第13話:足踏み
「ただいまー」
「お帰り」
居間に入ってきた真子は、堕天使の服を着て漫然と座っている私を見て目を丸くした。
何のことはない。人間界に馴染んだ体を元に戻したくなって、形から入ろうとしただけだ。外側が変われば内面も変わるかもしれないと期待しただけ。それが証拠に銀刺繍の上衣は畳んで置きっぱなしだ。
「珍しいね。万魔殿に行ったの?」
「ああ、まあな」
ほら、またこうやって嘘を吐く。今日は地上で使った物の整理をしていたら、いつの間にか日が暮れていた。地獄になんて行っていない。
だが仕方ないだろう? これが最善なのだから。
「あのさ、ルシフェル」
「そうだ。郵便、そこに置いておいたから」
「あ……ああ、うん」
この声の調子で少し躊躇いがちに口を開く時、真子は決まって何かを質問してくる。それも、割と核心に近いことを。
軽く握られた小さな手を視界の端に捉えつつも、戸惑いの滲む声に気付かない振りをした。このまま自分の独擅場とでもなればいいさ。喋るから、否定しなければならなくなる、余計に突き放さねばならなくなる。それならいっそ疑念も説得も哀訴も黙っていてくれた方が互いのためだろうよ。
「風呂掃除もしておいた。真子が来てからにしようと思っていたんだが、先に湯を浴びてもいいか?」
「うん、別にいいけど」
視線から逃げるように立ち上がる。アシュタロスにはあんなことを言っておいて、にもかかわらず、追及されるのを避けようとして。向き合わなければならないと、頭ではわかっているのに。
そのまま顔を俯けて、彼女の横を通り過ぎようとした時。
「ねえルシフェル、今日ちょっと奏太から聞いたんだけど」
強い口調が私の足を止めた。こうなってしまっては無視するわけにいかないな。それはあまりに不自然だし、不信感を抱かせるのは本意ではない。
嘘や隠し事が多いと自覚しているとはいえ、私は別に疑われることを好ましく思っているわけではないのだ。極力平静を装いながら、振り返る。
「どうした?」
「奏太がさ、ルシフェルが川のところで震えてるのを見たんだって」
――まずい、見られていたのか。
真っ先に浮かんだのは焦りだった。何せあの時は必死だったから、よもや誰かに、しかも知り合いに見られていようなどとは思いもしなかった。
と同時に、少し安堵もした。良かった、もしも気付いていたならば大変なことになっていたかもしれない。奴はたとえ私の知り合いが相手だろうと、容赦しないに決まっているから。血に飢えた獣め、あの時の私に衝動を抑えられたかどうか。
どこまで見られていたのだろうかと、それが少し気になった。何かしら曲解でもした奏太からの話が真子の耳に入っていたら? そう思って見下ろした彼女の瞳の中には以前ほどの恐怖の色もなく。
「ひょっとして、まだ具合が良くない? だったら無理して外に出ない方がいいよ。ひとりでご飯食べるのだって、全然あたしは気まずくないから、ね?」
ああ、ああ、この娘は本当に。
こうして優しさに触れてしまえばその度に決意が揺らぐ。近くに居たいと、思ってしまう。
たとえ私が、この身を誰に捧げるにしても。
「平気。あれだけ寝たし、もう体調もすっかり万全だ」
笑顔をつくる。自然に笑えていることを願った。
「奏太の人違いか何かじゃないか? 大体、こんなに暑い中で震えると思う?」
答え方を間違ったろうか? 怪訝そうな彼女の顔に訂正したものかと逡巡したが、まぁいいだろう。
動揺を悟られないようにするのは得意だと、自分では思う。きっと自分はもう作り笑いをすることに何の抵抗もなくなるほどに慣れてしまったのだと、その度に認識するのはいつものこと。それでも私が笑ってさえいれば、私の目の前にいる誰も悲しい顔をしないと知っているから。周囲に憐れまれるよりなら、己の感情などどうとでも偽ってやる。他者の中には強き長の像を保たなければならない、それが義務なのだから。
真子は一瞬戸惑ったように言葉に詰まり、しかし、それからつられたように笑った、笑ってくれた。
「……だよね。ルシフェル、暑がりだもんね。変なこと言ってごめん」
「いや」
こんな隠し方がいつまでも通用するとも思えなかったが、それでもしばらくはこうし続けるしかない。
