Old Long Since【 M-4 】
「兄さま」
血、と。
その紅い色の名前を聞いた。誰かが耳元で囁いていった。
あれを出したら痛いんだよ。
あれを出し過ぎたら、消えちゃうんだよ。
――消える? 兄さまが、消えるの?
そんなことない、平気だよ? だって兄さまは目の前にいるもの。消えてなんかいないもの。返事をしてくれないのは、きっとお疲れだからだよ。兄さまはとっても強くて、とっても忙しいんだ。
さあ、僕が起こしてあげなくちゃ。
「兄さま」
そんなところでお休みになっては体調を崩してしまいます。ちゃんと毛布をかけなさい、温かくして眠りなさい。兄さま、いつも僕に仰るでしょう?
ねえ、兄さま。起きてください。そうして……名前を呼んでください。
あの優しい声で、どうか――。
***
眩しい。
まず、そう思った。重たい目蓋を持ち上げる。痛い。
「ミカエル」
あたたかい。
体中がぽかぽかとしたものに包まれている。空気を震わせた音。単語。自分の、名前。耳の中まであたたかくなる。
膝に頭をのせてくれたまま、ゆっくりと髪を撫ぜる手つきが気持ち良い。溶けて、しまいそう。
ぼんやりと、見上げた。
「おはよう、ミカエル」
兄は、白かった。
「兄、さま……?」
「うなされていたから心配した。悪い夢でも見たのか?」
――これが、紅く……
「……ミカエル?」
痛くなって、紅くなって、消える。
いつか彼は、消える。
「ぅ、あっ……」
「っ! どうした!」
いやだ。いやだいやだいやだ!
――永劫、共ニ。
「ミカエルっ!」
叫んだ。違う。何かが、叫び声になって飛び出した。
跳ね起きて、捕まえられて、逃げようともがいて、抱き締められて。
痛い。体を強く抱く腕が痛い。
だから泣く?
ううん、違う。自分は悲しかった。涙は悲しいと出るのだ。
だって、見たから。白い彼の未来を。自分だけが見てしまったから。
兄さま。大好きな兄さま。
消えないで、側にいて。そう言うことは、なんて虚しい。
「大丈夫、大丈夫だっ。私はここにいるから、な、怖くない、怖くないんだ」
苦しいのは、きつく抱かれているからかしら。
とにかく目の前にあった布に顔を埋めて泣いた。兄さまの服、涙でぐしゃぐしゃになってしまう。気付いたけれど、服を握りしめた手指から力が抜けない。貼りついてしまったみたいに。
泣いて泣いて泣いて。目が痛い。胸が痛い。息が苦しい。胸が苦しい。喉、乾いた。全部を絞りだして、なんで泣いているのだっけと、ああこの白いもののせいだと、視界は赤くないけれど、代わりに濡れて歪んでいた。
「――仕方ない。許せ、ミカエル」
トン、と衝撃。多分、首の後ろ。一瞬だけ見えたのは悲しそうな兄の顔。
――お願い、往かないで、泣かないで、兄さま。
声が、出ない。
驚く間もなく、ふっと意識が遠退いた。
***
「ルシフェル様、ミカエル様のお姿が……あっ、えっ、ミカエル様?」
「騒がないでくれ。やっと落ち着いたところだ」
「あの、本日のメフィストフェレス様の――」
「無しだ。先生にも伝えておきなさい。今日は休ませる」
「は、はぁ。その、一体どうなさったのでしょうか?」
「…………」
「ルシフェル様?」
「……後だ。退がれ、ヴィンセント」
「! ぎょ、御意っ」
低い声は彼のもの?
答える声は誰のもの?
