Old Long Since【 M-1 】
これが、兄の。
「寝室だ。殺風景だろう」
「ひろい……」
大きな手にひかれ、長い廊下を歩き、やっと辿り着いたのは兄の自室。
広々とした空間に家具は寝台や机や本棚のみ。兄が自分で言うように物は少ない。個人の部屋でこれほど広いものは見たことがなかったけれど、物がないのがなんだかちょっぴりもったいない気もした。
机の上には紙が広げられているが、細部まできちんと整頓されている様子が伺える。兄は、几帳面なのだ。
「適当に座っていなさい。今、何か甘い物を用意しよう」
そう言って奥へと向かった背を目で追い、しかしすぐに、言われた通りに寝台へと腰掛けた。天蓋つきの、細かい彫刻が施されたもの。座り心地に密かに感動していると、向こうから戸棚を開け閉めする音が聞こえてくる。彼と同じ空間にいる――そう思うだけで緊張してしまう。
「ええと……ああ、酒しかないか。困ったな、茶葉も切らしている……」
不意に呟かれた独り言。
「あの、兄さま」
「どうした?」
「兄さまも、お酒、飲むのですか?」
「ああ。まあ、多少嗜む程度にはな」
まだ何か探しているのか、声はすれども戻ってきてくれない。気を紛らわせようとゆっくり室内を見回してみる。
物が少ないと思ったけれど、本当はそれほどでもないのかもしれない。もともと広い部屋だというのもあるし。だってよくよく見れば面白そうなものがいっぱい。
机上にはきらきら光る宝石みたいな――あれは、飴玉?――が入った銀の小さな籠、くるりくるりと一定の間隔で時を刻む金色の輪の模型。壁には晴れた日の庭園を描いたような風景画、もちろん光の差し込む大きな窓もあるし、それとあの長剣は本物かな、向こうに見える水晶の玉を覗いたら何色の世界が見えるのかな……。
きちんと整頓されて、みんな、静かにそれぞれの場所に納まって自分のお仕事をしている。きれい過ぎる場所というのは緊張するものだけど、居心地はむしろいいくらい。これが、兄の“色”なのだもの。一から十までみんな好き。
「悪いな」
色々ととりとめもないことを考えていると、ようやく兄が手に銀のお盆を持ってきた。
「飲み物がないのだが、我慢してくれるか」
「はい」
彼は小さな机を引っ張ってきて、お盆をその上にのせた。それから自身はすぐ隣、同じように寝台に座る。ふかふかの綿が重さに沈み込む。
「さ、お食べ。私の大好きな菓子だ」
向けられた微笑みに胸が高鳴る。よく研がれた刄のように美しい天使の、鋭さがほんの少し隠れるこの瞬間が堪らなく好きだな、と思う。
「いただきます」
山盛りにされた薄茶色の小さなそれは、見た目は焼き菓子のようだった。ちょっとだけかじってみると、途端に口の中に甘い香りが広がる。甘く、どことなく懐かしい香り。
「おいしい、です」
「だろう。疲れた時は、甘い物を食べると気分が落ち着く」
言いながら、彼は数個目を口に放り込んだ。噛んで、飲み下す。上下する喉の動きをぼんやりと眺め、“おとな”なのだと、改めて思う。それに兄は自分よりも遥かに男性的な気がする。
おいしい菓子を、そのまま自分も一緒に食べ続けたくはあったけれど、まず、たくさんの疑問を解決してしまいたい。話し掛けるのは、やっぱり少し緊張するのだけど。
「あの、兄さま。兄さまは“だいてんしちょう”なのですよね? さっきご挨拶した方々も“だいてんしちょう”なのですか?」
「ラファエルたちが?」
「だって、兄さまの前でも膝をついていませんでした」
紅の瞳できょとんとこちらを見つめ、やがて彼はああ、と破顔した。
「違うんだよミカエル。大天使長というのはただひとり、私だけなんだ。この衣、他に着ている者を見たことがないだろう?」
そう言って上着をつまんで見せる。そういえば、確かに、白衣に金色の刺繍が入っているのは兄だけだったかもしれない。
「これがその証。この天界に唯一の衣だ。お前が先に会った三名は大天使。あー、と。そうだな、私が彼らの代表だと思ってくれればいい」
兄が、大天使の代表。
「兄さまが、天界でいちばん?」
