Old Long Since【 L-3 】
ガブリエルは近づく私を見るなり、何故か僅かに苦笑した。
「やぁガブリエル」
「あら、ルシフェル。またミカエルと会っていたの?」
彼女には言っていないはずだが。どうしてわかったんだ?
「なんだかとてもすっきりした顔をしてるわ」
……表情にまで出ていたらしい。
廊下で出会った私達はそのまま並んで歩き始める。向かうのは我々が《談話室》と呼んでいる小部屋。そう堅苦しい話をするわけでもないのだが、一応は仕事に関する話だから私室は避けた。ウリエルやラファエルはもう着いているだろうか。
「ミカエルがとても喜んでいた。ガビィが花の冠を作ってくれた、と」
「あら」
彼女は口に手をあて、クスリと笑う。
「それは良かったわ。ミカエルったら本当に可愛いのよ。“これはお礼です。ありがとうガビィ!”って、小さな花束を作ってくれて。ちゃんと部屋に飾ってあるわよ」
思わず私もつられて微笑んだ。
時間があればあの子の相手をしてやってくれと、彼女らにそう頼んでからしばらく経った。最初はどうなることかと思ったが、話を聞く限り、どうやら楽しく過ごせているらしい。これも皆の協力があってのことだ。
「私からもお礼を。これからも遊んでやってくれ」
「もちろん喜んで。ミカエルといると自然と笑顔になってしまうの。あの子が来てから、宮殿の中がとても明るくなったみたい。きっと他の天使達もそう思っていると思うわ」
優しい天使だと思う。優しく、寛大だ。ミカエルが懐くのもわかる。……これは彼女にとられないように気を付けねばなるまい。と、そんなことを考えてみたりする。
「今、ミカエルは?」
「メフィストフェレスのところにいる」
「ああ、お勉強中? あの子も忙しいのね。そういえば、教育係の天使をつけるとか言ってなかった?」
「この間決まったんだ。アシュタロスという天使だが」
本当ならミカエルには自分がずっとついていてやりたい。常に傍にいて面倒を見たいくらいだ。しかし仕事のない時間に、となると限界がある。だから代わりに、教育係としてひとりの天使を任命したのだ。
「アシュタロス……まだちゃんと会ったことのない子ね」
「まあ比較的新入りらしいからな。私もウリエルの紹介で初めて会った。まだ言うのは早いかもしれないが、努力家で、なかなかよくできた奴だと思う」
私は銀髪の天使の、あの穏やかな微笑を思い浮かべた。礼儀正しいくせに、何を考えているのかわからない。食えない奴だと思ったが、それでも、その意志の強さや素直さが気に入った。
そうだ、初めて会った時、私は奴を驚かせようと騙したのだったな――
「余程お気に入りなのね、そのアシュタロスっていう子のこと。会える日が楽しみだわ」
ところで、とひとしきり笑った後でガブリエルは首を傾げた。
「最近、新しい天使があまり誕生していないわよね。これって……」
「やはり、もうほとんどの環境は整ったと考えるべきだろうな。主が我々をお創りになって、後は我々自身がこの天界を組織していかなければ」
世界という土台があり、そして私達という命が生み落とされた。一個の社会が形成されつつある中で、多分、これ以上の“駒”が増えることはないだろう。私達は“基本的には”不死だから、増える一方では単純に場所が足りなくなると思うのだ。近頃《祝福》をしていないことが何よりの証。
とはいえ、天使以外への《祝福》は時々ある。個々を相手に祈りを捧げる天使とは違って、他の鳥獣や植物の類は新たに誕生した者――その祖のためにだけ祈りを捧げるから、これもいつかは回数が減るかもしれないが。
「……となると、いよいよ大天使や上級天使達の役職をきちんと決める必要があるのね」
「そうだな。これまでのように分担するのではなく、部署をつくるなどして各々に責任者を置いた方が効率が良いかもしれない。あと必要ならば、規律を定めることもあろうな」
私の言葉に、ガブリエルははたと足を止めた。自然、私も立ち止まる。彼女は少し顔を強張らせてこちらを見上げてきた。
「ルシフェル、それって……私達天使が“道を誤るかもしれない”ってことよね」
「……ああ」
「……貴方は、その可能性があると思うのね?」
「ではガブリエルはないと思うのか?」
私の問いかけに彼女は口籠もる。我ながら意地の悪い質問だ。だが。
「私達は意志を持ってしまった。考えることができるようになってしまった。何を以て“道”とするかはわからない……が、世界において他の者が認めないならば、それは悪となり得るだろう。たとえ主観的判断であっても、悲しいことに。だから逸れる者を律する、出来る限りの正義を敷く……そのために我々は創られた。そのために大天使は存在する」
――そして、私がいる。最も主の期待と願いを背負う私が。大天使長として主に愛されるべき私が!
