第22話:大切な
翌朝(多分、朝だ)ルシフェルはあたしがいる部屋にやってきて、アシュタロスさんのところへ行こうと言った。
本当は内心、また倒れてしまうんじゃないかと思っていた。堕天使長は心配していたほどぼろぼろではなかったけれど、心なしか目が充血しているような……
二度目の道には従者さんは誰もついてきていない。アルベルトさんでさえも。だからルシフェル自身が先導してくれた。
改めて、何とも広い宮殿だと思う。長く複雑に入り組んだ廊下、たくさんの似たようなドア。迷わない彼らが本当にすごい。
「……昨日は眠れたか」
ぼそっとルシフェルが尋ねてきた。
「うん。ちょっと考え事してたけど、少し寝たよ」
話しかけられたこと自体に若干戸惑いつつも答えると、彼は「それは良かった」と呟くように言った。
「ルシフェルは寝てないの? 目が赤いけど」
「アカい? 私の目は元から紅だが」
「……そうじゃなくて。寝不足に見えるよ」
「ああ……」
そんなことわざわざ言わないよ。ルシフェルの目の色なんて一度見たら忘れないって。
「うん……少しな。私も考え事をしていた」
「……そっか」
久々に普通の会話をした気がする。それ以降はなかったけど。
ルシフェルはひどく疲れて見えた。体力的なものだけからくるのではないだろう。きっと、心も疲れているはず。
ラケルさんの言葉が頭をよぎる。
『殿下は、御自身の心身が疲弊し壊れてしまうまで、必要以上の罪を被ろうとなさるのです。わたくし達に不安を抱かせまいと、何もかも御独りで』
そっと見上げた横顔はまっすぐ前を向いている。彼は今、何を背負っているんだろう?
そういえば。
黎香は大丈夫だったろうか? 廊下にずっとひとりだなんて。あんなことがあった後だ、寂しかっただろうし、廊下は寒かったかもしれない。うっかりすると風邪をひきそうだ。ドアの前で寝ちゃってないといいけど。
でも、あたしの予想は裏切られた。
アシュタロスさんがいる部屋のドアに背をくっつけ、体育座りの格好で膝に顔を埋めて毛布に包まりながら、それでも、ちゃんと起きていた。傍に置かれた銀盆の上には水とサンドイッチ。手はつけられていなくてパンが乾燥していた。恐らく毛布と一緒にラケルさんあたりが置いていったのだろう。
「一晩中起きてたの?」
あたしの疑問には答えずに、黎香はじっとこちらを見つめた。ちょっと痩せたように見えるのは気のせいか。
「……真子ちん」
「ん?」
「黎香ね、いっぱい考えたんだ。なんで気付けなかったんだろうって。それにもっと信用してあげれば良かったって」
「うん」
「だけどね、やっぱりアッシュが言ってくれなかったことの方が悲しかったの」
「……うん」
「だから」
勢い良く、黎香は部屋のドアを開ける。
もう起き上がれるようになったのか、窓辺に佇んでいた堕天使がびっくりしたように入り口を凝視していた。
「だからね……っ」
制止も待たずに黎香は部屋の中に飛び込む。そしてそのままアシュタロスさんへと突っ込んでいく。
「ぅあっしゅぅぅー!」
「黎香っ!」
「どりゃあぁぁ!!」
あっという間だった。武人でさえその場で動けなくなるくらいに。
「黎香さん……!」
しがみついた少女を見下ろし戸惑ったように名前を呼ぶ。
「もっと黎香様を頼れよ! 水臭いって言うんだぞっ!」
「……っ」
アシュタロスさんは一旦見開いた目を伏せ、やがて、黎香の背中にそっと手をおいた。その声は微かに震えていた。
「そう、ですよね……僕は、貴女にとても失礼なことをしました」
「そーだよ! なんか言うことないのっ?」
「言うこと……」
「悪いことしたなって思ったら、言うことあるでしょっ?!」
