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Old Long Since【 M-3 】


 美しい、という言葉はもう、兄のために使いきったと思っていたのに。今、目の前にいる天使は間違いなく“美しい”としか言い様がなかった。

 本当に、背筋がぞくっとするくらい。

 

「大丈夫かい、ミカエル?」

「はい……っ、大丈夫、です」

 

 ……泣いて、しまうくらい。

 

 美しさを“怖い”と思ったのなんて初めてだった。そのふたつが繋がることができるなんて、知らなかった。

 笑顔。確かに眼前の美貌は、形の良い薄い唇は弧を描いている。それなのに、どうしてこれほどまでに寒く感じるのだろう。同じきれいな笑みなのに、どうして兄とはこれほどまでに異なった印象を受けるのだろう。

 

「無理しないで。僕は君をいじめたいのじゃないんだ」

 

 優しげに細められた瞳は、兄の紅色のものよりも更に暗くて、どちらかといえば赤茶色に近い。吹き抜ける風が、庭園の草木と美しい天使の金色の髪を揺らす。後ろでゆるく束ねられた髪が大気と戯れるかのように踊って、時折光を反射してはきらきらと輝く。

 身につけた白衣の丈は長い……のだけれど、襟元や裾には毛があしらわれた不思議な形状の上着だった。

 彼の名は、ベリアル。自分が“能力”を上手く制御できるようになるために、指導してくれるよう兄が言ったらしいのだ。

 

 だのに、自分は失礼なことを。会っていきなり泣きだすなんて、きっと気を悪くしたにちがいない。

 

「あの、すみませんでした。その……ベリアルさま?」

「いいよ、呼び捨てで。それから謝る必要もない。慣れてるからね」

「慣れて、る?」

 

 首を傾げると、うん、とあっさりうなずかれる。

 

「僕、初対面だと結構恐がられるみたいでね。大天使達でさえ、僕の能力はあまり好きではないようだったし」

「ベリアルのちから?」

「うん。多分、まだ君には見せない方がいいと思う。そうだなぁ……僕の力を見て動じなかったのは君のお兄さんだけだよ」

 

 くすくすと笑う天使の真意は読めない。心から楽しんでいるようでもあり、時々ひどく無感情にも見える、その笑い。

 

「やはり彼は特別だ、特別に聡明だ。彼は“影”の必然性をよく理解している……」

 

 独り言のように呟いて、そして。

 

「僕はルシフェルのこと、大好きだけどね」

 

 向けられた視線に、何気なく放られた言葉にたじろぐ。

 ――怖い。

 理由ははっきりとしないけれど、胸騒ぎのするその表情と声音。全てを見通すかのような自信に満ちた眼差し。

 まさか、そんなはず、ないじゃないか。

 気付かれないよう深く息を吸い、吐く。ベリアルはれっきとした上級天使だ。これは“恐れ”ではなく“畏れ”なのだ。美しいこの天使は、力も強大だと聞いたから。

 

「あの、どうしてベリアルは僕の面倒を見てくれるのですか? 僕、ベリアルとは初めて会うのに」

「お兄さんに頼まれたから……っていうのは、あまり答えになっていないね。ルシフェルが僕に声をかけた理由は、やっぱり僕がいちばん適任だったからだよ」

 

 何がそんなに可笑しいのか、ベリアルはずっと笑っている。穏やかに、平淡に。

 

「僕は“全ての力を知っている”」

「……え?」

 

 どういう意味だろう、何の比喩だろう。だってそんなこと――そんな、主のようなこと。

 

「全ての能力、その発動条件、背負うもの、限界。みんな知っている。だからって、それを話すつもりはないけど」

 

 ごめんね、と片目を瞑られ、曖昧にうなずき返す。それで満足してくれたのか、ベリアルは両手をぱんと一回叩いた。

 

「さて、じゃあ始めようか」

「は、はいっ」

 

 言われ、急いで翼を広げる。この白い翼こそが力の源なのだと兄に教わった。翼をしまっていたら力は上手く発揮できないと。

 

「君は“時”を操ることができるのだったよね。まずは僕の言う通りにしてご覧」

 

 今更ながら、彼につけるあだ名が思いつかないなと思った。兄に次いでふたり目だ。

 


 

***

 


 

 集中すればどうにかなる、というものではなさそうだった。

 

「大丈夫? 休む?」

「いえ、もう一回……っ」

 

 何度も何度もうんうん唸って背中に力を込めて。でも、何かが起きる気配はない。既に汗だくだし、羽根も幾分抜け落ちてしまった。またすぐに生えるとは思うけれど。

 

「そう。じゃあ頑張ろう。想像することが大事、望むことが、大事」

 

 「時を掴むんだよ」、ベリアルは言う。「時の流れを把握するんだ」。

 掴む? 見えないものを捕えるのは難しい。果たして以前、自分はどうやったのだろう?

