第19話:言えない気持ち、癒えない心
壁に思い切り拳を打ちつけた。鈍い痛みは、それでも足りない。あいつの痛みに比べれば、こんなもの。
悔しくて、自分の情けなさにただ唇を噛んで耐えるしかなかった。この思いをどこにぶつければいい? 何故私ではなくあいつが傷つくことになった?
いっそ私を殴ってくれれば良かったのだ。お前のせいだと、お前の力が及ばないからだと責め、なじり、怒鳴ってくれた方がどれほど救われたか。だがあいつはそうしなかった。
昔から、そうだ。アシュタロスはいくら私が無茶をしようとも黙って従い、最後まで傍にいてくれる。
私が天界を去る時も、真っ先に何もかもを捨てる決心をしてくれた。こんな私のために、約束されていた自分の居場所や仲間との縁を切ってくれた。命を捧げるという言葉に嘘はない、それは充分過ぎるほどわかっている。だから私は誓ったのに。また泣かせてしまった。
「拒んだ」とあいつは言った、見抜かれた。しかし違う、違うんだ。私はお前が嫌いなわけじゃない、ただ――!
――「あいつを泣かせたら俺が許さない」
いつかの友の言葉が脳裏に甦る。アシュタロスは私を選んでくれた。私についてきたことを後悔させてはならないというのに!
ギリ、と歯を食い縛る。爪が食い込んだ手のひらの感覚が、どこか自分から離れた所からくるように感じられた。だが、もっとだ。もっと、この手が血塗れになるほどに傷つけても足りぬ!
世界を支える? 笑止! 仲間ひとり護ってやることができないなんて。私の両手はあまりに小さい。
「ルシフェル……」
「……悪い。大丈夫だ」
真子は何も言わずにうつむいた。彼女達にとってもショックな出来事だったろう。何もこんな時に明かす必要はなかったかもしれないと、少しだけ悔いた。
「今日は万魔殿に残る。アシュタロスがあんな目に遭わされたのだ。絶対に、絶対に……」
――許さない。一つや二つの傷で楽に消してなどやるものか。あいつと同じように肩に斬りつけ、そして……
「……あたしも、残りたい」
「何?」
一体何を言い出すのか。驚いて少女を見下ろした。残るだと? この万魔殿に?
「真子も見ただろう。これは遊びではないのだぞ。ここは危険だ」
「わかってる。でも……あたしはルシフェルが心配で、だから」
揺れる瞳。それが紫苑の目と重なって見えて、思わず詰まった。言葉が出てこない。お前も、なのか――。
「……アル! アルベルト!」
「ここに」
疾風の如く現れた金髪の堕天使は、ただじっと控えている。冷静沈着を前面に押し出したかのような無表情。緊張の色を滲ませてこちらを見つめる翠の目。それだけがいつもと同じ日常の欠片のようで、何となく安心感を覚えた。
「如何なさいましたか、殿下」
「部屋をひとつ用意してほしい。この二人のために」
同じことを繰り返すかもしれないという不安。あの揺れる瞳、澄んだ光を何よりも守りたいのに。このうえ真子に何かあったら、私は一体どうすればいいのだ。
「宿泊棟の一室は」
「確か、三階の角が空いていたように思いますが」
「結構。世話役としてお前とラケルをつける。一晩で良い、目を離すな」
「畏まりまして」
何もないとは思うが、彼らを護衛としておけば大丈夫だろう。階級がそれほど高くはないとはいえ、武芸と教養に秀でた堕天使達だ。機転も利く。しかも他の悪魔達もいることだしな。
「真子、黎香。私は外へ行ってくるから、何か困ったことがあればアルベルト達に言うといい。万一にも単独行動は控えるように」
「ルーたん」
今度は暗く沈んだ黎香の声。しかしこちらを見返す目には力があった。
「黎香、ここにいる」
「ちょっと黎香!」
「アッシュはここで過ごすんでしょ? だったら黎香もここにいる。ここでアッシュのこと守る!」
真子が咎めるような声を出したが、黎香はそのまま扉の前に座り込んでしまった。
無論、許可などしたくない。守るも何も、お前達の方が守られる立場だと、そう言ってやりたい気すらある。
だが先刻真子に大声で言い返されてから、強く出るのを躊躇ってしまう自分がいた。人間相手に、馬鹿な。
「……好きにしろ」
そうとだけ言って踵を返した。真子も慌ててついてくる。
「いいの?」
私に聞くな。また怒鳴りそうになるのをどうにか堪えて
「辛くなるのはあいつ自身だ」
一言だけ、吐き捨てた。