Old Long Since【 M-5 】
“もっと甘えなさい、私に”
広い胸に抱かれながら、いつかの優しい言葉を思い出す。今でもたくさん甘えているのに、たくさんお世話してもらっているのに。
「ミカエル」
少し異なる調子の声に、ふと顔を上げれば。
「――っ?!」
――息、できない。
そうか。唇を、兄のそれが塞いでいるから。頬を両手で挟まれて、顔を固定されて。
――兄さま、きれい……。
真っ白なまぶたは閉じられているから紅い瞳は見えなかったけれど、本当に美しい顔立ちが目の前にあった。彼が今自分にしか見えていないのだと思うと、ひどく嬉しくて胸が高鳴る。
次いで、兄の顔越しに見えた奇妙な空気の揺らぎ。ちょうど、彼の背中の周り。
懐かしい――。この揺らぎは知っている。
金色の光を纏う純白の翼。それが広がった途端、
「っ!」
――入ってくる。流れ込んでくる。渦巻いて、砕けて、押し流すような。
触れ合った唇から何かが勢い良く体の中に入ってきた。痛い、と最初は思ったけれど、本当はその流れはとても優しかった。まるで兄自身のようにあたたかかった。
うっとりと目を閉じる。息苦しいくらいに胸が鼓動しているのに、眠ってしまいそう。気持ち良くて、全てを兄に委ねた。
「……私の力を分けた」
やがてゆっくりと唇を離して兄は言った。いつもは透けるように白い頬が、激しく動いた後のようにほんのりと朱い色をしていて。それもまた、きれいだと思った。
「少しは楽になったか」
「あ、はい……」
言われれば、確かに、何だか体が軽くなった気がする。ぼんやりとした目の奥の痛みも消えていた。
軽くなった分、張り詰めていたものが一気に弛んでしまったような。両目を擦り、また彼の胸に頭を預けた。まぶたが重たい。
けれど、幸せだ。彼がいて、自分達の前には道が続くから。
――もう、いいよ。
“そこ”に確かに存在している、自分に従うモノに告げる。今ならできる気がした。
――流れていいよ。僕は兄さまと生きていきたい。
背中が熱い。翼が勝手に広がって。
刻む、刻み始める、時を。
「ほう……」
廻る、廻り始める、世界が。
「戻ったな」
独り言のような彼の声に、閉じていた目をそっと開く。見上げれば微笑。風に“そよぐ”黒髪。遠くに向けて細めた紅眼は、光溢れる世界を映す。
疲れているのに心地いい。あんなに泣いたのに、どうして自分は泣いているのだろう。悲しくなんかないのに。
「ああ、そうだった。ベリアルがすまない、と……お前に謝っていたよ」
うなずく。目元が、頭が、身体中が熱い。鼻の奥が痛い。でも、いいのだ。泣いているのに、嬉しい。
そういえばあの美しい天使は、何故自分に未来を見せたのだろう――。ふと気になったけれど。それも、もういいや。考えるのが億劫で。何だかとても甘えたくなった。
「兄さま」
「うん?」
優しく香る甘やかな香。兄の匂い。いつも毛布に包まって感じるのとはまた違う。草の青い匂い、陽だまりの懐かしい匂いも、風が運んでくれる。
そよそよと揺れる真っ白な羽根。一枚ずつ柔らかそうに重なった翼は、薄く金色の光を帯びた巨翼。
――ああ、どうして彼はいつも、違いなく自分が伸ばした手の先にいるのだろう。まるで心を読まれているみたいだ。
日差しが僅か遮られる。彼の翼が自分の身体を覆っているのだ。
「……主は、僕らを見ておいでなのですね」
「そうだよ。全てをご覧になり、そして光を与えてくださる」
見えないけれど、きっと兄は今とても嬉しそうな顔をしているに違いない。穏やかな声が少しだけ弾んで聞こえるから。
「願いは必ず高き御所に届く」
本当に、兄は主のことが大好きなのだ。主や天界を称える時の兄は至極幸福そうに笑う。晴れやかに、笑う。
そして彼が逆に主に愛されていることも、誰にだってわかる。外見も内面も、これほど恵まれた天使は他にはいないのだから。ちょうあい、と、確かウリエルが言っていたのを思い出した。
ふと、兄の胸元に光る銀色が目に入る。そうだ、あれも確か。
「兄さま、その首飾り……」
「ん……ああ、これか。これも主からいただいたのだよ」
「贈り物ですか?」
「そう……そうだな。贈り物だ」
そっとつまみ上げられた鎖の先に、小さな銀色の塊がひとつ。ぐにゃぐにゃ絡まりあった、溶けた金属のような小さな塊。どうにも何かの形を成しているとは思えないそれは、兄が下げていなかったなら、贈り主が知れなかったなら、きっと価値があるようには見えないだろう。
けれど兄はその首飾りをとても大事にしている。片時も――寝る時や湯浴みする時でさえも、肌身離さず常に首から下げていた。
いいな、と。主から何かを特別にいただけるなんて、純粋に羨ましい気がした。
「だから、大切にしているんですね」
大好きな主がくださったものだから、いつも身に付けているのか。そう思って微笑みかけた。
「まあ、な」
それなのに、兄の返事には含みがある。奇妙な間と、ほんの少しだけ下がった声。
「兄さま?」
「いや。……これはな、ミカエル。私の“起源”なんだ」
「きげん?」
きげん……起源。始まり。
「ああ。この贈り物は私への戒めであり、……これを持ち歩いていれば、私はきっと“完全”になれるから」
まるで独り言のようだった。訝しく思いながら、思考に沈む彼を見上げた。
「兄さまは、完璧な兄さまです」
言うと、伏せられていた長いまつ毛が上がる。紅い瞳は静かな光で満ちていた。
「そうか」
彼は微笑み、それっきり何も言うことはなかった。心配になるにしては彼の表情は穏やか過ぎた。声音とは裏腹に、とても満ち足りていた。
兄さま、笑っているのに、かなしそう――微睡みながら、ぼんやりと思う。けれどその思考は突然の浮遊感に分断される。……浮遊感?
「わ、ぁ」
赤子のように抱かれて。立ち上がった兄の胸の中、緑の地面は先ほどまでより少しだけ遠い。首に抱きつこうかなと思ったけれど、腕を挙げると袖口から入ってくる風が冷たいから、やめた。
「お前は完全だよ」
一瞬、何のことかわからなかった。さっきの続きだ。ようやく頭の中の回路がゆるゆると繋がる。そして続いてどういう意味かと悩む。
「全然、まだまだです」
自分はまだ力も知識もないのに。遥か高みにいる天使から褒められて、嬉しさより戸惑いが勝った。
彼は少しだけ笑って、そうか、と今度は楽しそうに言った。
「帰りましょう、兄さま」
こうして抱かれていると、あの温かな毛布がとても恋しくなる。帰りたい。もぞもぞと体を移動させ、収まりの良い位置で目を閉じた。
「ああ。帰ろう、一緒に」
穏やかな声が嬉しい。微かに聞こえる鼓動が嬉しい。一緒という言葉が、嬉しい。
「――おや、迎えが来た」
薄らと目を開けると、宮殿の方からやってくる白い影が三つ見えた。
「私達の力が強過ぎたか」
笑い含みの声に、そうですね、と返した声は聞こえたろうか。歩きだした彼の規則的な揺れを感じながら、全身を託して目を閉じた。