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第2話:彼の願いと彼女の戸惑い

 襟刳りの大きく開いた七分袖のシャツは普段着にしているようだけど、外で着ないのがもったいないくらい、醸し出される色気が尋常でない。いや正直なところ、独り占めしたい気持ちの方が大きいのだけど。剥き出しの鎖骨についつい目がいってしまうのは、女の(さが)ってものですよね?

 頭を振って邪念を払う。しかしまたしても、どうしても彼の姿を目で追ってしまう。台所で動くルシフェルの背中は、まさしく男の人のそれだった。細身のくせに、なんだか逞しい。人生経験の差ってやつのせい? あれ、堕天使生?

 肩甲骨の辺り。あそこに翼があるのだと思うと、それもまた変な感じ。

 こうして彼に見惚れてしまう時、彼が堕天使で良かったなぁなんて、ふと思うのだ。堕天使じゃなかったら、こんなイケメンとは間違ってもお近づきになれなかっただろうから。まして一緒に住むなんて!


 ちょっぴり悲しくなりつつ、目の前のチョコレートを口に放り込む。学校帰りに夕飯の買い出しのために寄ったお店で、おいしそうだったから勢いで買ってしまったチョコ。夏場なのに、ってツッコミはノーセンキュー。高かったんだよ。

 で、ルシフェルが台所にいるのは、コーヒーをいれるため。さすがに夕飯までは任せられないけど、堕天使様だってちょっとは進歩してるのです。

 学校から帰って来たあたしがお菓子を持っていることを知ると、彼は大喜びでおやつタイムの準備を始めたのだ。食べ物のためなら労力は惜しまないらしい。まあ、まだ夕飯まで時間もあるからね。

 

「できたっ」

 

 甘党魔王め。甘い物があると、ルシフェルはかなり上機嫌になる。

 コトン、と置かれたマグカップ。熱々のホットコーヒー。気温とか気にしないのが堕天使長クオリティ。

 カップの中身を瞬時に確認して、コーヒー色であることにそっと安堵する。失礼に思われるかもしれないが、これは長きにわたる彼との生活で身についてしまった癖なのだ。お坊ちゃんの料理(?)に対する防衛本能。本人には内緒だ。多分しょげるだろうから。

 少し冷ましてから、一口。

 

「……ん。上手くなったね」

「だろう?」

 

 ルシフェルは嬉しそうにはにかんだ。

 砂糖を一匙と牛乳を少しだけ。あたしの好きな味を彼はわかってくれている。

 そして当人の好みはといえば、もちろん甘いコーヒー。外出先では格好つけてブラックを頼んでいるけど、本当は砂糖もミルクもたっぷり入った甘いカフェオレが好きだってこと、ちゃんとあたしは知っている。

 ブラックも、別に嫌いではないようだけど。いつもそれと一緒に注文するケーキやパフェを嬉々として頬張る姿は、いくらブラックコーヒーを飲んでいようと、もはや可愛いという印象しか周りに与えないのだが。

 でもそんなあたしでさえも、ルシフェルが自分のカップの中身をかき回す度にジャリジャリとあり得ない音がするのにはビビった。どれだけ砂糖入ってるんだよ。

 言わずもがな今回も。チョコと甘々な飲み物って合わなさそうだけどなー。テーブルに伸びた彼の腕を見て思わず苦笑する。

 

「これ、何か入ってる?」

 

 ほっそりした指がチョコをつまむ。それを鼻に近付けて匂いを嗅ぎながら、ルシフェルは首を傾げた。

 

「オレンジがちょっとね」

「ふうん。甘酸っぱくて、良い香りだな」

 

 そのままチョコは口元へ。

 ……何故だろう。目が離せない。

 桃色をした薄い唇が微かに開かれ、先を差し込まれたチョコレートが、そこに触れる。体温と吐息で溶かされた黒い塊を、前歯が小さな音と共に割る。

 残りの半分が完全に口の中に消え、コーヒーで濡れた唇を紅い舌が舐めてしまうまで、あたしはつい彼を凝視してしまっていた。

 

「どうした」

 

 笑い含みの声に我に返ると、麗しの堕天使様がニッと口端を吊り上げ、意地悪な笑顔であたしを見ていた。

 

「そんなに見つめて。私に見惚れていたのか?」

「い、いやっ、別に……!」

「まあ仕方あるまいよ。私は最高に美しいのだからな」

「…………」

 

 照れて、というか呆れて閉口。事実だから否定はしないけど。

 ルシフェルはたまに、こんな俺様発言をしてみたりもする。本人は嫌味を言っているつもりはさらさらないらしく、本当のことを言って何が悪いのかと開き直るわけです。さすが魔王様。

 ああ、それにしたってあたし、変態みたいじゃないか。凹むなぁ……。それもこれもルシフェルが美人なのがいけないんだ、うん。

 

 そんな他愛もない会話がちらほらとあったけど、コーヒーを飲み終える頃には、ルシフェルはすっかり口を閉ざしてしまっていた。またここ最近の物思い。

 ちらっと伺い見た横顔は……やっぱりきれい、だけど。どこか影がある。

 かといって彼は何か喋るのでもなかったから、あたしも黙って服の裾なんぞを弄っていたのだが。

 

