第26話:愛する貴女へ、贈る詩
『天使と悪魔 大全集』……確か、そんないかにもな名前の本を最初に手にとった気がする。全然関係なさそうな本、例えば『堕天使の掟』とか『キリスト教に見る国家の問題点』とかまでとにかく読み漁った。彼はお偉いさんなわけだし、絶対に載っているという確信を持って。
そして確かに彼の記述は多く目にした。ただし、“悪魔”として。神に仇なし人心を惑わす絶対悪として。
すごく混乱した。だって彼は常々「悪魔ではなくて、堕天使だ」と強調する。だから明確な違いはあるはず。それなのに、悪魔とイコールにされているのはどうして?
疑問に思うと同時にとても後悔していた。ひとつはそんな記述を知ってしまったこと自体を、そしてもうひとつは、彼のことをちゃんとわかっているだなんて言ってしまったことを。
あたしは自分の考えの浅さを知った。もし本の内容を信じるとすればだけど、彼は思っていたよりも遥かにとんでもない過去を通り抜けてきたに違いない。どんなに偉大な学者にだって彼の苦しみを理解することはできないだろう。ましてたかだか十数年しか生きていないあたしが――ううん、人間が限りある短い生しか送れないうちは、絶対に彼らの考えを推し量ることなんてできやしない。
彼が怒るのも無理はないのだ。あたしの言葉はあまりに軽率だった。
謝らなくちゃ、と思った。冷静になった頭にふと浮かんだひとつの可能性……彼が地獄に帰ってしまったかもしれないことに思い至った瞬間、図書館を飛び出していて。
このままお別れだなんて、絶対に絶対に嫌!
バスを降りるなり必死で駆けて、もうすっかり夕暮れになってしまってから、あたしはようやく自宅へ辿り着いた。途中でどんな道を通ったのかすら覚えていない。
緊張しながら玄関のドアノブを捻る。
ガチャン、という音。ドアが開く。出てくる前と変わらず彼のブーツが置いてあるのを見た途端、更にドキドキした。まだ居るという安心感はある。けれどそれ以上に、どんな顔をして会えばいいのかわからなくて。
そっと室内に滑り込み、静かにドアを閉める。しんとする部屋の中は黄昏色。ひょっとして寝ているのかな、と思いながら廊下を忍び足で進む。
最初に何て言おうか。きっと怒ってるだろうな。もう話なんて聞いてくれないかもしれない。だとしても一生懸命謝ろう。その上で思ってることを伝えよう。ああそれとも、何事もなかったように振舞う方がいいのかな。
でも。
リビングに入った瞬間に、考えていたことは全て吹き飛んだ。口の中で唱えて練習していた第一声も忘れてしまった。
堕天使様はソファーに座っていた。
ふと、顔をあげる。
頭を抱えたまま、黒い前髪の奥にある紅眼であたしを見て。その宝石みたいな瞳が次第に見開かれていく。
「…………真子……?」
名前を呼んでくれた声はひどく弱々しくて。今まで見たことがないくらいに、潤んだ瞳は頼りなく彷徨っていた。
「ごめんね、ルシフェル」
何かを言いたげにした彼を遮りとにかく謝った。ぱちぱちと目瞬きをしていた彼はたっぷりの間をおいてからようやく、どうして、とだけ問うてきた。あたしは少しだけ迷って、でも思っているままを言うことに。
「あたし、ルシフェルのことなんにもわかってなかった。それなのに知ったようなこと言って、すごく浅はかだったと思ってる。ルシフェルが怒るのも当然なのに、勝手に思い上がって飛び出して……本当に、ごめんなさい」
「どうして真子が謝るの?」
「え……」
あたしを見上げる、初めて見るようなルシフェルの表情。家を出てくる前とは全然違う表情。困惑も顕わに、まるで迷子のように不安に動く瞳は焦点が定まらない。震える紅唇から堰をきったように言葉が溢れてくる。
「何故真子が謝るの? 悪いのは全部私なのに。私がお前を傷付けた。皆を裏切った。全て、私のせいだ……ああ……また取り返しのつかないことになる。何もかも消える、何も残らない。怖いんだ……失うのが、だって、けれど、私がいるから、きっとまた皆」
「ルシフェル!」
ひどい……錯乱状態とでも言おうか。頭を抱えてかぶりを振りつつ、わなわなと唇を震わせる。あたしのことはもちろん、周りが何も見えていない。
――壊れてしまう、と思った。咄嗟に傍に寄って、思考に囚われて沈んでいく彼の手を握る。
とても冷たい手にあたしの手が触れた途端、ようやくはっとしたようにこちらを見た彼は口をつぐむ。ルシフェルは真っ青な顔で目を伏せ、ごめん、と小さく呟いた。
