The Apotheosis
――カツン、カツン、カツン
規則的な音は、革の長靴の底が大理石の床を叩く音。
蒼い髪をなびかせ、ひとりの天使が長い廊下を歩いていた。小脇に抱えるのは羊皮紙の束。
――カツン、カツン、カツン
彼は脇目もふらず、ただその翠の瞳で前を見つめ進む。窓の外には、陽光降り注ぐ美しい庭園が見えるというのに。
「次の角を右、二番目の角を左に折れた突き当たり……」
若々しい顔立ちを緊張に強ばらせ、眉間に軽く皺を寄せ何度も道順を反芻する。これから行われるのは大天使達の集まり。彼は今回初めてその集まりへと向かう途中なのだ。
「次の角を右、二番目の角を左に折れた突き当たり……」
まったく、この宮殿は広すぎていけない。いくら天使の数が多いとはいえ、これほど複雑な構造にする必要はなかろうに。
多少の不満にため息はつけど、それでも彼はこの宮殿を気に入っていた。楽園の――天界のどこからでも見える巨大な白亜の建物。その白は、空の青にとてもよく映えるのだ。
複雑な内部であっても、本当は迷うはずはないのだけれど。彼の頭の中には宮殿の構造も叩き込まれているから。
彼は大天使として誕生した、少しばかり特別な者。生まれた瞬間、頭に流れ込んできた情報の波……主の願い。あの衝撃を、彼は忘れることができない。
天界を統べる者として、様々な知識は既に授かったはず。宮殿の構造など、そのほんの一端に過ぎないが……。身に纏う床につくほどの白い長衣は、彼自身の責の重さを表すものでもあった。
そんな誇り高き大天使が遅刻などしてしまっては洒落にならない。
心なし足を速め、角を右に曲がろうとした時。彼はもうひとりの天使と出くわした。瞬時に白い衣の丈を見れば、相手の上衣も床すれすれの長さ。そして脇に抱えた紙の束。どうやら、その青年も同じく大天使らしい。
「“会議”へ向かうところか?」
そう言われて初めて顔を見た。
美しい――。
ただひとつの感想を除き、他の言葉は出なかった。艶やかな黒髪、どこか鋭さを秘めた紅い瞳。美醜の概念が意味を成さない天使というモノの内にありながら、その天使はそれでも一線を画していた……とでも言おうか。一目で相手を惹き付ける空気感は、まさしく与えられた才能と思って間違いはない。
一方で見つめられた側は、どうした、と不思議そうに首を傾げ。慌てて手を振ってみせた天使は、気恥ずかしさに赤くなる。
「失礼した。貴方も、大天使か」
「ああ。良かったら一緒に行こう」
そのままふたりは並んで歩き始める。
「……初めてか?」
小気味良い足音を響かせながら、黒髪の天使が問う。背丈の都合から、ほんの少しだけ見下ろす形になる。
「ああ。ついこの間、誕生したばかりで」
「それはおめでとう。歓迎しよう、新たな友よ」
「ありがとう」
一つ目の角を過ぎる。仲間を見上げて微笑んだ若い天使は、ゆったりとした声音で次に疑問を紡ぐ。同胞を見つけたおかげで先より緊張は随分と和らぎ、色々なことを考える余裕も出てきたのだった。
「会議、というのはどういったことをやるのだろうか」
「そうだな……。まず、主の御言葉を使者が伝えに来る。ほら、《天意の間》という部屋があるだろう? あそこにいるザドキエル、あれが主の御言葉を聞いて、それを使者に伝える。ザドキエル自身は、あの通り、動くことができないから」
「動けない?」
「彼は《器》だからな。まあ、見ればわかる。そしてその御言葉を聞いて、我々大天使は仕事に取り掛かる。新しい天使が誕生すれば祝福を行うし、まだ統制が進んでいないこの天界の事業も、執り行わなければならないしな」
「……できるだろうか」
新参である天使の言葉に、黒髪の天使は声をたてて笑った。
「大丈夫さ、じきに慣れる。私達もまだ戸惑うことばかりだからな。人手が増えるのは助かるよ」
やがて彼らは二つ目の角を左に曲がる。
「そう言ってもらえるとありがたい。貴方はずっとその集まりに参加しているのか?」
「そうだな。私の誕生と同時に統制が始まったと言ってもいい」
はたと蒼い髪の天使が足を止めた。もう一方も合わせて立ち止まる。紅い瞳が翠の瞳を見返した。時が、止まる。
「……もし、間違っていなければ」
そう言うと、若き大天使はその場に膝をつく。白い衣が一拍遅れて床へ舞い降りる。
そして彼は深々と頭を下げた。実は、先より、もっと緊張しなければならなかったのだとしたら。
