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第16話:堕天使と悪意


 ひとつ、風が吹いた。

 

 砂埃を巻き上げ、喧騒をさらい、大通りを吹き抜けていく。

 

 ひとつ、風が吹いた。

 

 周囲の店には目もくれず、厳しい表情で歩む堕天使の黒衣が踊る。

 彼女には仕えるべき主がいた。最も尊敬し、最も愛する主君がいた。

 ところがその主は今、大きな問題を抱えていた。自分の身も顧みず、ひとり奔走していた。

 

 大丈夫だ、全て任せろ。そう彼は言う。

 それでも彼女はこうして万魔殿へとやってきた。解決の手がかりを探すべく、愛する主の力になるべく。

 不要だと言われようと、彼女は従者として主君を支えたいと願う。それに、彼が何でも自ら背負おうとするのは彼女達――仲間を思ってのことだと彼女は知っていた。だからこそ影ながら支えねばならない、と。

 彼女が武術の鍛錬に励んできたのもそのためだった。彼に全てを捧げようと誓った遠いあの日以来、人一倍の稽古を積んできた。強くなればきっと、女だと侮られることもなくなる。きっと……長く彼の傍にいられる。

 

 無論、彼女のそんな決意を知る者がその大通りにいるはずもなく。談笑する悪魔や堕天使の波の間を早足で進む彼女を気に留める者はいなかった。――だが。

 誰も彼女を注視する者などいないはず。それなのに何故か視線を感じたような気がして、ふと彼女は足を止めた。周りを見回しても知り合いは見つからない。声をかけられることもない。

 暫し立ち止まっていた彼女は、気のせいだと思い直し、再び歩き出そうと前を向いた。その、瞬間。

 

「――?!」

 

 ――ぞろり、と。

 

 武人でなければ方向の特定も難しかったであろう、わずかな空気の揺れ。しかし一瞬で危機感を与えるに充分な殺気。

 咄嗟に振り向いた彼女が見たものは、宙に浮かんだ漆黒の鎌。柄も刃も影のように何物にも染まらぬ黒色、その禍々しい邪気。

 手に持つ者はない。だがその凶器は紛れもなく彼女に向けて振り上げられている。

 逃げる間もなく、鎌が黒衣を切り裂いた。

 

 

 ひとつ、悲鳴が響いた。

 

 割れた人波の中、紅く染まった石畳の上に、ひとりの堕天使が倒れていた。

 


 

***

 


 

「…………」

「…………」

 

 あたしはソファーで、ルシフェルは窓辺で。互いに何も喋らず、ただ黙って休日の午後を過ごしていた。

 別に、無視してるわけじゃない。話しかければ返事はくれる。何か言われれば返す。けど、それだけ。他愛もない話をしていた頃がひどく懐かしい。

 

 あたし達の関係は日を追う毎にギクシャクしていった。だんだんと彼がよそよそしくなっていくのがわかる。自然と会話が減った。

 宝石みたいな紅い瞳は、ずっと昏い色をしたままだ。

 ぼんやりと窓辺に座って頬杖をついて。外を眺める虚ろな目。見ているこっちが悲しくなるような陰のある横顔。

 ……ああ、そっか。なんかルシフェル、地獄にいる時みたいだ。

 甘えるように話しかけてきた彼も、信じられないような天然発言連発の彼も、あたしを抱きしめてくれた彼も、そこにはいない。今目の前に座っているのは堕天使の長、万魔殿の長としての彼だ。住み慣れたはずのこの場所で、他人のように緊張している。

 

 空気が重い。

 

 もう嫌だと思った。なんで理由も教えてくれないでそんな態度をとるの? どうしてあたしは……ううん、ルシフェルも、どうしてこんなに悲しい思いをしなきゃならないの?

 限界だった。怒られてもいいやって思った。知らない、そんなの。ルシフェルだって勝手にしてるんだ、こっちも好きにさせてもらうもん。

 疲れた。もう疲れた。

 

「ねえ、ルシフェル――」

 

 あたしが口を開いた時。

 

 《~♪》

 

 ……なんて間の悪い電話!

 ちらとこちらを向いたルシフェルは

 

「電話、鳴ってる」

 

 とだけ言って、再びふいっと顔を外に向けてしまった。あー、もう! わかってるって!

 

「もしもしっ?」

『もしもし真子ちん?! 大変なんだよう!!』

 

 イライラしながら精一杯の不機嫌を込めて出たつもりが、相手はそれどころではない様子。

 

「何?」

 

 まだ怒りが収まらないまま、携帯電話を耳に当てなおす。電話してきたのが黎香だったから、というのもあったけど。もし親しくない人が相手なら、すぐに猫かぶりしているところだ。

 

『アッシュが、アッシュがぁ!』

「なに、また浮気したって?」

『ちがっ、違うんだよぉー!』

 

 ところがその慌てぶりが尋常ではなくて、あたしは少し戸惑ってしまった。

 

『アッシュが帰ってこないの!!』

「えっ?」

 

 帰ってこない?

