第20話:従う者の話
宮殿に用意された部屋であたしは一晩――地獄にも“日”の感覚はあるらしいから、多分、一晩だ――過ごすことになった。ベッドは二つ用意されていたけれど、黎香も、もちろんルシフェルも帰って来ない感じだったから、ずっとひとりでいなければならないかもしれない。
最初に案内してくれたアルベルトさんと、もうひとりの女の堕天使さんは部屋の外に控えている。あたしがすることといえば思考ぐらいで。
一応、自分なりに気持ちの整理はついて落ち着いた、気がする。
アシュタロスさんが女性だったという事実。驚いたなんてものじゃなかったけど、教えてくれたこと自体にむしろ感謝すべきなのかもしれない。ルシフェル達のような言い方をするなら、あたし達は人間で彼らは堕天使だから。
頭を撫でたりと、時折他の堕天使さん達とは違う対応をしていたルシフェル。特別扱いをしているような気がしたが、それも合点がいく。男として生きてきたとはいっても元々は女性。彼はアシュタロスさんが自分の傍で危険な目に遭うのが耐えられなかったに違いない。だから……、とそこまで考えて、部屋を出た直後のルシフェルの表情を思い出した。だからあんなに怖い顔をしていたんだ。
昏い色をしていた瞳が生気を取り戻したあの時。でもその輝きはあたしが知っている優しい光じゃなかった。憎しみに燃える目だった。以前に見た夢の中で鎖に縛られていた彼のような。
それであたしは心配になって、つい「残りたい」なんて言ってしまったのだ。なんだか彼をひとりにしてはいけない気がして。
どうしてだろう。夢だって、別人だって信じているつもりなのに、あの夢が本当のことだという証拠がどんどん積み上がっていくみたいだ。今の彼は確かに時々怖くなる、けど。それでも一緒に過ごしてきた毎日は嘘なんかじゃないと思いたい。思わなきゃいけない。あたしは、ルシフェルを信じてる。
考えていたらなんだか怖くなってきてしまった。ひとりでいるのが寂しいというわけでもないけど、なんとなく部屋のドアをそっと開けてみる。
すると外ではやっぱり、ふたりの堕天使さんが入口の脇に直立不動。本当に警備員のように姿勢良くぴしっと立っている。
「あの……」
あたしの声にふたりは瞬時に振り向いた。アルベルトさんという男の堕天使さんと、ラケルさんという女の堕天使さん。どちらも金髪・碧眼で、ルシフェル達のよりもシンプルな黒衣を纏っている。アルベルトさんはシュッとしてすごくカッコいいのだけど、ラケルさんはそれとは別でふわふわとした雰囲気を纏った愛らしい女性だ。
「如何なさいましたか」
聞いてくれたのはアルベルトさんの方。きれいな顔立ちだけれど無表情……というか平淡な表情があたしを見る。
「ええと、その……ちょっとお話ししたいなぁ~、なんて」
あくまでも事務的に対応されることで少し躊躇ったが、悪いひとではないだろうと思って正直に言ってみた。彼らの主人と面識があるという強みは自覚していたし。
逆に戸惑っていたのはアルベルトさんの方だった。そのクールな表情がほんの少し困ったように動く。
「お話し……ですか?」
「あっ、いえ。お忙しいとは思うんですけど、ちょっとだけ」
「いいんじゃないかしら、アルベルト?」
ころころとした可愛らしい声に視線を移すとラケルさんが首を傾げていた。
「宮殿の内部はそれほど危険ではないわ。お付き合いして差し上げなさいな」
かっ、可愛い……!
初めて見た時から美女だとは思っていたが、声も鈴の音みたいで見た目にとっても似合う。喋り方までどこぞのお嬢様チックで、しかもそれが彼女にはぴったりのように思える。……ルシフェルはこんな女の子を傍に侍らせていたのか。ちょっと悔しくなったのは、あたしに元気が出てきた証拠かな。
「……それもそうだな。では君がお相手して差し上げて。女性ひとりに警護は任せたくない」
「あら、そう?」
くっ、アルベルトさんってばどこまでクールなんだ! ラケルさんは可愛いし!
