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第23話:不可逆


 影にやられたのだと、アシュタロスは言った。影でできたような、影そのもののような、漆黒の鎌だったと。

 予想通りだった。相手はあの堕天使に決まっている。

 まさか、いくら奴の力が強大であろうと、既にこちらの思惑が悟られているはずなど。それとも他に目的が?

 解けていた万魔殿の結界、まるで再び煉獄が拡大を始めたかのような地震、世界の端。

 異常だ。いくら私の魔力が安定を欠いたとはいっても急過ぎる。

 一体何を企んでいる……。禁忌に対する罰は《世界》から受けるべきで、当の契約者からではないはずだが。

 

 壁にもたれたまま、ソファーに黙って座る少女を盗み見る。見慣れた風景、見慣れた部屋の中、私の方を見ようともしない小さな人間。腕を組み、気付かれないよう静かな息を吐いた。

 いずれにせよ、計画を早めねばなるまいな。時はすぐそこまで迫っている。彼女にも、私にも。

 

 どうも思い通りに事が進まない。忌々しい。

 アシュタロスの件についても、本当なら即刻あの堕天使を見つけ出すつもりだったのに。ルシファーが目覚めたあの夜、ようやく戻ってきた力を一晩中行使し続けたにもかかわらず、結局何も得られなかった。

 まるで踊らされているようではないか。気に喰わん。この私に道化は相応しくない。

 

 今となっては、そもそもどうしてこんなことに首を突っ込んでしまったのかすらわからない……というか最初から気まぐれで関わったのかもしれなかったのだから、我ながら呆れてしまう。

 酷な堕天使だ。肝心な時に手が足りない。そうして自分の気持ちにも素直に向き合えないような男だ。

 だが責任は必ずとってみせる。如何に汚れた小さなこの手であろうとも、伸ばせるところまで伸ばしてやる。それが私の誇り。譲るわけにはいかない。

 

「ねえ、ルシフェル……」

 

 万魔殿から戻って以来ずっと黙っていた彼女がやっと口を開いた。様子が妙だとは思っていたが、もし私から距離を置きたがっているのなら、それはそれで良いと思った。その方が彼女も辛い思いをしなくて済むだろうから。

 

「あの、さ」

 

 ――違う、と直感した。彼女は、真子は、むしろ私に近付こうとしているのだと。

 やめてくれ。心の中で叫んだ。どうかこれ以上私に手を差し伸べてくれるな。でないと、でないと私は。

 

「ルシフェルはさ」

 

 怯えたように私を見上げ、唇が小さく動く。引き下がっても追われるのなら、次は突き飛ばさねばならなくなる。だから、もうこれ以上は、お願いだから。

 

「アシュタロスさんのことが、その……好きなの?」

「…………は?」

 

 思わず口を開けた。驚いた。こんな小さなことを気にしていたのか、真子は。なんと……くだらない。それでここに来る間中、無言だったのだな。よもやこんなことを気にかけていたとは。

 もしもこれが彼女の唯一の懸念だとしたら? それはとても、素晴らしいこと。


「好きは好きだ。当然だろう、一番近くにいてもらうのだし。……とはいえ恐らくお前が思っている類の感情とは違う」

 

 ――馬鹿か、私は。何を言い訳じみたことを。

 こんな返事をするつもりはなかったというのに。「好きだ」と言った時に一瞬だけ瞳をよぎった絶望を見、気付けば口が動いていた。

 真子は少しの間きょとんとした表情を見せたものの、すぐにまたうつむいてしまった。だから苦虫を噛み潰していたところは見られずに済んだのだが、一向に彼女の顔は晴れない。

 だろうな、と安堵にも似た奇妙な感情を抱いてしまったが、無論好ましい状況にならないことくらい容易に想像できる。私の望みはきっと叶わない。

 

 物言いたげに何度もこちらを見てくるから、とうとう私は思い切って

 

「言いたいことがあるなら言え」

 

 と促した。予見できる結果ならば手繰り寄せた方がいい、このままでは埒が明かない。時間がないんだ。

 苛立ちが声に出てしまっていたか。ついに彼女は意を決したように私を見て、

 

「ルシフェルも、隠し事、あるよね」

 

 そう言った。

 言葉に詰まった。隠し事? そんなもの誰にでもあるだろう――だが、言えなかった。

 どうしてだ。どうしてこの娘は怯えない……?

 

「わかってるよ。堕天使として人間に言えないことがあるのは。だけど最近のルシフェルは何か変だよ。言いたいことがあるなら言ってよ」

 

 この目は、とうろたえた。以前強い口調で反駁してきた時と同じだ。きっと彼女の意思は強い。そして私は、そんな彼女に勝てない。

 

「ずっと思ってた。ちょっと冷たいなって思っても、理由があるんだろうなって我慢したよ。でもあんなアシュタロスさんを見たら……あたし、ルシフェルが傷つくところなんて見たくない。だから何かあるなら言って。守ってもらうばっかりで、何も知らないままで……あたしも力になりたいのに!」

 

 お前のその優しさが私を苦しめる――その一言がどうしても、言えない。体の中身を強く握り締められたかのように呼吸が辛い。鼻の奥に感じる痛みの意味が、この切なさの意味が、私にはわからない。

 彼女を傷つけてしまうかもしれないという恐怖は現実性を増していく。確実に変化している自分。私は、もう以前の私ではないのだ。何気ない日常は過ぎ去った。彼女は私に近づくべきではない。

 決めたはず。守るべき世界のために、自分で道を選んだではないか。

 

「……別に。何もない。気遣いは無用だ」

「嘘。変だよルシフェル」

「嘘じゃない。何もおかしなことなんてないだろう」

「そういう言い方だって」

 

 みっともないことは充分にわかっている。だがこうすることが互いのため。にもかかわらず、どうして彼女はこうも食い下がろうとするのか。黙って受け入れてくれれば良いのに。これ以上迷っていたら、また悲劇を繰り返すことになるだろう。それくらい自分でわかる。


 ……どうしてわかってくれないんだ。私ばかりが背負い、走り、聞き……私が闘っているというのに!

 

 ふと浮かんだ乱暴な考えは、一度存在に気付いてしまうと瞬く間に私の心を占めた。

 黒い、黒い、――解放感と、小さな痛みと。

 

「言い方ひとつをいちいち気にするなど。私の気分かもしれないじゃないか」

「違うよ、絶対。前は怒っててもこんなに理不尽じゃなかったもの。これだけ一緒にいたらわかるよ」

 

 ――わかる? わかるだと? “何も知らない”お前に、私のことが?

 

「煩い……うるさいっ!!」

 

 “知っているから”“わかっているから”。皆、そう言う。昔も――今も。

 頭が真っ白になった。

 

「どいつもこいつも知ったようなことを! 一体何がわかるというのだ! 自分だけは理解している、自分だけは知っていると憐れみばかり……それで結局どうなった?! 私の翼は黒いんだ! 私の罪は消えはしないんだっ! 誰も、私の苦しみを知る者などいないというのに!!……」

 

 しまった、と気付いた時にはもう遅かった。

 私以上に体を震わせて立っている彼女。引き結ばれた唇の、そして握りしめられた拳の何と小さいことか。小さな脆いイキモノが、私を睨み上げて。

 ――泣くな、これは。

 わかっているのに動けない。思考に行動が追いつかない。感情のままに吐き出して、ぼんやりとその光景を眺めて。

 

「――もういいよ!!」

 

 涙声、そして扉が閉まる音。

 私はただ呆然と彼女の背を見送るしかなかった。


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