 力を込めてもだめ。飛んでみてもだめ。走って勢いをつけてもだめ。兄のことを思い浮かべても、だめ。思い付く限りを試したけれど、覚えている限りを再現しようとしたけれど、一向に何も変化がない。

 とうとう目の前がくらりとして、地面に尻餅をついてしまった。頭がぼうっとする。こんなに力んだのは初めてかもしれない。

 

「頑張り過ぎたみたいだね。疲れていると成功する確率は下がってしまう。今日はこれくらいにしようか」

 

 頭を優しく叩かれ、悔しいけれど、はい、と返事をする。

 本当に、自分はどうやって発動させたのだろう? 自分にちょっぴり腹が立った。もう一回、後で挑戦してみよう。

 

「そうだなぁ。ミカエル、お兄さんに助言をもらうといいかもよ」

「兄さまに?」

「うん。彼もまた、見えないモノを掴むことができるから」

 

 存在……、何といったか、兄の能力は。忘れてしまった。確か、物体移動のような。

 兄から助言をもらえたら、それは頼もしいと思う。あれだけ立派な天使なのだもの。近くにいるのにまだまだ遠い、憧れのひと。

 

「ベリアル、ごめんなさい。上手くできなくて」

「いいんだよ。一度目に成功する子なんていないんだからね」

「ベリアルは他の天使にもこうやって教えてあげているの?」

「たまにね。けどきちんと指導することは滅多にないかな。“君達”は僕にとって特別なんだ。“鍵”、だから」

「……?」

 

 笑う天使の言葉はどこまでが本当で、どこからが嘘なのか。別に、嘘でも構わないと思ったけれど。ベリアルの話は不思議で、ちょっと寒々しくて、へんてこで、たのしい。そんな印象。

 

「ミカエル、僕からご褒美をあげようか?」

「ご褒美?」

 

 またベリアルは笑う。あの乾燥したような美しい笑顔。優しくないけど美しい、温かくないけど美しい。

 つ、とベリアルの片手が伸びてくる。額に、触れる。

 ――つめたい。

 

「ゃ……っ!」

 

 いやだ、と思った。ぞわぞわと体を駆け上る“何か”。出てくる、出される、出てしまう。何だろう、これは。わからない。わからないけど、すごくすごく気持ち悪い。

 咄嗟に身を引こうとしたのに、もう片腕に体を押さえられて。にい、と口を歪めた天使の顔は、今まででいちばん愉しそうだった。

 

「君に未来を見せてあげるよ、ミカエル」

 


 

***

 


 

 自分が知っている天界は、こんなに赤茶けた色じゃない。

 もっと緑があって。光が溢れていて。澄んでいて。

 空は、黒じゃなくて、青のはず。

 まるで、空気が赤いみたい。だって全てが赤く見えるもの。

 

 足を踏み出す。ざり、と履き物越しにかたい土の感触。

 ――みんなを探さなきゃ。

 

「ガビィ?」

 

 でも、そこにあるのは土と岩と枯れ木だけで、

 

「ウリィ?」

 

 生き物は何も見当たらなくて、

 

「ラフィ?」

 

 誰も、いない。

 

「兄さま?」

 

 誰も。

 

「兄さま……? 兄さまっ!」

 

 否、いた。ひとり、いた、いた! 彼がいた! 自分はひとりじゃなかった。彼がいれば、もう。

 

 ――けれども。

 

「兄さま」

 

 どうして、地面で眠っているのですか?

 

「ねぇ、兄さま……?」

 

 どうして、顔をあげてくれないのですか?

 どうして、返事をしてくれないのですか?

 衣にまとわりついた黒い影。違う。あれは、伏した彼の身体から流れる、暗い色の川。

 

 どうして、

 ――どうして、兄さまの体まで紅く染まっているのですか?

 

『もう、助からないね』

 

 呆然と立ち尽くす耳元に、声。

 

『彼はお仕舞い』

 

 誰の声だろう? 優しくて、乾いてて、美しい声。

 

『けれど、これが未来』

 

 未来? これが?

 

「いや……っ!」

 

 来るのか、この時が。生きている限りいつか必ず。

 

「い、やだ……いやだ……!」

 

 そんなの、許さない。認めない。

 こんな未来なら、来なくていい。

 こんな未来なら、要らない。

 

『君はどうする?』

「僕、はっ……」

 

 ――否定する。断絶を望む。

 

『このことは誰も知らない。彼も、みんなも』

 

 自分だけが。

 自分だけが知ってしまった未来。自分だけが存在するこの時間。

 消すことも願うことも怖れることも備えることも断ち切ることも。全て、自分にしかできない。

 

 ――兄さまも、知らない。

 

 時を渡る。それは、こんなにも、重い。

 

「ああ……っ」


 漏れた声を聴くひともいない。

 

 ――僕はこの世界で、

 正真正銘の、独りぼっちなのだ。


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