「主がお望みになっておられる楽園を、作ろうではないか」
それは密やかな喜び。主の片腕となるべき自分の、誰にも量られることのない誇り。弟に抱くのとは違う温かな気持ちに、酔って。
「そう……そうよね。私達が頑張らないと。主の御期待に沿うためにも」
彼女は笑う。そして書類を抱え直すと前に向き直った。
「行きましょう。実はもう組織の原案を考えてきてあるの」
「ほう」
やはり、彼女は素晴らしい。主が傍に侍ることをお許しになるのは当然だ。
そう思った私が再び足を踏み出そうとした時だった。
『――兄さま!!』
背後から聞こえた声と気配に振り返った途端、
「おわっ!?」
ぽすっ!、と胸に衝撃。勢いよく飛び込んできたそれを咄嗟に抱き止め、そして驚愕した。
「ミカエル?!」
「兄さま……っ、兄さまぁっ……!」
白く柔らかな羽根が床へと舞い落ちる。腕の中、しきりに私を呼んでぐずる背中をなだめるように軽くたたくと、純白の翼がふっと消えた。
小さな弟をそっと地面におろしてやる。尚も彼は私にしがみついて離れようとしない。
「どうしたのミカエル?!」
「お前、メフィストフェレスのところにいたのではなかったのか?」
困惑する他ないガブリエルと私。
と、またしても何かが来る気配を感じ、私は無意識のうちにミカエルを庇いつつ顔を上げた。
唐突に、何もない空間にぱかりと穴が開いた。奥に見えるのは虹色に揺らめく空間。その中からひとりの天使が姿を現す、というか、転げ出る。
「たっ、大変だよルシフェル君! ああ本当に申し訳ない! 気付いたらミカエル君が――」
「ミカエルが、どうしたと」
「いいいやだからだね! 非っ常に申し上げにくいんだが、どうか罰として天界から追放とかはやめて頂きたいというか、まぁ我が輩にも非はあったりなかったりするのだが、その何というかミカエル君がいなくなってしまってだね……ってぇ?!」
初老の紳士はそこでようやく、私の腕の中にいる天使に気付いたようだった。言葉を失い、数度だけ目を瞬き、やがて力が抜けたようにその場に座り込んでしまう。
「よ……良かったぁ〜! 我が輩、もはやこの世界とおさらばかと思ってしまったよ」
「メフィストフェレス、これは一体」
「いや、一瞬だけ目を離した隙にミカエル君が消えてしまってね。しかし君が連れていったのだね。は、は。道理ですぐに見当たらなかったわけだ。君の《存在干渉》には我が輩の《空間操作》を以てしても、追い付けるはずがないからねぇ」
「……私は何もしていないが」
「………………え」
先生が固まってしまった。だが、やっていないものはやっていないのだから仕方ない。
そもそも私はミカエルが来ること自体を察知できなかったのだ。存在を掌握するはずの、この私が。
ならば……この子はどうやってここに?
