Old Long Since【 M-2 】
「ガビィが花の冠を作ってくれたんです。ウリィに見せに行ったら“似合う”って言ってくれたんですよ」
「ほう、あのウリエルが」
紅茶を飲みながら、まばゆい白衣を着た兄が微笑む。ここは兄の寝室――通い慣れた場所。大天使長である彼は仕事途中ながらも、自分のためならと時間を割いて会ってくれる。それが、堪らなく嬉しい。
「私も是非見たかったな。お前なら何を身に着けても、さぞ可愛らしいことだろう」
「今度兄さまも一緒に行きましょう? 兄さまにも僕が冠を作ってあげます」
「ああ。楽しみにしているよ」
兄が多忙の身であることはわかっている。けれど、どうしても会って話をしたくて。
ここに来てから二十余りの朝と夜を数えたが、仕事中の兄の姿はたまにしか見たことがない。まだ自分は宮殿の生活に慣れるまでと、“外”にいた時とあまり変わらない毎日を過ごしているから。それでもこの柔らかな微笑みは、きっと自分にしか見せていないと思う、思いたい。
「しかし、よくウリエルがウリィと呼ばれて文句を言わないな。ウリィとガビィと……ラファエルは?」
「ラファエルさまは、ラフィです」
「ああ、そうだったか」
くつくつと兄は肩を揺らす。理由は、よくわからないけれど。
そもそもあだ名で呼んでいいと言ってくれたのはラファエルが最初だ。ラファエル、という名を上手く発音できずにいたら、蒼の天使は微笑んで、「では、ラフィでいいですよ」と言った。それ以来、他の大天使にも呼びやすい名をつけることにしている。ガブリエルはガビィ、ウリエルはウリィというように。
彼らも暇を見つけては構ってくれるので、とっても大好きだ。……もちろん兄の次に、だけれど。
「私には、ないのか?」
「え?」
「私に呼び名をつけるとしたら?」
言われて少し考える。難しい、と思った。うつむくと、両手で持った器の液面に自分の顔が映る。
「兄さまは……兄さまです」
思うままそう言うと、とうとう兄は吹き出した。彼が声をたてて笑うのなんて珍しいから、つい呆気にとられて見てしまう。
「そうか……ふふっ、なるほどな」
くしゃりと撫でられた頭がくすぐったい。何にせよ、兄が喜んでくれるのなら自分も嬉しい。
「あ、それからっ――」
まだまだ話したいことはたくさんあるのだ。兄に喜んでもらえるような楽しい話がたくさん。一体どれから話そうか。
そう、思っていた時だった。
「ルシフェル様」
扉が軽く叩かれる。二回。
「入れ」
「失礼致します」
入ってきたのはひとりの天使。長衣でないということは、きっと兄の従者のひとりだろう。その兄が一瞬だけ不満げに口を曲げていたのは、多分、自分にしか見えていない。
「どうした、ヨハン」
ヨハン、という名を頭の中に刻む。兄の従者はとにかく多い。まだ全員の顔を見たことがないくらい。
「ルシフェル様、そろそろ」
「ああ、もう時間か」
独り言のように呟き、天使の長は立ち上がった。
また、行ってしまうのか。残念な気持ちで見上げると、大きな手のひらで再び頭を撫でられる。
「そんな顔をするな。夜に会えるだろう」
そう、眠る時は一緒。入殿した日以来、夜はずっと兄の寝室に通っているのだ。けれど夜はどうしても眠くて、どんなに起きていようと頑張ってもつい寝入ってしまう。だから、あまり話ができない。
「兄さま」
「ん?」
ちょっとだけ、わがまま。兄の白衣を引っ張る。もう少しだけ話をさせて欲しい、と。
「ヨハンは、どんなお仕事が得意だったのですか?」
「ああ、ヨハンは確か……彫刻、だったな?」
「は、はい。主に木を」
「では兄さま、この間の、フィオンは?」
「あれは矢の扱いに長けていた」
「ガルドは?」
「鍛冶屋だった」
「アルベルトは?」
「鳥獣の知識が豊富だから」
「ラケルは?」
「裁縫が上手いな」
「じゃあ、……」
「ミカエル様、ルシフェル様」
呆れ顔のヨハンに遮られ、口をつぐみ、兄と顔を見合せて笑った。せっかく楽しくなってきたところだったのに。
「恐れながら申し上げますが、大天使の御三方がお待ちかと」
「仕方ない、行くか」
肩をすくめた兄は、まるで気乗りしないと全身で語っているかのよう。彼がそうなら……と甘えたくなる。
「あの、兄さま――」
「ん?」
寂しい、行かないで、なんて。
つい言ってしまいそうになる言葉を飲み込む。これ以上は、だめ。兄は、自分の兄であると同時に大天使長なのだ。こうして時間をとってくれるだけでも、かなりの負担に違いないというのに。仕事の合間にわざわざ私室に足を向け、夜だって必ず自分が眠るまで起きていてくれて、貴重な休養日でさえも相手をしてくれる。
忙しい彼のために自分ができる最大限のことは、優しい彼に極力気遣わせないように頑張ること。難しいけれど、きっと我慢することも必要なのだ。
「……いえ。お仕事、頑張ってくださいね!」
「ああ。なるべく早く戻るからな」
膝の上でそっと手を握りしめ、彼が安心して仕事に行けるようにと微笑う。胸の辺りがきゅうっと痛くなる。兄の背を見送る時はいつもそう。病気なのかな、と密かにドキドキしているのだけど。でも大丈夫、平気。
それに、自分もこれから行かなければいけない所があるのだ。
「ヨハン。ミカエルをメフィ先生のところへ」