ばしばしと胸を叩く少女を見下ろし、アシュタロスさんは言葉に詰まったように一瞬押し黙ったけれど。やがて漏れたのは、ちゃんと黎香が望んだ言葉。
「……ごめんなさい」
「うん……うん! いいよ、アッシュは美人さんだから許ーすっ!」
優しく微笑んだアシュタロスさんは泣きそうだった。
でも、黎香は泣かなかった。泣かずに怒らずに、ただ笑ったのだ。こういうところ、あたしは素直に尊敬する。
良かったと心から思った。男だろうが女だろうが、黎香がアシュタロスさんを好きな気持ちは変わらない。ふたりを見て安心しきっていた時だった。
「……お前は」
――しぼり出すような声が頭上から降ってきたのは。
「お前は、どれだけ私に手間をかけさせるつもりだ……っ!」
見上げればルシフェルが体を震わせていた。歪んだ表情。怒っているということはわかった。彼は、怒りに震えている。
窓辺にいたふたりも会話をやめてこちらを向いた。
「申し訳ありません……」
慌てて謝るアシュタロスさん。
「このような事態を招いてしまったことは謝ります。でも僕は、ただ貴方の力になりたくて」
「軽率だと言っているのだ。私は待機の指示を出したはずだが?」
「それは」
「感情的な行動は控えろ。理由など聞かぬ」
一歩一歩、歩み寄るルシフェル。その怒りの凄まじさに黎香も数歩身を引いた。ここまで怒っているルシフェルは初めてだ。アシュタロスさん本人だけは全く引くことなく必死に口を開く。
「どうしてですかルシフェル様。僕は貴方の支えになりたいと」
「結果を見よ。まだお前は言い訳を並べるか」
「ですが!」
アシュタロスさんは本当に傷ついた表情をしていた。あたし達に体のことが知られてしまった時よりも悲しそうだった。
けど……酷いよルシフェル。あたしはだんだんと腹が立ってきて。手間をかけるとか言い訳とか、仮にも怪我人に言うことじゃない。しかもアシュタロスさんはルシフェルのために行動していたというのに。最近イライラしてるのはわかるけど、言っていいことと悪いことがある。
「お前は、本当に」
「どうしてです?! どうしてわかってくださらないのですか!」
「いい、やめろ……」
何も聞きたくないと言わんばかりに、ルシフェルは首を振る。それでもアシュタロスさんは引き下がらない。
「主君に尽くして何がいけないのですか! 僕では力不足だと仰る?!」
「やめろ、アシュタロス」
「申し上げたではありませんか、僕の全てを捧げると! だからこんなにも、こんなにも貴方のためと思っているのに――」
「この馬鹿者っ!!」
聞いたことのないほどの大声。
それがルシフェルの声だと気付いた時には既に、彼はアシュタロスさんを強く抱きしめていた。
「大馬鹿者だ、お前は……っ!」
「ルシフェル様……」
呆気にとられたように絶句していたアシュタロスさんは、やっとのことでそれだけを呟いた。あたしと黎香が呆然として見つめるしかない前で、ルシフェルは銀髪の堕天使を抱き寄せる。
「わからないか、アシュタロス! 私は、お前が居てくれるだけでいい」
「……」
「お前が女だからと侮られぬように、強くあろうとしているのは知っている。決意も充分わかっているつもりだ。だが何かがあってからでは遅いのだ。お前が消えてしまっては元も子もない。仲間を失いたくない。私は、託されたんだ」
「……」
「そして私にはお前が必要なんだよ、アシュタロス」
アシュタロスさんは泣いた。ルシフェルの腕の中でぽろぽろと涙を流した。
けれどその顔はとても幸せそうで。窓から差した光に包まれた堕天使ふたりの姿は、本当に美しく見えた。
……少し、正直に言ってしまうと、ちょっぴり苦しかった。
必要だと言葉に出して言ってもらえるアシュタロスさんを羨ましく思ってしまう自分が嫌で、あたしはそっと床へと視線を落とした。