「ぐすっ……ごめ、なさい……っ」
私の腰に腕をまわしたままひたすら謝っている天使を見下ろす。指で涙を拭ってやれども、滴は留まらない。
「大丈夫だ、私はここにいるよ」
「ふぇぇっ……」
「誰もお前のことを怒らないから。ただ、お前がどうやって私のところへ来たのかを教えて欲しいんだ」
「わからっ、ない、です。僕は、兄さまに会いたいって、それでっ」
息が詰まるような思いを、した。甘えてくれているのか? いつもどこか私に遠慮する風を見せていた天使。時折申し訳なさそうな表情を覗かせていた天使。彼の、我が儘……。
「ミカエル」
呼べば、また肩を震わせる。
「兄さま、僕……」
「ありがとう」
「……ふぇ?」
頬と鼻頭を赤く染めた天使が、蒼い瞳で見上げてくる。まばたきすると、滴が頬を伝っていった。
「……本当に、お前には悪いと思っている。私は何も兄らしいことをしてやれていない」
「そんなことっ!――」
「だがこれだけは言える。ミカエル、お前を誰より愛している。だからもっと甘えなさい。私に、周りに」
ぱちぱちとまばたき数回。ミカエルは周りを見回した。慈愛の笑みでうなずいた美女に、おどけたように肩をすくめる紳士。彼らふたりと最後に私を再び見上げ、幼い天使は嬉しそうに笑った。
「兄さま……僕、兄さまのお役に立ちたい。早く立派な天使になって、ずっと兄さまのお傍にいたい」
「ああ」
「だからお勉強、頑張ります。でも……寂しくなったら、ちゃんと、言います」
「そうだな。無理はよくない」
私も小さく笑う。間違いなく私は幸福だと、この子が私に幸福を運ぶのだと、そう思った。
「……けれど、どうしてルシフェルが気付かなかったのかしら?」
ガブリエルの呟き声にはっと我に返る。そうだ、まだ終わっていない。ミカエルがここへどうやって来ることができたのか。“私が”背後をとられた? まさか。
「なあミカエル、来る時に何か体に異変はなかったか?」
幼い天使は少し考え、それから小さく声を上げて私を見上げた。
「兄さま、なんだか背中がぽかぽかしました。ちょっとだけ、なのですけど」
「背中……」
背中には、翼……温かく……
「ふぅむ。飛行速度が格段に優れているのか……我が輩はミカエル君が消えてすぐに追い掛けたんだが、あの庭からここまでの距離をこんな短時間で移動するとは」
速度……時間……
「ぁ……」
困ったように髭を撫でたメフィストフェレスの言葉に、私はふと思い出したことがあった。翼は力の鍵。それは忘れもしない、あの日の。
「――《時渡り》」
思わず洩らすと、ふたりの天使がこちらを見る。
初めてミカエルに出会った日、水晶の部屋で白い天使――ザドキエルは言わなかったか。
“名はミカエル。時を渡る才有り……”
気付けば私は、その愛らしい天使を抱き締めていた。
「兄さまっ?」
蒼い瞳をまるくして見上げてきた顔の、額にかかる金髪をかき分けて口付けを落とす。
「やった……やったぞミカエル!」
何と喜ばしいことか! とうとうこの子の才能が開花したのだ。今日は何を放ってでも祝ってやらねばなるまい!
「……えー、と。ルシフェル? どういうことか説明してくれるかしら?」
嬉しくて嬉しくて大喜びしていた私に、ガブリエルは遠慮がちに声をかけてきた。横のメフィストフェレスもうなずく。お前達、顔が若干引きつっていないか?
一方で歓声を上げて抱きついてきたのは愛しい弟。彼の頭を撫でつつ、私は主にふたりに向けて口を開く。
「ミカエルが生まれつき授けられた能力は“時”を操る力だと。恐らく無意識のうちに時間を止めて、私のところへ来たんだろう。だからメフィストフェレスには一瞬で消えてしまったように見えたし、私にも掌握できなかった。時を渡る力とザドキエルが言っていたから、きっと完全に覚醒すれば、過去や未来に渡ることも可能なはずだ」
ふたりは驚いたように顔を見合せ、そして小さな天使を見つめた。
体は小さいが、この子の力はすごい。使いこなせるようになれば、私をも凌ぐかもしれない強大な力だ。悔しさは、全くない。ただただ嬉しいのだ。
時を渡る……それはすなわち歴史を変える力。
と、そこまで考えて、私はある恐ろしい可能性に思い至った。もし――万が一にも――私とこの子の力を同時に行使したなら……歴史、否、“運命をも変えられる”。
「あぁ……」
――主よ、何という重荷を。
思わず腕に力を込めた。不思議そうにしている顔を、そっと見下ろす。動揺を悟られないように。
「ミカエル。これからお前は、その力の使い方を身に付けねばならない。更にやるべきことが増えて大変とは思うのだが、どうか頑張ろう、な?」
彼にそれを教えるのも私達の役割に違いない。主がお与えになった、私の責のひとつ。
「はい、兄さま。僕、頑張って、早く兄さまのように立派な天使になりますね!」
うなずく小さな天使の瞳の中には不安の色は見られない。まっすぐな光、澄んだ眼差し。
弟ひとり守れずに、道を敷くことなどできはしまい。私が授けられた力と、ミカエルが授けられた力。どうして我々が兄弟なのか、その理由が少しだけわかったような気がした。