「御意」
「……くれぐれも手を出すなと言い含めておけ。もし道中など、何かあればすぐ私に知らせろ。良いな」
「は、はい」
何やら低い声で兄が言い、戸口に控えていたヨハンがびくっと肩を震わせた。ひとりで首を傾げていると、兄は退出しかけた足を止めて振り返る。
「そうそう、お前の教育係が決まったぞ。後で紹介しよう」
「はい、ありがとうございます」
自分に世界のことを教えてくれる天使をつけるのだと、そう兄は言っていた。期待と緊張が半分ずつ。ちょっぴり、楽しみな気持ちの方が多いかもしれない。
兄には大切な仕事、そして自分は早く一人前になるための勉強が待っている。頑張らないと。
「で……では、行きましょうか、ミカエル様」
兄が立ち去り、ぎくしゃくと動きだした天使にうなずき返す。握った手には汗をかいていた。大丈夫かな、ヨハン。
しかし今何よりも気になっているのは……これから会わねばならない“先生”のことだった。
***
「おぉ〜ぅ! よく来たねミカエル君!」
宮殿の敷地内、その端の方にある庭園。何度も来ている場所、何度も会っている“先生”、……それなのに。
「いつ見ても可愛いっ!」
自分のことを抱き締めてくれる天使の対応は、毎回過激になっている、気がする。頭を撫でたり、抱き締めたり、頬に口付けたり。
「唇はさすがに兄君に怒られてしまうからねぇ。でももう彼の従者は帰っちゃったから、誰も見てないもーんっ♪」
「あ、あの、メフィ先生?」
「ああもう何この可愛い生き物! 我が輩も欲しい! 何故我が輩には弟がいないのかっ!」
きつく抱かれて途方に暮れてしまう。ヨハンがいたらこんなことしなかったのかな。彼も忙しいからすぐにいなくなってしまった。
かなりご機嫌なメフィストフェレス先生。先生のことはもちろん大好きだ。優しいし面白いし、格好いい。ただ会う度にされるこの挨拶だけは、たまにやめて欲しいなとも思う。
一通り頭を撫でると、やっと先生は体を離し、帽子を被り直して片眼鏡を押し上げた。金色の鎖のついたその眼鏡が、先生にはとっても似合う。
「いやはや癒されたよ。ありがとうミカエル君。……だけどこのことは、くれぐれもルシフェル君には内緒でお願いするよ。でないと、我が輩の命が危ない」
そして毎回こう言われるから、兄には話さない。まさか兄が何かをするとは思えなかったが、なんとなく、言ったらまずいと思っているから。
「本当に君達兄弟は美しいよ。こうして一緒にいられる我が輩は幸せ者だ」
「あの、メフィ先生。今日は何をお勉強するんですか?」
「うむ、勉強熱心なのは素晴らしい」
そう言って、兄よりもずっと年上に見える天使は、側にあった小さな円卓の方へと手招きする。
「座りたまえ。今日は公式な場での礼について教えよう」
先生は礼儀作法について教えてくれる。聞けば、かつて兄も教わったのだとか。これも立派な天使になるための大事な勉強なのだ。
だから……だから、わがままなんて言えなかった。
「どうしたね、ミカエル君?」
「いえ……何でもありません、先生」
せっかく色々なひとが自分のために時間を作ってくれているのに、まさか自分だけ“彼に会いたい”だなんて、言うわけにはいかないのだ。
……そんなことを思っていたからだろうか。
「疲れたかね。少し休もうか」
「いえっ、大丈夫です」
「しかしなぁ……」
どうしても、教わったことが頭に入らない。礼の仕方や挨拶の手順も何度もやり直し。集中すれば簡単なことなのに。先生を困らせていることもわかっているのに。
「いつもの君らしくないな。昨日はきちんと睡眠をとったかね?」
「は、はい。ちゃんと――」
――ちゃんと、彼の腕の中で。
あの温もりが傍になくて寂しいと思った。甘やかな香りが恋しいと思った。また、胸が締め付けられるように痛くなる。
「ミカエル君」
とうとうメフィ先生はため息を吐いた。せっかくこうして時間を割いてくれているのに……。申し訳なくて自分が情けなくて、ごめんなさい、と呟くように口にする。下手に話すと泣いてしまいそうで、そうしたらもっと困らせてしまうとわかっているから。
「謝らなくていいんだよ。君は最近とても忙しい。慣れない生活で疲れてしまうのは仕方のないことだ」
「……」
「ふむ……何か気になっていることがあるようだね。良ければ、我が輩に聞かせてもらえるかな?」
覗き込んでくる瞳は優しい。それが、大好きなひとの面影に重なって。
わがままを言ったら、みんなに迷惑がかかってしまう。でも……
「――ごめんなさい、メフィ先生っ!」
「へっ?」
立ち上がり、駆け出す。
「みっ、ミカエル君――?!」
先生がぽかんとしている間に、翼を出して地面を蹴った。走るより飛ぶ方が速いはず。
もっと速く。
願うと、背中が熱くなったのを感じる。ちょうど翼の付け根の辺り。ふわりと体が軽くなった、気がした。
すぐに捕まってしまうかもしれないとか、後で怒られるかもしれないとか、そんなことは考えなかった。願いはただひとつ。彼に――兄さまに、会いたい!
必死に翼を羽ばたかせるとどうだろう、今までにないくらいの速さで飛んでいた。
宮殿の中へ飛び込み、廊下を滑り、幾度も角を折れ、そうしてようやく見つけた長身。
「兄さま!!」
無我夢中で、彼に飛び付いた。