Old Long Since【 L-2 】
――コン、コン
「ルシフェル様、アルベルトです」
「開いている」
私は外の闇を見ていた目を、扉の方へと向けた。
「失礼致します。夜分に申し訳ありません」
寝室に入ってきたのは、私の下で働いてくれている天使のひとり。金髪に冴えた碧眼の彼は、淡白な表情のまま丁寧に頭を下げる。常に冷静沈着な切れ者……というのが私の印象。愛想がないわけでは、ないのだけれど。
「良い。どうした」
「はい。メフィストフェレス様より伝言でございます。“慎んでお受けする。後程そちらへ伺うから、その時に弟君の顔が見たい”、と」
「ご苦労だった。承知の旨を伝えてくれ」
「かしこまりました。それと、その……」
「うん?」
――おや、アルが口籠もるとは珍しい。
彼は視線を彷徨わせ、何やら言いにくそうにしていたが、やがて意を決したようにおずおずと口を開いた。
「ぶ、“舞踏会なんてやらないかね《紅き剣》殿!”……とのことです……」
「…………」
「…………」
「……考えておく、と言っておけ」
「かしこまりました……」
まったく、相変わらず祭事の好きな紳士だ。疲れ切ったような従者が再度一礼して出ていったのを見送り、嘆息。
……実のところ、私に対して気安く話し掛けること――例えば、舞踏会の誘いなぞ――は形式上は許可されていない。だが大天使長たる私にも“先輩”はいる。天使達をまとめるために生まれたのが私だから、私よりも以前から天界にいた者というのは少なくない。あまり身分にはこだわらないようにと、かつて私自身が宣言したのだ。
現に上級天使や直属の部下以外であっても、公式な場を除いて、私や大天使に対する最敬礼は免じてある。……そうは言っても、彼らは反射的に膝をついてしまうことが多いのだが。
「……さて」
そろそろ休むとするか。今日はずっとミカエルについていたから、明日は少々仕事が増えるだろう。
私が衣の襟元に手をかけた、その時。
――……コンコン
またしても扉を叩く音。遠慮がちな小さな音ではあったが。
「開いている」
今夜は訪問者が多いな。まさか、もう伝言を返されたわけでもなかろうに。
「どうした? 入っていいぞ」
ところが扉の外は静かなまま。私は訝しく思い、自分の手で扉を開けた。
「何用だ……って、」
全く思いもよらなかった。とっくに眠っているだろうと思っていた小さな天使が、枕を抱き締めて、恐々と私を見上げていたのだ。
「ミ、ミカエル? ええと……ひとり、か?」
「はい……」
「よく迷わずに……。一体どうした?」
「…………」
ミカエルは頬をさっと紅潮させ、か細い声で呟く。
「……眠れ、なくて……」
「え?」
すみません、と更に小さな声で呟くと、彼は枕を抱く腕に力を込めた。
……なんと、可愛いのだろう。いとおしくて、自然と顔が綻んでしまう。
「寂しくて……兄さまに会いたくなって。あの、迷惑……ですよね」
しょんぼりと俯いた顔にさえ愛らしさを感じてしまう。いつまででも見飽きない。けれど、やはりこの子の笑顔が、見たい。
「全然そんなことはないよ。よく来てくれた。早く中に入りなさい、体が冷えてしまう」
「あ……ありがとうございますっ」
ぱっと顔を輝かせた弟を部屋の中へ招き入れる。本当に、誰が迷惑だなどと思おうか。こんなにも傍にいて欲しいと願っているのに。
「私も今から休むところだった。一緒に寝るか?」
「いいのですか……?」
「無論。すぐ着替えるから、先に入っていなさい」
既に白い夜着を着ているミカエルが毛布に潜るのを視界の端に捉え、自分も仕事用の上衣を脱いで、緩い白衣を身につけた。
……別段見られて困るものでもないのだが、なんとなく、ミカエルの目には入らないように気を配りつつ衣を替えた。そうして最後に、ウリエルに作ってもらった首飾りを服の内側に入れる。鎖を絡ませてはならないから。
すっぽりと布に包まった小さな体を、そっと腕の中に抱いて横になる。並んで寝られない広さではないけれど、この方が温かくて良い。
ミカエルは少し躊躇いながらも、こちらに身を寄せてきた。私は彼の柔らかな金髪を、静かに指で梳いてやる。
「兄さま、いい匂い……」
くすぐったそうに笑った顔がとても可憐で。こんな距離では、鼓動を聞かれてしまうのじゃないかと思った。
「あの、兄さま」
「……ん?」
温かさと僅かな疲労感に微睡んでいた時。腕の中から声が聞こえて、私は瞼を持ち上げ、目線を下に移した。
「ぼく、兄さまにお会いできて、とっても嬉しかったんです」
「……そうか」
「でも……」
長い、金色のまつ毛が伏せられる。
「……やっぱり、みんなとお別れするのは、寂しくって……」
――ああ、これは失敗だった。
声を震わせた小さな天使を見てふと気付く。急に仲間と引き離したこの子をひとりきりにさせるのは、果たしてなんと酷なことだったか。
「……すまなかった。これは私の我が儘だ。お前の意志も考えずに……」
「いえ……ぼくはせっかく主に選んで頂いたんです。たとえみんなと会えなくっても、頑張って――」
……む?