「一番は主だよ。しかし、そう考えても間違いではないかもな」
くすっと笑った表情は柔らかくて、ひたすらあたたかいのだけど。そこに厳しさは少しも窺えないのだけど。
それでも、天界でいちばん。本当に兄はすごい存在なのだ。思わず感激していたら、おもむろに彼は頬杖をついてこちらを覗き込んできた。
「……なるほど。我々と違って、知識を授けられずに生まれたのだな」
誰に言うともなく呟かれた言葉。自分が、兄を困らせてしまったのだろうか。
「すみません、ぼくが」
「構わん、謝るな。むしろその方が楽しくなる。我々が色々教える楽しみができた」
加えて、「そうだな……」と呟く。
「礼儀についてはメフィストフェレスがいるから問題ないな。あとは誰か教育係を……」
「めふぃすと……?」
難しい単語、聞き取れなかった。彼は何も言わずにただ笑む。
でも、兄が考えることなら間違いはないのだろう。そのまま再びお菓子をつまみ始めた兄に従って、ふたつめを口に入れる。
「これは何のお菓子ですか?」
「花の蜜で作った焼き菓子だよ。外に咲いている白い小さな花、見たことがあるか?」
「あのたくさん咲いていた、小さなお花でしょうか?」
草原の一画を埋め尽くすように咲いた花を見たことがある。花の中を駆けると甘い匂いがしたのを覚えているが、あの小さな花から、こんなにもおいしいものができるなんて。言われてみれば憶えのある香だった、かも。
……そういえば、みんなはどうしているだろう。一緒に花の中を駆け回った友人たち。彼らは今も野原で遊んでいるのだろうか。
彼らにゆっくり挨拶をする間もないくらい、宮殿に連れてこられたのは唐突だった。それまで自分の世界は、同じように生まれたばかりの天使が集う広い家――宮殿とは比べものにならないけれど――が全てだったのに。
『ミカエル様。大天使長様の命により、お迎えに上がりました』
いきなり目の前に現れた天使に手をひかれ、そして。
『ミカエル……ずっと、待っていた』
彼と、出会った。いや、“再会”したのだ。
何故か泣き出しそうな笑顔で、切ない声を絞りだした黒髪の美しい天使。断崖に佇む姿を見たあの日以来、ずっと頭から離れなかったきれいなひと。
彼を前にした瞬間、誰に教えられたわけでもないのに、体が勝手に礼の姿勢をとっていた。それまでしたこともない最敬礼。翼を折り畳み、膝をつき、頭を垂れて。何事かを言った気がするが、自分でももう覚えていない。それに応えて何か重々しい口調で言われたはずなのだけれども、それも思い出せない。
『兄さま……』
ただ、最後に顔を上げて、あの紅い瞳を見上げて、初めてそう呼んだ時のことは忘れない。それに返された、誰よりも美しい天使の美しい微笑みも。
緊張していたのは初対面だからという理由だけではなかった、と甘い塊を噛み砕きながら思う。今までに見たどの花にも、どんな景色にも勝るその美貌に、畏縮してしまったに違いなかった。
「羽根はしまえるようだが……」
ふと気付くと、切れ長の紅い瞳がまたこちらを見つめている。
羽根……そうだ、確かに仲間たちの中で翼を自由に出し入れできたのは自分だけだった。
「普通、生まれたばかりの天使は翼をしまうことはできないはず……天使としての力は与えられたか……?」
そういうものなのかと納得した。翼を消せることは、身を隠す時にとても有利だったのだけれど。
ぼうっと考えながら、なんとなく口の中のものを飲み込んだら、
「――こほっ、けほっ!」
……むせてしまった。と、
「大丈夫か?!」
かなり焦った様子の兄に、大きな手のひらを背中にあてられる。まだ声を出せなくて、それでもうなずいてみせたのだが。
「いけない、この菓子はやめよう!」
そう言って素早くお盆を片付けてしまった。惜しい気もしたけれど、兄が自分を心配してくれているなんて、すごく嬉しい。
「大丈夫か?」
「は、はい。ありがとうございます」
「良かった……。お前に何かあったら大変だ。すまなかったな」
顔が熱くなるのが自分でもわかった。なんだか恥ずかしくて、また口を開く。
「あ、あの、兄さま。たくさんお聞きしたいことがあるのですけど」