「無礼をお許しください。もしも私の推測が間違いでなければ、貴方は――貴方様は、大天使長であらせられますか」
その礼の形は最敬礼。黒髪の天使は床に平伏した天使を驚いたように見、やがて柔らかく微笑んだ。
「……いかにも。私は天使の長。主より《光》の名を授けられし者」
名乗りは誇り高く、慈しみの微笑は己を信じているからこそ。天使長は同じように膝をつき、若き天使と目を合わせた。
「立ちなさい。私もまだ若造に過ぎない、ひとりの天使だ。どうか先程のように気安く話して欲しい。……そうだ、名をまだ聞いていなかったな」
「……ラファエル、と」
「ラファエル……良い名だ」
呟き、味わう。名前は彼らにとって大切な証だった。だから名の持ち主自身は当然のこと、聞いた側もその言の葉の意味に思いを馳せるもの。たとえ完全に主の願いを理解できなかったとしても、彼のひとに愛されていることはわかるから、嬉しい。
「貴方の、御名前は」
「私の名はルシフェル。よろしく頼む、ラファエル」
更に頭を下げようとした天使を制し、大天使長は前方を指差した。そして笑いながら肩をすくめてみせる。
「詳しくは後だ。ふたりで遅刻だなんて、笑えない」
彼らの目の前にある部屋。扉に書かれた流麗な金文字は、その部屋こそが彼らの目的地であることを示していた。
***
これだけなのか?、とラファエルは思わずにはいられなかった。中に入ったふたりを待ち受けていたのは、たった三名の天使だった。しかもそのうち、円卓を囲んでいるのは二名のみ。残るひとりは扉の傍に佇んでいる。見れば、その立ったままの若者の上衣の丈は短い。
さほど広くはない部屋に円卓と、質素な窓と。戸惑うラファエルを促しながら、先に中の天使へと声をかけたのはルシフェルだった。
「やあウリエル、ガブリエル」
「おはよう」
「おはようルシフェル。その天使は、ひょっとして」
彼らが大天使長の名を普通に呼んだことに驚きつつ、自分のことを言われているのだと気付いて、ラファエルは慌てて一礼する。恐らくはその場の大天使は皆、ラファエルよりも“先輩”なのだ。
「はじめまして。ラファエルと申します。新しく大天使として――」
「ああ、君が」
へ、と声の方を見る。どうやら遮ったのは円卓に座る天使の一方。赤みがかった髪に、意志の強そうな黒耀石の目。彼は自分の隣をコンコンと指で叩く。
「席はここだ。ほら、座れ」
初めて来たのにもかかわらず、椅子が用意されている。どういうことなのか。
「もうっ、ウリエル!」
咎めるように言ったのはもうひとりの天使。暗い茶色の髪は腰に届くくらい長く、髪色と同じ茶色の瞳は優しい光を帯びている。
ルシフェルや、もちろんウリエルという天使も美しい。しかしガブリエルにはまた別の美しさがあった。決してのんびりしているというわけではないのだが、小さな所作にも他の二名にはないきめ細やかな優美さがあるような。
「もう少し丁寧に言ってあげないと、わからないでしょう」
「そうは言ってもな。生まれてきた時に大体のことは知ったはずだろう」
声で確信する。ガブリエルは、女性だ。
彼女はラファエルに優しく笑む。
「ごめんなさいね、ラファエル。改めて、歓迎するわ」
「は、はあ……。でもどうしてお――いえ、私の席が」
「そう気負うな。敬語なんて使う必要はない」
ウリエルに言われてますます困惑する。またしても説明を加えたのはガブリエルだった。
「貴方が来ることは聞いていたのよ。そこにいる使者が運んできた、主の御言葉にね」
扉の傍に黙って立っていた天使が恭しく頭を下げる。
なるほど、あの天使が先にルシフェルの言っていた使者か。
言われるままにウリエルの隣に座りつつそんな風に思っていると、ルシフェルの方は慣れた様子で一段高くなっている席に着いた。
「そうか、では既に報告してしまったのだな。悪いが、もう一度私……とラファエルに聞かせて欲しい」
はい、と使者の天使は手に持った紙を広げて読み始める。
「一つ。本日、新たな大天使が統制に携わる。名はラファエル。風を司り、治癒と調剤の才有り。二つ。大天使は各々五名の天使の祝福を担当せよ。新たな命の旅立ちに幸を添えよ。――以上でございます」
「わかった。さがって良い」
使者がもう一礼して部屋を出て行くと、暫しの間の後、何故かルシフェルはため息を吐いた。
「ど、どうしたんだ?」
違和感を抱きつつも言われた通りに敬語をやめれば、彼はその端正な顔に苦笑を浮かべて。
「まだ慣れないんだよ、大天使長としての威厳というものを保つことに」
