でいられるはずがない。
「顔をあげなさい」
優しく、しかし困ったように彼は言う。けれど彼女はその言葉に従うわけにはいかない。話しかけられるだけでも畏れ多いくらいなのだ。
「いえ、そのようなことは……」
じっと頭を垂れていると、彼はおもむろに立ち上がる。衣擦れの音。そして視界をその影に覆われた彼女が、何をされるのかと不安に思っていた時。
「頭を下げて欲しくて出向いたのではないよ。さあ、顔をお上げ。……私は貴女の顔が見たい」
耳元で囁かれた低く、心地よい声。
体が、熱い。落ち着こうとしてバレないように深く息を吐く。
彼は一向に立ち上がろうとする気配がない。彼女が恐る恐る顔を上げると、すぐ眼前、長い睫毛の一本一本まで見えるほどの距離に穏やかな微笑があった。
「…………!」
反射で身を引きそうになるのを、どうにか堪えてその場に留まる。
ずっと彼女を見つめる紅玉は妖しく美しい。息をすることさえ忘れて、アシュタロスはその硬質な光に魅入っていた。
「ひとつ、聞きたいことがあるのだがな」
「は、はい……」
「この話を受けてどう思った?」
――正直に言うべきか……
彼女は唐突な問いかけに僅か躊躇う。けれども何もかも見透かされてしまう気がして。
「あの……どうして自分なのかわからずにとても戸惑いました。私などがそのような大役に就いていいのかどうか……現に今ルシフェル様とお話しするだけでも、私にとっては畏れ多いことなのです。……それでもこのような栄誉ある仕事、やらせて頂くからには全力を尽くしたいと思っています」
「…………」
言い終えても、しばらく大天使の白皙は動かなかった。真摯な強い視線は目の前で頭を下げた天使を射抜く勢い。
いい加減しびれを切らしたアシュタロスが口を開きかけた時、ようやく漏れた静かな呟き。
「……気に入った」
満足そうな響きがこもったその言葉と共にルシフェルは微笑んだ。
「貴女を正式に我が弟の教育係として認めよう」
「え……?」
言って立ち上がるルシフェル。アシュタロスは呆然と見上げるばかり。
「私がここへ来たのは大事な弟の教育係となる者がどのような者か、自分の目で確かめたかったからだ。もしも……そうだな、できぬと抜かす輩、或いは社交辞令ばかり並べ立てる輩であったなら、この話はなかったことにするつもりだった」
「では、私はその……」
「無論、合格だ」
――感動して体が震えるとはこういうことなのかとアシュタロスは思った。悩みと迷いと不安。全てを打ち消すその言葉に、自然と頭が下がる。
「ありがとうございます……!」
「こちらこそミカエルを宜しく頼む。本来なら私がついてやることができればいいのだが、私にもまだまだ学ぶことがあるからな」
曖昧に笑うアシュタロスはしかし、最高の知識をもつとも言われる大天使長の意外な言葉に、内心はとても驚いていた。真の強者は己の弱さを認めて尚、高みを見据えるのだ。
「さて」、とここで大天使長は声の調子を変える。
「立ちなさい」
意図を測りかねて少し顔をあげるアシュタロス。美しい天使は相変わらず優しく笑んだまま。
「私は貴女と対等な関係を築いていきたい。そもそも他の者を跪かせなければ自分の立場がわからないような、卑小な天使に生まれたつもりはないからな」
彼の言葉、それこそが彼が大天使長たる所以なのだ。器の大きさに身が竦んだ気さえ彼女にはした。
しかし、その言葉に従うことができるかどうかはまた別問題で。偉大なる《光》と対等な関係など言語道断、目線を同じくするなんて考えられない。
「いえ、それは大天使様が仰ることとはいえ、いたしかねます」
だがその反応は、あまり彼の意向にそぐわなかったようだ。しばしの沈黙の後に発せられた声は、怒気は含んでいないものの残念そうな響きがあり、僅かに温度が下がっている風だった。
「これは命令だ。立ちなさい」
人にものを命じることに慣れた彼の様子に、改めて彼女は立場の違いを実感する。
と、断り方を考えていたアシュタロスの体が急に言うことをきかなくなった。
「――え……?!」
意思とは無関係に立ち上がろうとする体。何が起きているのかわからず、紫苑の瞳で目の前の天使を凝視する彼女。ルシフェルは端正な顔に悪戯めいた笑みを浮かべていた。
「大天使様ッ……!」
完全に立ち上がって、ようやく体を拘束していた力から解放される。短時間ながらも既に息があがってしまっていた。
「な……にを……」
「少し、な。また膝をつくというのならば、貴女の体の自由は奪わせてもらおう」
「っ!」
――これは脅しではないのだろうか。
何も言えずにアシュタロスが口を開閉させていると、ルシフェルは顔を曇らせる。
「……私とて、いつもいつも後頭部ばかりに話しかけたくないんだ」
一瞬よぎった寂しそうな陰。若くして全ての天使を束ねる責を負い、自分よりも年上の天使達にまで頭を下げられ、“友人”ではなく“従者”ばかりに周りを囲まれて過ごす日々。大天使長というのも楽ではないのかもしれない。
彼女は様々考え、迷いに迷った末、やがて躊躇いながらも首を縦に振った。
「それは……?」
「いえ、あの、……はい。大天使様が良いと仰るのであれば、その……」
途端に彼の表情が輝く。それは一天使としての彼の貴重な素顔。
「ありがとう!」
彼が見せたとびきりの笑顔。立場も役割も無しに、ただ純粋に喜びだけの表現。アシュタロスはまたも体が熱くなるのを感じた。
「弟が世話になるというのに頭を下げられたのでは、寝覚めが悪いからな」
そう言って自然に差し出された片手。
「宜しく、アシュタロス」
「よ、宜しくお願いします。ルシフェル様」
「ルシフェル、でいい」
迷いよりも、許可を与えられたこと、自分の名を知ってくれていたことが嬉しくて。
「ルシフェル…………様」
でもやはり取れない最後の敬称。彼は少し不満そうな顔をしたが、彼女にとってみれば仕方のないこと。曖昧に笑う新たな友に、大天使は肩をすくめ、それでも嬉しそうに頬を緩めた。
「まあ……少しずつ慣れてくれ」
「はは、了解です……」
――後に彼女は、彼のお目付け役として名を知られるまでに至るのだが、それはまた別の話。
主従も運命だとするならば、【護衛者】の愛を彼は信じるだろうか。