第25話:轍を辿るは愚か者
――今と昔でちぐはぐだ。
――そうだね。
――中身と外側がバラバラだ。
――うん、そうだね、《世界》。
――このままだとまた“ふたり”は離れてしまうよ、悲しい結末を迎えてしまうよ。ねえ《輪廻》、彼は来てくれるかな?
――今のままだと不安に思うのもわかるよ。でも彼は必ずココへやって来る。たとえ罠だとわかっていても逃れられないのさ。
――じゃあ、待つ?
――うーん……もっと悪戯してあげないと、開宴には間に合わないかもね。仲間を傷つけたって足りないみたいだからなぁ、これ以上は、本当に彼が壊れてしまうかもしれないけど。
――宴の用意をしなくちゃ。
――焦っちゃいけないよ。破壊は救いにはなりきれないのだから。さて、君は彼らを囲う“檻”を狭められるかい?
――できるよ。だって君を受け入れた《世界》だもの。
――ふふ、頼もしいね。やっぱり好きだよ、君のこと。でも止めはこっちで刺すからよろしくね。彼を消すのは、この僕だ。
――わかってるよ、《輪廻》。
***
――取り返しのつかないことをしてしまった。
重たい足をどうにか動かし、背から倒れるようにソファーに身を埋めた。額を支え、目を閉じ、息を吐く。耳の奥にはまだ戸が閉まる硬い音がこびりついている。
こんなはずではなかった。
離れて欲しい、優しくしないで欲しい。確かにそう願った。そのために心を見せようとするのも触れるのもやめた。けれど。
違う――私はこんな展開を望んでいたのではないんだ。彼女の涙なんて、見たくはなかったんだ!
いくら叫んでも、もう声は届かない。彼女は私に背を向けた。私が彼女を泣かせた。
つくづく私は愚か者だ。《光の子》が聞いて笑わせる。同じ過ちを繰り返すなど。
一瞬にして心を支配した愚かな考え。人間を呪った時と同じ、黒い考え。
何故だ、何故私は常に光ではいられない? この私が後悔を繰り返す? 私が……完全ではないから?
首飾りを握りしめた。
もうそれは知っている、生まれた時から知っている。そして堕天した時に納得した。遠い過去に充分過ぎるくらい悔いた。その上で償いが足りないのもわかる。命尽きるまで安寧を求められないことも悟った。
だがそれを彼女にぶつける必要なんて、これっぽっちもないのに!
私は決めたはずだ。堕ちた理由と、私のために戦った仲間の生を守るべく、何があろうと世界を守る必要があったから。もしも世界の安定が望めないのなら、この乱れる心を収めなければ……そのためには彼女を遠ざけるしかないと、彼女と離れるしかないと、そう決めたはず。
全ては私が弱いせいだ。自分の気持ちさえ満足に制御できない。だから、背負うと言った世界に影響を与えた。私の心の“揺らぎ”が力を弱めた。
それでも。認めてはいけなかったんだ。たった一言で楽になれる、けれど。楽園を汚し、人間を陥れ、数々の仲間に傷を負わせながら、のうのうと生き延びているこの私が幸福を求めるなど、許されない。
――以前、夕暮れ時。偶然ベルゼブブに会ったあの時、奴は私の苦悩を鼻で笑って言った。
『んな小っせェことでグジグジ悩んでやがったのかよ。てめえは真面目過ぎ。で、とんだどアホだ』
『……私の判断は正しかった』
『違ェよ。てめえは悩む方向を間違ってる。なんでてめえがそこまでして自分の首絞めたがってんだか知ンねェけど、そんだけ進藤のこと大事に思ってンなら、そりゃもう愛してるってことじゃねェのか?』
『愛など……私には資格がない。それに、』
『……あのなァ。てめえ、そんなことぐらいでオレらの命懸けが無駄になるとでも思ってンのか? 勘違いすんなよ! オレ達はてめえを長として認めた。真面目で、どアホで、鈍くて、不器用なてめえについていくって決めたんだよ。覚悟なんて、剣をとった時にとっくに決めてる』
『……』
『まっ、オレの場合は銃もとったけどな。ヒャハハ!』
ベルゼブブは私のことを、変わらないと評した。苦笑しているような悲しんでいるような、そんな奇妙な顔でため息を吐いた。
彼の言葉が嬉しくなかったと言えば嘘になる。この道を辿ったことは無駄ではなかったと、その証を示してもらえた気がしたのだ。
……だが、謝らずにはいられない。私の辿った道が消えないように、一度刻まれた彼らの傷も消えはしないのだから。
“――まるでお別れみたいなこと、言わないでください”
「……ッ!?」
――これは、
“僕、僕は嫌、だった……貴方を傷つけたくなんてなかった!!”
――この、声は
“兄上っ!!”
「あ、あ……!」
――いけない! 考えてはいけない!
私は愛する者を傷つけた。愛したが故に傷つけた。その事実、その罪の記憶だけで充分だ。――金色の光なんて、私ではない“光”なんて、そんなもの、“存在しなかった”!
そうして罪を知っているのに、どうして凝りもせず私は失敗する?!
わからない、わからない。彼女を傷付けたのは私の意思なのですか、主よ。
或いは――もし私を苦しめるために彼女を傷付けるのならば、《世界》よ、きっとお前を壊してやる。
……ああ、どうして私は己の事情に彼女を巻き込んだ。たった一年で、どうしてここまで。もし彼女と出会ったのが私でなければ、これほど問題が入り組むこともなかっただろうに。
それとも……私が彼女の運命に巻き込まれたのか? だとしたら無意味な仮定でしかない。運命ならば。
私が重たい鎖を引き摺っていることも、彼女の灯が縛られていることも。出会い、何故か、特別な存在になってしまったことも。何もかも、運命、だとしたら。
紡ぎ手よ、紡ぎ手よ。何と恐ろしいことか。
疑問に答えてくれる者はない。堕ちた自分に主の御声が聞こえないのは承知の上だが、内に眠る悪魔でさえも黙ったまま。呼んでいない時に出てくるくせにな。
そう、そうだ、契約だ。彼女の。
今はまだ、彼女と離れてはならない。あの契約から解放できていないのだ、まだ幸福を掴ませていないのだ。
なのに彼女は私の前から去ってしまった。
もうだめだと思った。不安と後悔を自覚した時、私はようやく身をもって知った。
今まで認められなかった思い。自尊心にかけて、受け入れてはならなかったこの感情。泣き顔を見て……目の前からいなくなってしまってから、やっと。
無論、薄々考えてはいた。そこに在ることに気付いてはいた。けれどこれまで向き合うことを避けてきた。地獄のため、仲間のため、――過去の私自身のために。
しかしこれでは否定できない。この喪失感、自分の一部を抉りとられてしまったかのような。こんなにも後悔しているのは計画が思う通りにいかなくなるからではない。どうか早く帰ってきて欲しいと願ってしまう、その理由は。
そう。最初から、気に入ったという程度の感情ではなかったのだ。気まぐれだと思っていた地上への居残りも、運命に逆らおうとしているのも、きっと。
相手はただの人間なのに。私が何よりも厭うた、弱く、小さく、卑しい生き物だというのに。一体これはどうしたことか。
ベルゼブブの言う通りだ。認めざるを得ない。
私はどうやら、彼女を愛してしまっているらしい。