「ミカエル?」
「……はい?」
「入殿しても、皆には会えるぞ」
蒼く澄んだ双眸が、私を見上げる。
「お前が望むのなら、また外で遊んできても構わない。まだ本格的な仕事はないだろうしな」
きょとんとした表情が、みるみるうちに明るくなっていく。彼は濡れた目をごし、と擦って笑った。
「じゃあ、みんなと会ってもいいんですね……?」
「ああ」
小さく歓声をあげて、ミカエルは私に抱きついた。胸に押し当てられる小さな頭。
どくん、と体の内側で何かが跳ねる。鼓動が背筋を伝い、全身に反響するかのような。
「良かった! またみんなと遊べる!」
可愛くて、堪らなくて。私は思わず彼を抱き締めた。壊さないよう繊細に、離さないよう力強く。急な動きに寝台が軋む音をたてる。
「に、兄さまっ?」
鈴のようなその声も、波打つ金の髪も、泉の如く深く澄んだ蒼眼も、透き通った白い肌も、精巧な銀細工を思わせる細い手足も、……純白に輝く翼も。何もかもがいとおしくて堪らない。自分でも訳がわからないほどに、この子を抱き締めていたい。
こんな感情は初めてだ。“兄”とはこういうものなのか……?
「ミカエル……」
美しい響きを、口にする。
「お前を待っていた。ずっと、ずっと」
白い《器》がいるあの部屋で、一目見た時から。
「何があろうと傍を離れたりはしない。お前は私の幸福であり……そしてお前を幸せにするのは、私だ」
「……ぼくも、」
小さな手に懸命に力を入れて、ミカエルは穏やかな顔で目を閉じた。ああ、美しい――。体が熱くなるのを感じながら、やがて、腕の中からくぐもった声。
「ぼくも、ずうっと兄さまのお傍にいます。ちゃんと、早く大きくなって、お仕事も頑張ります」
言葉を紡ぐ度にその微かな振動が、熱い吐息が、まるで酒のように私を酔わせる。どうしてここまでこの子に固執してしまうのか、我ながら不思議なくらいに初めての感覚ばかり。
少し、迷った。もしこの感情が私だけのものなら……これ以上の勝手はない。
それでも今は、腕の中の幸せそうな微笑みを信じさせてもらおう。
「大好きです、兄さま」
その、言葉を。
「……私もだ、ミカエル」
どうか、信じさせてもらおう。
「愛しているよ」
他ならぬ小さな天使にだけ聞こえるように囁いて、柔らかな髪に口付けを落とす。
言葉を告げるのは難しくない。しかしこの想いが心に染みるまで、焦らずゆっくりと愛を伝えていけば良い。時間は、いくらでもあるのだから。
「……もし――お前が望むのならば、この先もここで眠って構わないからな。寂しくなったら、いつでも遊びに来るといい」
「本当、ですか?」
「ああ。昼間に私が仕事で居なければ、他の天使達のところへ行くのもいいだろう。私からはきちんと伝えておくから、色々と話を聞いてきなさい」
「はい、兄さま!」
「良い子だ。……さあ、今夜はもうおやすみ――」
元気にうなずいた宝物を抱きながら、私は最高に幸福な気持ちで眠りに就いたのだった。