……眠い。
いいや。みんな、起きてからにしよう――
***
いつの間に、寝台に運ばれていたのだろう。毛布がかけられていたのだろう。
でも、本当は知っている。
全部やってくれたのはきっと、膝枕の主。
「……っ……」
頭を起こそうとしたけれど、突っ張った腕に全く力が入らなくて。
動けない。
また、泣きそうになった。
「……ミカエル?」
心地よい声が、聞くだけで溶けてしまいそうな声が、降ってくる。柔らかそうな前髪が作り出す影の奥に、潤いを湛えた紅眼が見える。
なんて、きれいなひと。
目が覚めて、彼がそこにいて、本当に良かったと思った。
「……に、さま……」
擦れた声が、出た。
「動……っない……」
必死に伝えようと絞りだす。どうして、指一本も動かないのだろう。まるで心と体がばらばらになってしまったみたいだ。
そっと、額に大きな手のひらがあてられた。ひんやりとしているのに、触れられた箇所が変に熱くなる。でも、気持ちいい。
兄は何に対してか軽くうなずき、自分の手をもう片方の手で包み込んでくれた。
「力を抜いて、楽にしなさい」
抜こうと思って力を抜くのは、案外難しい。困って見上げると、優しい眼差しと視線がぶつかる。慈愛も光明も温もりも、深い深い紅の中に満ちていた。自分は言葉も出せずに見惚れて。
「私に全てを預けてご覧。ゆっくり、ゆっくり」
怖くないから――。
言って、手を擦ってくれる。解きほぐすように丁寧に。触れられた場所が次々に感覚を取り戻していく、不思議。
生きている。彼も自分も。目の前に確かにいて、確かにあたたかくて、ちゃんと、生きている。
「兄さま……」
ふっと体が軽くなった。ぴくん、と。指が言うことを聞いた。次は手のひら、その次は腕、それから頭、やがて足の方へ。全身で大好きな彼を感じる。
おかえり。心の中で呟いた。おかえり、自分の体。
「どこか痛むか?」
首を振る。自然にこぼれた涙を拭ってくれた彼は、大きく息を吐いて穏やかに微笑んだ。
「良かった」
もぞもぞと毛布から抜け出して、きちんと開かない両目を擦る。まばたき。汗が冷えたか、身震いもひとつ。
見慣れた風景に、兄の部屋だとすぐにわかった。窓の外は明るい。
朝? それにしては、眩しい。
「ぁ……」
「どうした?」
気が付いた。朝は、とっくに過ぎている。とすると。
「お仕事……兄さま、お仕事が」
どうしよう、と思った。本来ならこの時間、兄は自分の膝枕をしていてよいはずがないのだ。
「ごめんなさい……!」
「――謝るな」
びっくり、した。こんなに怖い声を聞いたことがなかったから。
見上げた顔は辛そうに歪んでいたけれど、すぐにいつもの微笑が戻ってくる。
「……謝らなくて良い。仕事よりもお前の方が大事なんだ」
「兄さま……」
なんで、そんなに、哀しそうな顔を。
儚げな微笑。今にも消えてしまいそうな。
消えて……――
「怖かったろう。でももう大丈夫だ。私がお前をちゃんと守るから。だから、もっと私を頼るんだ――」
聞こえない。兄が何か言っているのはわかる。口が動くのは見える。それなのに、音はみんな素通りしていく。
ひとつ、引っ掛かった言葉。川を流れる木の葉が岩に掛かるように。
“守る”――。
そうか、と。そうか、自分が兄を助ければいいのだ。自分にしかできないこと。未来を知る自分にしかできないこと。
「兄さま、僕……」
白衣を引っ張り口を開くと、何かを言っていた兄は口をつぐんで首を傾げた。真摯に耳を傾けてくれた。
「お仕事の時、一緒にいたいのです。兄さまと、その……離れたく、ないのです」
ぱちくりとまばたきした彼は珍しく驚いているようだった。が、すぐに頬を弛めてうなずいてくれる。
「……わかった」
ああ、良かった。これでいつでも彼の傍にいられる。何かあっても大丈夫だ。自分は“あの結末”を避ければいいのだから。
きっと兄は、自分が甘えているのだと思っているだろう。
少し、違うのです、兄さま。