「ああ、構わないよ」
まず何から聞こうか。知りたいことが多過ぎて、上手くまとまらない。
暫く考えて諦めた。ちょっとずつ順番に聞こう。そうしたら、兄と長い時間を一緒に過ごせる。
「ええと……大天使さまとぼくたち以外にこの宮殿にいるのは、どんな方たちなのですか?」
この部屋へ来る途中、何名かの天使と廊下で擦れ違った。服の裾をつまんで軽く礼をした天使もいれば、気安そうに兄に手をあげて挨拶した天使もいた。いちいち聞いていたら大変なので、その度に黙って頭を下げていたけれど。
「いわゆる上級天使と呼ばれる天使達は、ここへの入殿を許されているんだ。大天使ではなくともな。彼らも生まれつき特殊な能力を授けられた者達だが、最初からこの宮殿で暮らしていた者もいれば、お前のように、成長してから私が迎えを遣った者もいる」
「……あの、ひょっとして」
「ん?」
「ぼくも、上級天使……なのですか?」
「そうなるな」
驚いた。ということは、自分にも何か力が備わっているのか。
聞いたことがある。宮殿内にいる高位の天使たちは、天界を治めるためにその力を行使するのだと。
「案ずるな。今はわからないままであることを、主が正しいとなさったのだから」
兄は穏やかに言い、頭を撫でてくれる。それだけで心強くなるのだから、不思議だ。
「では、兄さまにも特別な力が?」
「ああ。私の能力は、」
唐突に、兄は空中で手を動かした。何をしたのかと辺りを見渡して、やっと気が付く。
「あっ」
「存在干渉能力。……実に恐ろしい力だよ」
いつの間にか、目の前にあったはずの小さな台が部屋の隅へと移動している。きっと、ものを一瞬で動かす力なんだな、と思った。だから最後に静かに付け加えられた言葉の意味は、よくわからなかった。
「……ふむ、少し語弊があったか」
彼は顎に手をあて、ひとり、ふと首を傾げた。
「そうだな、うん。ミカエル、さっきは特殊な能力と言ったが、あまりそこにはこだわるな」
「え?」
「上手く説明できないが……入殿を許された天使とそうでない天使の間には、言葉にはできなくとも明確な違いが確かにある。いずれ、お前も成長すればわかるようになろうが……。我々が授けられた能力というのはその一端に過ぎない。今はただ――主が重要な役割をお与えになった者が、上級天使と呼ばれるのだとだけ思っておけばいい」
「役割、ですか?」
「そう。我々天使の判断ではない。全ては、主の御心のままに」
よく、わからない――言い掛けた先を、優しい微笑が遮った。
「いつかわかる時がくる。それまでお前の仕事は頑張って成長することだ。良いね」
兄が言うなら、そうなのだろう。ただうなずいて、今は、少し強い天使さまが選ばれて宮殿にいるんだと考えておくことにする。
「しかしだからと言って、“外”にいる天使達を軽視することはあってはならない。彼らがいなければ天界は天界ではないし、上級天使達も生きることができないのだから。焔に価値の上下はないのだよ。必要のない生を主はお創りにはならない」
「はい」
神妙な気分で、うなずく。
「ん……ここにいるのがどのような者達なのか、だったな。あとは各々上級天使達が優れた天使を見つけ、自分の下で従者として働いてもらっている。宮殿の外にいる天使というのは様々な職能を持っていて――」
「しょくのう?」
「私達の暮らしに必要なものを提供してくれる技能のことだ。例えば服や家具、菓子を作るとかな。彼らのおかげで私達、大天使の生活も成り立っている。上級天使はそういう技能に長けた者を“外”から連れてくることがあるんだ」
「兄さまも?」
「まあな。後でお前にも、身の周りの世話をする者をつけよう」
もし自分が弟でなかったなら、従者としてでも兄の傍にいたいと思っただろう。そのために仕事を一生懸命やっていたかもしれない。
「ああ、そうだ。そろそろお前の部屋も用意されていることだろう。行ってみるか」
「はいっ」
運が良ければ、兄の従者たちを見ることができるだろう。それもちょっぴり楽しみで、跳ねるように寝台からおりた。