謝って欲しいわけじゃないのに、と心が痛くなる。真夏なのに氷のように冷え切った手を自分の両手で包み込む。
「大丈夫。あたしはここにいるから。ちゃんとルシフェルの傍にいるよ、ね。だから、大丈夫」
また知った風なことを言っているみたいだったけど、でも今は違う。今はただ、大好きなひとを支えたかった。彼はたくさんの辛い別れを経験しているのだろうけど、あたしはいなくなったりしないよって伝えたい。
怯えた眼で見てくる彼の姿は、数多の堕天使を率いる強き長からかけ離れていて。
思い出してルシフェル。自分の強さを、誇りを、自信を。あたしはいつも彼がそうしてくれるように、まっすぐに目を見つめて微笑った。
「ルシフェルはひとりじゃないよ」
「……」
すう、と息の音。握った手に力が込められる。
「もう、大丈夫」
「……うん」
小さくうなずいた彼にうなずき返してそっと手を離す。そうして台所から麦茶を持ってきて注いでやる。
そろりと彼の両手がコップを掴む。ぐいっと一気に飲み干して、長いため息。
目が合った。
薄い唇が微かに笑みを形作る。寂しさを含んではいたけど、やっと、ルシフェルは笑った。笑ってくれた。
「……おかえり、真子」
「うん。ルシフェルも、おかえり」
久しく見ていないような心のこもった笑み。大好きな紅い瞳。明るい、その色。
しばらくあたし達は黙って隣同士に座って、お互いの温もりを静かに感じていた。彼の傍はこんなにも心地良い。
幸福な時間。ゆったりとした空気の流れを揺らしたのはルシフェルの方だった。
「真子。私について“何”を知った?」
どきりとした。実を言うと、このまま言わなくてもいいとずるいことを考えて始めていたのだ。本で読んだことは全部無視して、彼の傍にいられればそれでいいやって。それじゃあ何も変わらないとわかってはいたけれど、言いたくなかった。
「怒らないから。正直に言って欲しい」
……きっと、彼は全て知っているのだ。
「あの……あっ、ルシフェルが本当にすごいんだって本に書いてあったよ! 知恵も力もいちばんで、たくさんの仲間から信用されてて――」
「真子」
そうじゃない、とでも言うように彼は静かに首を振る。穏やかな瞳は何もかもを見透かしてしまいそうで。どうしたらいいのかわからなくなって、あたしは黙って膝に視線を落とす。
「――《傲慢》」
ぽんと彼が放り出したその言葉。それは彼についての記述に必ずと言っていいほど含まれていた単語。
「最高の知恵と力を持つある天使はその強大な力ゆえに思い上がり、神の座に就こうと反旗を翻した。争いの果てにその天使は敗れ、地獄へと堕とされた」
思わず顔を上げた。
「或いは。神に最も近かったある天使は、土塊から創られた存在である人間が神の寵愛を受けていることに嫉妬し、彼らに頭を下げることを拒んで天界を追放された。……違うか?」
優しく首を傾ける彼の笑顔の真意は、わからない。
でも、ルシフェルが言う通り。あたしが読んだ堕天の理由、それらは全て傲慢な天使の転落を描いたものだった。目の前の彼からはとても想像できないような。
「本当にルシフェルのことなの?」
彼は、もはや悪魔と呼ばれるべきなのかもしれない堕天使は、そっと目を伏せた。まただ、とは思ったけれど、話してくれないことを不満に思う気持ちはもうない。否定してくれなかったことが、少し寂しかった。
「……確かに、私が傲慢であったことは事実だろう。しかしながら剣をとった時、我らに勇気が欠けていたとは言わせない」
紅の眼が遠くを見据えて一瞬だけ燃え上がる。その焔に背筋が凍る。
けれどたぶんそこに憎悪はなかった、と、思う。ただひたすらに強く、他者を圧倒する、暴力的な。
「ルシフェル……」
堪らず名前を口にすれば、圧倒的な覇気はたちまち消え失せて。そこに残ったのはやっぱりどこか悲しそうな微笑み。
「怖い、だろうな。私はいわば反逆者、大罪を犯したのだから当然だ。近寄るなと言うのならおとなしく受け入れよう。真子、お前は今まで本当に良くしてくれた――」
「怖く、なんて」
あたしの呟きに、ルシフェルは黙る。
多分、きっと、このままだと彼は自ら出て行こうとするだろう。優しい、彼のことだから。
「本に書かれてることがどうであれ、あたしが知ってるルシフェルは目の前にいるルシフェルだけだもん」
「……」
優しくて、ちょっと天然だけど、約束を必死に果たそうとしてくれるひと。あたしが大好きになったひと。勝手にお別れだなんて、許さない!