「それでは僭越ながらわたくしがお相手致しますわ。どうぞ」
「あ、はい。ありがとうございます」
アルベルトさんも、頭を下げたあたしを見て軽く会釈してくれた。あたし達はそのまま部屋の中へ。ラケルさんはごく自然にドアを押さえてくれて、中に入ってからも、ベッドと同様にふたつ用意されていた木製の椅子に腰掛けるように促してきた。
「申し訳ありません、きちんとした椅子をご用意すれば良かったのですけれど」
「あ、いえ、全然平気です。……あの、ラケルさんも座りませんか?」
従者さんはあたしに対しても従者さんの姿勢を貫くつもりらしく、近くにずっと立ったままだったのでとりあえず勧めてみる。本当は、なんだか落ち着かないからだが。誰かを立たせたまま自分だけが座ってるのって好きじゃない。しかも実年齢は絶対向こうが上だし。
「どうかお気遣いなく。このままで結構でございますよ」
「えと、あたしが落ち着かないっていうか、そのー……」
「……そういうことでしたら」
ラケルさんは流れるような動作で斜向かいにある椅子に座り、ふわっと微笑んでみせた。
「お言葉に甘えさせていただきますね。ありがとうございます」
「は、はい」
愛らしい微笑みを至近距離で見せられて変に緊張してしまう。所作も上品で優雅だし。でもあっさりと座ってくれるあたり、お茶目さんオーラを感じないでもない。
翠の目が見つめてくる。無言。沈黙。うっすら汗をかき始めてからようやく気付いた。そうか、ラケルさんはあたしが話すのを待ってるのか。そもそも話がしたいと言ったのはこちらなわけだし、まさかラケルさんが「で、話って何?」なんて言うはずもない。
「あのー」
「はい」
……どうしよう。なんとなくこんな流れになってしまったけれど。
――あっ! そうだ、これはいい機会じゃないか。
「あの、ラケルさん。ルシフェルのことについて聞いてもいいですか?」
「殿下の、ですか?」
「はい。ルシフェル、自分のことをあまり話してくれなくて。いつも近くにいるラケルさん達なら知ってるんじゃないかなって」
本人は語ってくれない話。ならば周囲に聞くのが早いだろう。従者さんと話せるなんて滅多にないチャンスだ。
ラケルさんは金色の長いまつげを数度ぱちぱちと上下させ、それから眉を下げて困ったように笑った。
「申し訳ありませんが、それはわたくしの一存ではお答え致しかねます」
「そ、そうですか……」
やっぱりダメか。余程沈んで見えたのか、ラケルさんはちょっぴり慌てたように再び口を開く。
「あの、一体どういったことをお聞きしたかったのでしょう? ご質問によってはお答えできるかもしれません」
「えーと、ルシフェルの昔の話とか。今なんであんなにイライラしてるのかなーとか」
黙ってしまったラケルさん。それほど返事は期待していなかった。「ルシフェルのことを知りたい」と言っただけで却下されたくらいだ、従者さん達は彼の意思に反するようなことを絶対にしないだろう。彼が隠すと言ったら隠す。当然といえば当然のことだけど。だから思いつくままに言ってみただけだったのだが。
「本当は、いけないのですけど」
困ったような声音に顔を上げると、苦笑しているラケルさんと目が合った。
「これも何かの縁ですわよね。わかりました、少しだけお話し致しましょう」
「へっ? い、いいんですか?」
「今夜殿下はお戻りになりませんわ。ですから、これはわたくし達だけの秘密です」
うわー、やっぱどこかお茶目だこの堕天使さん。
唇に指をあてる仕草も可愛くて。思わず見惚れそうになるのを抑えてうなずいた。
「と申し上げましても、本当に少しだけですわ。わたくしは殿下の御身をいちばんに考えますから、そこはご了承くださいますか?」
「もちろんです」
「ありがとうございます」
ルシフェルは本当に慕われてるんだなぁと思った。殿下と口にする時のラケルさん、すごく幸せそう。
彼女は少しだけ笑顔を引っ込め、首を傾げてふと遠くを見るような眼差しになった。
「殿下が元々は天界にいらっしゃったことはご存知ですよね? わたくしはその時から殿下にお仕えしておりましたわ」
「ルシフェルは天使だった時も位が高かった、んでしょうか?」
「そう……そうですね。まるで雲の上の存在で、最初はわたくしなどお会いすることはないものと思っておりましたけれど、縁あってお傍にいられることになりました。わたくしは、いえ、わたくしだけでなく堕天した者は皆、殿下のことを心から愛し忠誠を誓って道を選びましたの」
道。堕天するという道。
「わたくしは今でも当時のことを鮮明に思い出すことができます。けれど、殿下は恐らく」
「覚えていない?」
「いえ。これは憶測の域を出ない話なのですけど……殿下は過去を思い出さないように、忘れるように自ら努めておられるような気が、わたくしにはするのです」
「それは、」
「申し訳ありません、これ以上は。……ただひとつあえて申し上げるとするならば、堕天という選択で最も苦しまれたのは殿下だということです」
一体どうして。肝心なことはわからないまま。
だけど、過去の話題にルシフェルが触れたがらない理由は少しはっきりした。やはり大きな事件があったのだ、堕天するきっかけとなった事件が。彼が記憶から抹消したいと願うような、そんな苦しい思い出って何なのだろう?
ラケルさんは自分の頬に片手を添え、小さなため息を吐いた。
「殿下は素晴らしいお方です。強く、美しく、気高いお方。民を第一に考えてくださる、優しき名君でもあります。ですが、時に強すぎる責任感に身を蝕まれてしまうのです。御自身の心身が疲弊し壊れてしまうまで、必要以上の罪を被ろうとなさるのです。わたくし達に不安を抱かせまいと、何もかも御独りで」
「壊れる、まで……」
妙に引っ掛かった。言われてみれば最近のルシフェルは、何かに追い詰められているようにも思える。余裕面を装いながら。
「わたくし達も近頃の殿下の御様子にはただならぬものがあると感じておりますの。いいえ――殿下だけでなく、この万魔殿自体にも。はっきりしたことは申し上げられませんが、これから何かが起きようとしていることだけは確かだと思いますわ」