もっともっと大きなこと。何よりも大事な仕事。決意、した。主は自分に、この役目を果たしてもらいたいとお思いに違いないのだ。
***
今日は休むべきだと主張する彼にわがままを言って、一緒に湯浴みをしてから寝室を後にする。
不安で不安で繋いだ手に力を込めると、それ以上の力で、でも優しく握り返される。歩幅を合わせてもらっているのは申し訳ないなと思ったけれど、大事な役目のためだから心の中でそっと謝る。そのまま廊下を歩いて着いた先には、大天使の三名がいた。
「ルシフェル!」
真っ先に声をあげたのはガブリエル。卓で何かを書いていた顔をあげ、茶色の目をまるくしていた。
「それにミカエルまで。一体どうしたの? 今日は来られないって、アルベルトが伝えに来たけど」
「少し急用ができてな。だがもう片付いた」
気遣ってくれてか、「ミカエルにも仕事の様子を見せることにした」と、単なる勉強だと兄は説明した。納得したような大天使達を見、そして一段高い席に座ると、自分にも傍に椅子を用意してくれた。
「遅れて悪かった。今日の連絡は?」
実際、彼らが話す内容は全くわからなかった。知らない単語が飛び交い、理解しようと頑張る間にも会話が進んでいく。ウリエルが神経質そうに意見を言えば、ラファエルが穏やかな物腰で展開させ、ガブリエルは会話を巧みに渡し、そして兄は瞬時に判断して捌いていく。すごくかっこいいと、素直に感動した。
「――……ではその泉に関しては、調査隊を組んで再び向かわせよう」
とんとん、と紙の束を揃えながら兄は立ち上がる。終わった……のだろうか。
「それでは今日は失礼する。色々とやるべきことが溜まっているものでな。すまない」
「いいや、俺らこそ任せてしまって申し訳ない」
「構わないさ、ラファエル。私にしか権限がないのだから仕方ない。それに、これが私の喜びだから。……ミカエル」
呼ばれ、慌てて立ち上がる。三名の天使に頭を下げて、差し出された大きな手を握る。
「ミカエル、ちょっと」
退出する時、ウリエルに呼び止められた。近くに寄るように言われ、ひとりで傍に駆け寄った。
「……ミカエル、具合でも悪いか?」
いきなり囁かれ、驚いて黒い瞳を見返す。
「何か思い詰めているように見える。そんなにずっと緊張していたら疲れるだろうに」
そういえば彼は勘の良い天使だと、いつぞや兄が評していた。その鋭い目は何もかも見通してしまうのかもしれない。
「悩みがあるなら言った方がいい。……知られたくないのなら他の者には内緒にしておくから」
――「ルシフェルにもな」。
何と言っていいのかわからずに、はい、と小さく呟いた。ウリエルは珍しく肩をすくめ、「気が向いたらでいいから」と兄の方へと送り出してくれた。
手を引かれて部屋を出る。もう一度だけ振り返ると、三名の天使達がひらひらと手を振っているのが見えた。
***
それからの日々は、ずっと兄にくっついてまわった。何か起きたら助けないと、自分が防がないと。手を引かれながらも常に周りに気を配った。だって、自分にしかできないのだから。
でも、やっぱり疲れていたのだろうか。
ある朝目覚めると、兄は既に起きていて夜着を着替えていた。こちらに背を向け寝台の端に腰掛けて、真っ白な衣に袖を通すところ。
細身なはずの彼の背中。こうして見ると大きく見えるのは何故だろう。
「ん……兄さま、おはようございます……」
その兄は驚いたように振り向き、どこかぎこちなく破顔する。
「ああ、おはようミカエル」
「すみません、今、用意を……」
寝坊だ。兄が仕事に行く時間までに、急いで身支度を整えなければ。
「休んでいてもいいんだぞ? 毎日毎日私についていては、今度こそ本当にお前の体が保たない」
「大丈夫、です」
「ミカエル」
起き上がろうとした体を寝台に押し付けられる。ぱふん、と毛布の糸が舞う。
「そうでなくとも、この間の疲れがとれていない身だ。無理はよくない」
「無理じゃ、」
無理なんかじゃない、自分はただ――。