「あたしは、怖いなんて思わない」
「真子……」
「ぅえっ?!」
背にまわされた長い腕に体が引き寄せられる。声をあげる間もなく倒れ込んだ先は広い胸の中。この間より、もっと強く。頭を押し付けるように抱えた彼の声が、上から降ってくる。
「お前のその優しさが、きっと私は好きなんだ」
好き? あたしを好きって言った?
せっかくの言葉は自分の心臓がうるさくて聞き取りにくい。自分のと、彼のも。重なって聞こえるふたつの鼓動。
――ああ、彼も生きてるんだ。
そんな当たり前のことが何だか嬉しかった。
「お前と出会えたことは決して偶然などではない。お前が生きる時代は今この瞬間だけなんだ。当然のことに気付くのに、私は随分と遠回りをした……」
「……」
「真子は私よりもずっと強いよ。そんなお前を、ひとつの命ある者として愛しく思う」
人間だからとか堕天使だからとか、彼がずっとこだわってきたこと。拒んでいた壁が感じられない。彼は何か吹っ切れたように見えた。
ゆっくりと身を離してあたしの顔を覗き込んだルシフェルは、ぎょっとしたように目を見開いた。
「な、何故泣く?」
「だって……っ」
それは嬉しい変化だからだ。やっと、ルシフェルが帰ってきた。
堕天使様も女の子の涙には弱いのかな。恥ずかしげもなく男前な言動をするくせに、今はおろおろとしているのが面白くて、ちょっと笑ってしまった。
「だ、大丈夫か?」
「うん、平気」
「本当に?」
「本当に。ありがと」
「良かった」
いつも通り。ちゃんとあたしを見てくれるルシフェル。
大丈夫だと思った。大丈夫――今なら聞ける。どうしても気になることがひとつ。
「あのね、ルシフェル。ひとつだけ、調べてもわからないことがあってね」
「どうした」
「あの……お腹の傷のこと。聞いても、いいかな」
予想通り、ルシフェルは少し言葉に詰まった。あの傷。彼の胸から腹にかけて斜めにはしった大きな傷痕。どこにもそんな記述はなかったのだ。
怒られるのじゃないかと思って首をすくめていたけど、ルシフェルの方は穏やかな表情を崩さない。
「構わない。そこまで知ったのだから、真子には聞く権利がある。だが、」
「だが?」
「今は時間がない。後でゆっくり話をしよう」
時間が……ない?
おもむろにルシフェルは立ち上がる。黒衣の襟を正してあたしを見下ろす。
「仕事があるから地獄へ行ってくる。……そんな顔をするな。煩わしいことは全て片付けておきたいんだ。真子との時間を、何にも邪魔されたくない」
「……ちゃんと、帰ってきてね」
「わかっている。何があろうと、私はお前を守るのだから」
身をわずかに屈めたルシフェルは、そっとあたしの唇を塞ぐ。柔らかな感触。小さく響いた音に耳の先まで熱くなる。
ルシフェルはずるい。こうされると、何も言えなくなることを知っているのだ。
「真子」
呼ばれて、見上げたけれど。
「……いや、何でもない。……すまない」
彼はどこかぎこちなく笑っただけ。つられてはにかんでしまうと、それを確認したと同時、黒い背を向けられる。
――でもこの時のあたしはまだ知らなかった。
彼の一言にどれだけの決意が込められていたのかなんてこと、そして
「行ってくる」
そう言って微笑んだその堕天使が、
「うん、行ってらっしゃい」
もう二度と今の彼のままで戻って来ないなんてことも。