 あんまり声が大きいもんだから電話の外にまで漏れていて。無関心を装ってはいるけど、窓辺の堕天使が聞き耳を立てているのはわかってる。さっき、ぴくんと反応したのが見えたから。

 

「いつから?」

『朝起きたらいなかったの。多分夜中に出かけたんだと思うんだけど、今までそんな深夜に家を出たことないのに。すぐ来るだろうって待ってても全然……。今、近所を探したけど……う、うえぇ~んっ!』

 

 まだ一日も経っていないじゃないか。でも長く一緒に生活している黎香がこうしてわざわざ言ってくるということは、本当に初めてのことなんだろう。アシュタロスさんはまめそうだし、気まぐれに普段と違う行動をするとはあまり思えない。それに最近様子が変だと言っていたから、黎香も小さなことでも不安になってしまったのかもしれない。

 余程心配なのか、聞こえてくる泣き声は凄まじい。

 

『びえーん!!』

「泣かないでって。ほら、まだ一日も経ってないし、すぐに帰ってくるよ」

『だっでぇ……』

 

 耳鳴りがする。でも電話を当てているのとは反対の耳。するとこれは。

 と、急に淡緑色の光が空中に現れる。久しぶりに見る魔方陣。そこから何かが降ってきた。

 

「――うわぁぁあっ?!」

 

 ドン!、と痛そうな音。居間に白い羽根が散らばる。白い?

 

「ウァラク君?!」

 

 金髪少年はあたふたと起き上がり、ばばばっと居住まいを正す。

 テーブルの上にちょこんと正座した堕天使は、ルシフェルとあたしにそれぞれ一礼した。

 

「お、お邪魔しますルシフェル様、真子さん」

 

 『あっしゅぅぅ!』と未だに聞こえる声を一旦手で封じ、とにかく今は小さな来訪者の応対をすることに。あっちは、ちょっと泣かせておこう。

 

「どうしたの、そんなに慌てて」

「向こうで何かあったのか?」

 

「そっそれがですね……っ」

 

 ウァラク君はわなわなと震えながら、泣きそうな顔で口を開く。

 

「アシュタロス様が……な、何者かに、襲撃、されました」

 

 襲撃。

 

 血相を変えたルシフェルがウァラク君に掴みかかるのを眺めながら、ぼんやりとその言葉の意味を考えた。

 襲う? 攻撃する?

 狙われたのは……あの、アシュタロスさん。

 

「――あいつは無事なのか! あいつは……アシュタロスはっ!」

「おっ、落ち着……げほっ、落ち着いてください、ルシフェル様!」

 

 ルシフェルの怒鳴り声とウァラク君の大声で我に返る。胸倉を掴まれていた少年堕天使が、解放されてから苦しそうにむせた。

 

「っ……悪かった。取り乱した」

「い、いえ。命に別条はありません。ただ、負傷なさっているとのこと」

 

 怪我、してるの……?

 現実味がない。けれど、驚きはゆっくりとやってくる。血が、流れた。あの穏和な堕天使さんが怪我をした……そうウァラク君は言っている?

 

「あの、今、宮殿にて治療にあたるところで――」

 

 あたしが事態をどうにか飲み下す間に堕天使達の会話は進んでいく。ウァラク君の言葉にルシフェルは、はっと顔を上げた。

 

「ウァラク!」

「は、はいっ」

「すぐに行って止めさせろ。私が手当てする」

 

 きょとんとするウァラク君に、ルシフェルは黒衣の襟元を正しながら。

 

「さほど急を要する怪我ではないのだな?」

「それは、そうですが……できるだけ早くしないと」

「良い、今行くから。お前は先に戻り治療師達に伝えてくれ。私が行くまであいつには指一本触れるな、背いたならば消し飛ばすと」

「ぎょ、御意っ!」

 

 来た時よりも慌ててウァラク君は戻って行った。消し飛ばす。恐らく堕天使長の最高級の脅し文句だ。そこまでして一体何が……

 

『真子ちん』

 

 でも、今は。

 

『アッシュって……ぐすっ、言ったよね?』

 

 会話を聞いていたらしい彼女のためにも。

 

「ルシフェル。今から地獄に行くんでしょう? あたしと黎香も一緒に行きたい」

 

 今にも移動しようとしていたらしいルシフェルは、少し怒ったような顔で振り向いた。

 

「何を。お前達には関係な」

「関係なくない!!」

 

 ちょっと怖かったけど、躊躇うより先に言葉が口をついて出ていた。携帯電話をぎゅっと握りしめる。

 少なくともあたしが大声を出したことに彼は驚いた風だった。目を見開き、まじまじとあたしを見つめてくる。

 

「人間だからとか、そういうのじゃなしに、知り合いが怪我してたら心配になるのは当然じゃん! 治療なんてできやしないけど、でも、知らないところで勝手に物事が進んでいくのは嫌だ!」

 

 一気にぶちまける。本当はもっと言いたいことがあったけど、今は一刻を争うから自重。

 それでも、彼の気を変えるのには充分だった。

 

「……これだから意志ある者は……」

 

 舌打ち混じりに呟いて、ルシフェルは挙げかけていた手を下ろす。

 

「……早く黎香を呼べ。少ししか待たないからな」

 

 そして目を合わせずに、そう言った。


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