「……ねえ、真子」

「ん?」

 

 目が合った。ルシフェルの表情は魔王様のそれではなくて、優しくて、穏やかで、まるで天使みたい。彼は動物を見る時に、よくこういう温かい眼差しを見せる。たまにあたしに対しても。そしてあたしは、美しい堕天使のどことなく鋭利なオーラがふと緩む、この瞬間にやられるのだ。

 

「……私達はな、人間が生まれるずっと前から世界に存在していたんだ」

「う、うん……」

「……」

「……」

 

 いきなり何を言い出すんだろう? 昔話にしては脈絡のない。ルシフェルはいつになく慎重に言葉を選んでいるみたいで、でも、沈黙に首を傾げるあたしから目を逸らしはしない。

 

「……人間の寿命は短い。そうだろう」

「え……うん、そりゃあ、まあ」

「不老不死を、望んだことはあるか?」

「不老……――え?」

 

 とうとうルシフェルが体ごとこちらを向いた。……なんか、嫌な感じ。胸がざわざわする。

 と思うと長い腕がするりと伸びてきて。肩を抱くような静かな動作に見せかけたそれなりの力が、向かい合わざるを得ない状況を作り出す。

 

「限りある肉体を厭わしくは思わないか? 悔いる時を待ち受けるのは怖くはないか?」

「だっ、堕天使さんって、不老不死?」

「いいや、完全にそうではない。消される者も無論いる」

「消される……?」

 

 何か引っ掛かる言い回し。消される? 誰かに、消される。――“誰に”?

 いや、今は目の前のルシフェルのことを考えないと。確かに表情は穏やかなまま、だけど、どこか様子がおかしい。単に思い付きを話しているのとは違う気がする。

 

「我々のことはどうだって良い」

 

 首に当たった彼の指先は冷たくて思わず震えたけれど、離れていった手が次に両肩を押さえつけたことを思えば、その冷たささえも恋しくなる。

 

「真子」

 

 名前を呼んだ熱っぽい声。優しかった瞳は、いつの間にか暗く潤んでいた。身を引こうにも、既に背中はソファーにくっ付いてしまっている。

 

「私なら、救えるんだ」

 

 絞り出すように言う。決して好ましい事態ではないしこんな行動の意味なんて把握できないが、ルシフェルが何か伝えたがっているのなら、聞かないという選択肢はないのに。

 救うって、何? どうしてそんなに緊張してるの?

 妖しく光る紅い瞳に、あたしはすっかり身動きをとれなくなっていた。それがいわゆる魅了されているという状態なのか、彼の魔力の一部が行使されているせいなのかはわからない。ただ確かなのは、こちらの立場がとても弱いということ。

 

「もし……もし、お前が望むなら……」

 

 変な気持ち。何してんの!って言えばいいのかもしれないけど、頭がぼうっとする。危うい感じがする一方で、このまま流されてもいいやと思う自分がいるのが怖い。

 そうか、怖いんだ。この奇妙なズレが、空気に呑まれそうな自分自身が。そのくせ読めないルシフェルのことが。

 コクンと唾を飲み下した、男らしい筋張った喉。意を決して開かれた口。うわ言のように再び繰り返される、あたしの名前。

 

「真子……」

 

 恐怖だなんてそんな。気が付いて、否定できなくて、ショックだった。

 あたしはただ普通に過ごしたいだけだ。それなのに、どうして。

 

「ルシフェル、」

 

 何を言ったらいいのか。いや。何を言っても多分、痛いほど手に力を込めている彼には、もう。

 

「真子、どうか、私と――」

 

 その時、玄関ドアのチャイムが鳴った。

 

 突如の来客の報せに、二人同時に身を離す。というより、突き飛ばすように体を引いたのは向こう。あたしもドキドキしていたけど、何故かルシフェルも茫然と自分の手を見つめていた。夢から覚めたばかりのようにぼんやりとしていたかに見えた彼だったが、すぐに我に返って落ち着きなく視線を泳がせる。

 その異様さに動揺は治まらなかったけれども、染み付いた習慣というか、日常の動作をするだけの冷静さはあったらしい。来客たる近所の奥様から煮物のお裾分けをありがたく頂き、どうにか笑顔でお礼は言えた……はずだ。

 それからそっと部屋に戻ると、ルシフェルはソファーに座ったまま目を合わせずに「ごめん」と一言だけ呟いた。あたしは何もかもよくわからなくて、「ううん」と返して首を振る。彼は痛みを飲み込むようにわずかに顔を歪め、それでも全くこちらを見る気配もなく沈黙し続けるばかり。

 もう一度隣に座るのはどうにも気まずくて、少し早いけど夕飯の支度に取り掛かろうと、あたしは台所へ。二人で温かいご飯を食べたらきっと大丈夫だよ。自分に言い聞かせながら冷蔵庫を開ける。

 怒るとか、そういうのじゃなくて。ただ、なんだか幻みたいな奇妙な出来事だったと思っていたのだ。そして、やっぱりルシフェルの様子がおかしいとも、思ってしまったのだ。

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