言いたいことがたくさんあるのに、さっきから口が重たくて動かしにくい。頑張れ、頑張れ、自分の体。兄さまを守らなきゃ。
「休養は決していけないことではないよ。お前は何か心配しているようだが、私は大天使長なのだぞ? 多少のことは乗り切れる」
兄はおどけて言ったのだろう。けれど、
「多少じゃ、だめ、なんです」
「……?」
彼を守らなきゃ。
「僕は、平気ですからっ」
力を振り絞って、肩を押さえていた手をはねのける。何か言われるより先に寝台から逃げるようにおりた。
「ミカエル……」
彼のため息の意味は何なのか。
「仕方ないな。だが今日は会議にはついてくるな。あの部屋は遠い。執務室で待っていなさい」
「でもっ」
「いいから!」
びくんと体が震えた。みるみるうちに視界が滲む。
なんで、また、泣いてしまうのかな。自分は悲しいの? 怖かったの? 泣いてはいけないのに。また気遣わせてしまうのに。
わかってる、わかっている。兄は心配しているのだ。怒ってなんかいない。
「……どうか私の言うことを聞いておくれ、愛しい子」
頭にのせられた手。自分よりももっと悲しそうな顔を見上げて、渋々だけれどそっとうなずく。彼にこんな顔をさせるくらいなら、自分が我慢した方がましなのだから。
***
兄は大天使達と会議を行い、主の御言葉を聞いたり、報告書に目を通したりしてから、それらの仕事を執務室へと持ち帰って片付けている。兄は天使の中でいちばん偉い。だから、彼の承認がなければ動かないことがたくさんあるのだそうだ。
執務室の扉が開いた途端、ぷらぷらさせていた足で椅子から飛び降りた。入ってきた長身の天使は自分を見、穏やかに微笑んでみせる。朝のことが、嘘みたいに。
「ただいま。大丈夫だったか?」
言いたかった言葉を先に言われて、一瞬だけ詰まってしまったけど。
「おかえりなさい、兄さま。ご無事で何よりです」
「大袈裟だな、お前は」
ちょっぴり呆れ顔。自分は本気だったのに。待っている間すごく心配だった。
兄の手には分厚い紙の束。これら全てを点検し、案件の是非を決めていくのだという。
「菓子をやろうか。待ちくたびれただろう」
「いいえ、平気です。兄さまはどうかお仕事を」
「そうか」
残念そうな顔を見て、ひょっとしたら兄さまが食べたかったのかなと、なんだか可笑しくなる。こういうところも大好きだ。
兄さま。大好きな兄さま。
自分は彼と一緒にいるために生まれてきたのだ。
「……久し振りに笑ってくれたな」
「へ?」
兄は、とても嬉しそうに。
「近頃お前はずっと暗い顔をしていたよ。お前には笑顔が似合う」
恥ずかしくなって俯く。顔が熱い。変な気持ちだ。でも、嫌じゃない。
椅子に座る兄は軽く笑い、そのまま自分に背を向けて机上に書類を広げる。
「お前の笑顔が私にとって何よりの喜びだ。ミカエルが元気でいてくれれば、私はどんなに疲れていても頑張ることができる」
さわさわと、紙が擦れる音。
「だからな、お前が私を案じてくれるのと同様、私も――ぃッ?!」
――兄さま?!
急いで駆け寄ると、彼は苦笑しながら振り返る。
「……大丈夫。少し手が滑っただけだ」
放り出された筆記具。美しい羽根の先端を削って尖らせたものだ。見慣れている。
そして兄の手。きれいな指の、その……
「ぁ……!」
ぷく、と紅い珠が。
――紅い……体
思い出す、あの光景。目の前に甦ってくる赤茶けた風景。
大好きなひとの、変わり果てた姿。
「ミカエル?!」
「あ、ぁ……!」
――倒れて――痛い――いつか――
「い……いや、だぁ……っ!」
――助からない――血が――
「いやだ、いやだっ!」
「ど、どうしたんだミカエル!」
生きていれば必ず
彼が消える
未来が。
「いらない……いらない、いらない、いらないっ!!」
あんな未来なら
――来ナケレバイインダ
「落ち着けっ!」
彼と離れるくらいなら
――時間ガココデ止マレバ
「みっ未来、なんてッ……」
「ミカ――」
「未来なんて要らないっ!!」