ラファエルは驚きながらも、そんなものだろうかとも思う。見たところ、ルシフェルを含め、大天使達の年齢は若い。見た目と実際の年齢は必ずしも一致しないが、生まれてからの年月にそれほど違いがないことは、同じ天使としてわかる。
――我らが天界を統べる者。
誇りある大天使として誕生したことを、ラファエルは再び主に感謝する。それは仲間に出会い沸いた喜び故の思いであったし、紛れもない希望を実感したせいでもあった。
「――……ということは、祝福の儀が終われば、あとは自由でいいんだな」
ウリエルの言葉に我にかえるラファエル。ぼんやりしていたのではないものの、自身に託された課題――彼は治療師らを束ねる立場にあったから、それに関する報告が主だった――をこなし、当たり前のように他の大天使と歩調を合わせ、それでも当たり前にできないことがあると気付いたのだ。そういえば……
「良かった。これから、天界の出入りに関しての取り決めについて話し合わなければならないからな」
「あの、ちょっといいかな」
紅と黒と茶の視線が一斉に注がれる。
「祝福、というのは俺もやるんだよな?」
「……」
「……何というか……やり方を知らないのだが」
すると場の空気が一気に緩む。ああ、とルシフェルは笑い、おもむろに腕を組んで椅子にもたれた。
「そう難しくはないよ。大丈夫さ、私達が教えるから」
“祝福”。そんな知識は確かにどの天使の頭にも入っていなかった。伝えられなかったこと自体が意味する主の伝言は――好きにやれ、という解釈で合っているだろうか? 祝福は特別な権利。それゆえ答えは四通りだ、今のところは。
「……そういえば、ウリエルも最初はこんな感じだったな」
「ええ、思い出したわ。ラファエルよりずっと愛想が悪かったけれど」
「仕方ないだろ。誕生したばかりで、勝手がわからなかったのだから」
その意味を敢えて気にする者はない。理は世界の手の中。
だから憮然とするウリエルに、ラファエルも思わず笑う。知識の欠如を気にしない、そもそも欠如だとは思わないからだ。若き大天使が今思うのは、彼らの仲間に入れたことへの純粋な嬉しさ。
「ああっ!」
と、そんな和やかな空気の中、唐突に声を上げたのは他ならぬ……
「どうしたの、ルシフェル?」
「うん、いや、ちょっとな」
先ほどとは打って変わって、大天使長は別人のように慌ただしく白衣を探り始めた。重みさえ感じられたあの落ち着きはどこへやら。
「ウリエルに頼みがあって」
「俺に?」
「今日は忘れずに持ってきたはず…………あった!」
やがて取り出されたのは、何とも奇妙な物体だった。溶けて再び固まった金属のように複雑な凹凸を示す、小さな銀色の塊。親指の爪ほどのそれを手のひらに乗せて差し出し、ルシフェルは言う。
「ウリエル、お前、手先が器用だろう? これで首飾りを作って欲しいんだ」
「首飾り?」
うなずいたルシフェルに、ラファエルはそっと尋ねてみた。
「それは?」
「これはな、……」
主から頂いた、大切なものなんだ――
そう口にした時の彼の表情は、何とも形容し難いものだった。喜びに満ちた笑顔かと思えば自嘲のようでもあり、悲嘆とまではいかないけれども、微かに諦めに似た色があった。
ウリエルも惚けたようにルシフェルを見つめ、それから気を取り直して了承の意を示す。
「別に構わんが」
「ありがとう、ウリエル」
未だ疑問符の消えぬ三名を尻目、ルシフェルは席から立ち上がる。
「では行くか、祝福の儀に」
「え……あ、ああ!」
ころりと変わった表情は、一点の曇りもない明るい笑顔。
てきぱきと扉へ向かうウリエルらと一緒に立ち上がりながら、ラファエルは本人には聞こえぬように、隣のガブリエルへとそっと耳打ち。
「(……彼、いつもあんな感じなのか?)」
正直、想像していた“天使長”と本物の天使長は、どこか決定的に異なるようにラファエルには思われた。公の顔が先行するのは仕方ないとしても、幼ささえも感じさせる等身大の彼の姿に、皆の前に立つことの意味を考えざるを得ない。もちろん、考えすぎの可能性もあるが。
何を思ってか、ガブリエルは変わらず優しい笑みを返す。
「(驚いたでしょう。偉大なる大天使長様は、意外と抜けているところがあるから、そこにも注意してね)」
「(覚えておくよ)」
不安を取り除いてくれるような笑顔。ラファエルは自分の気にしすぎを軽く笑い、彼らもまた部屋を後にしたのだった。