洗面所に入り彼女と扉で隔てられてから、ようやく大きく息を吐いた。疲労感が全身を支配していく気がした。何故、疲れているのだろう。ずっとしてきたことなのに。
留め金を外して服を脱ぎ、狭い浴室の扉を開ける。この状況で人間界の湯を浴びるのは気が進まなかったが、わざわざ万魔殿の自室に戻るのも面倒だ。それに、早く汗を流したかった。汗と、汚れも。
蛇口を捻ると熱い湯が上からかかる。頭からそれを浴びて、目を閉じて何とは無しに思いを巡らせる。風呂場というのはどうも思考に沈みやすい。
……そうだ、思い出した。初めて彼女に頭を下げた日、初めて好きだと言葉にして告げた日。あの時も私は浴室で色々なことを考えたのだ。
何故あれだけ素直に好意を口にできたのだろう。
当時の気持ちなんて忘れてしまったが、柄にもなく緊張していたという記憶だけはある。今考えてもとんでもない決心だった。単なる気まぐれという可能性もあるが、恐らくは……言わないと後悔すると思ったのかもしれない。
知らず、自嘲が漏れた。なんだ、私はまるでこうなることをわかっていたみたいじゃないか。
……いいや。
本当はわかっていたはずだ。直視してこなかったのは他ならぬ私自身。わかっていながら甘えてきた。共にいる時間が長ければ長いほど結局は互いを傷付けるだけだと知りながら、ずるずるとここまでやってきてしまった。
挙句の果てに、未だはっきりとした答えが見えていない。彼女の両親には半年で見定めると約束した、そしてその期間も過ぎようとしているというのに。彼女の親から対価は貰っていないから、新たな契約を“上書き”するも彼女を見殺しにするも、私自身の両手に委ねられているのだ。
――最低だ、私は。
見殺しなんて。ぞっとするような考えを自分で打ち消した。否、否。彼女を救うことはもう決めたのだ、私に《光》の名を授けてくださった主のために。だがそれを“上書き”の形で成すことに踏み切れない。しかもまた、彼女の傍から立ち去ろうと、そんな醜い自分の要求を押し付けようとしている。
彼女は私を知らない。私が卑怯な愚者であることも、内に秘めたどす黒い心のことも、血で穢れた過去の偶像を引きずっていることも知らないはずだ。
知れば、きっと嫌われるだろう。
どうやら私はそれは厭であるらしい。嫌われてしまえば離れることは容易い。だが、本性を曝すことによって嫌われることは避けたいと思ってしまう。彼女の中の私を守るために、私に好意を抱いてくれた彼女の心を守るために、私は私であることを保ちながら距離をおかねばならないのだ。それはどこか長として生きるための方法に似ていた。
何より、私は彼女の幸福を願っている。
そうは言っても、だ。契約の“上書き”は禁忌なのであって。
“上書き”以外の選択肢はないのだろうか? また何もかもを捨てなければならないのだろうか? 命だけではない、むしろ私の命だけで済むならば軽いもの。捨てねばならないのは過去の自分の足跡、守ると誓った世界、そのために傷ついた仲間の想い、そして主こと《憤怒》への忠誠。堕天した時よりももっと本当の意味で“裏切り者”にならなければならないはずだ、もしもこの身を人間の一少女のために堕とすのなら。
――なあ、真子。
どうか開き直りを許して欲しい。私はこれまで散々わがままを言ってきた。だから最後までわがままでいさせて欲しい。
お前にとって何が幸せかを決めるのは私ではないとわかっているけれど、今はその定義が正しいと確信していたいんだ。……あと少しだけ、優しさに甘えたいんだ。
シャワーを止め、蒸気が立ち込める空間で、独り。
素肌を雫が伝っていく。首筋に張り付いた髪の感触がやけに気になった。
どれだけ体を磨こうが、私はもう白くはなれない。傍目には白く映るかもしれないこの身。だが私には見えるのだ、くっきりと刻まれた無数の罪の印が。永劫この両手の汚れが落ちることも、本来ならとうに痕も見えなくなるはずの胸の傷痕が消えることも、ない。
きれいなものに触れてはいけない。この手が汚してしまうから。脆いものに近付いてはいけない。この手が壊してしまうから。
今度はこの手が何かを救うことがあり得るだろうか、誰かを生かすことが可能だろうか。
未来を紡ぎたいと望みながらも過去に寄り掛かり続ける自分が、弱くて嫌いだ。
主にいただいた命を一瞬でも厭わしく思ってしまう自分は、もっとずっと大嫌いだ。