第10話:強制共鳴
見上げて光が在ったなら、どんなにましなことだったろう。唯一自由にできる頭をもたげてみても、その空間に終わりがあるはずもなかった。
十字、磔。永い眠りという名の潜伏。すっかり錆びてしまった鎖は、抜け出すことを試みなければ肌を傷つけることもない。どれほどの時間こうしていたのか、男は自分でもわからなかった。
何故、十字架なのだろう。それは単純に起源の話、無防備に羞恥へ貶めるための形状、ただ自由を奪うに都合が良かっただけなのかもしれない。
ともかく彼は晒される。暗闇に潜む数多の視線に、憎むべき“相棒”の監視の前に。
しかし奇妙なことをするものだ、と彼は半ば“相棒”と溶け合った思考の海をゆらゆら漂う。“相棒”――憎むべき《枷》は、自ら鎖を解こうとしているように彼には感じられた。かつて彼を縛った者が、今度は戒めを弛める手助けをしている。自らの信念さえ裏切ろうとしている。好機。だが彼は抜け出すことができない――二番目の鎖があるせいで。
ほんの、悠久の時に比べるのも馬鹿らしいくらいほんの少し前からだ、と彼は記憶している。微睡から覚めると既に錆びた鎖の上からもう一本、金色に輝く細い鎖が身体に巻き付いていた。驚愕した彼は次の瞬間には怒りに震え、黄金の戒めを引き千切ろうとした。しかし弱々しい見た目とは裏腹に、二本目の鎖には彼の力を以てしてもまったく歯が立たなかった。そのおかげで錆びた鎖までも、その命を保っている始末。
男は焦っていた。このままだと己の存在自体が危うくなる。
永い眠りは確かに感覚など麻痺してしまうほどの苦痛であったが、同時に充分過ぎる休養でもあった。
永過ぎる。
獣は吼える、悪魔は嗤う。二度目の抑圧。解放するのは――
***
テーブルの上には開いた教科書と問題集と、キャップを外したままのペンと。やりかけの課題をすぐ目の前に置きながら、あたしは……震えていた。
ルシフェルが出て行ってから、なんとなく寂しい朝食を済ましてテレビをぼーっと眺めていた。ひとりのご飯。ひとりの朝。以前と同じ生活に戻っただけなのに、とても寂しい気がして。何をするのも気分がいまいち晴れなくて。小さなことだけど、彼のためにと出しておいた朝食の用意を片付ける時は惨めさに似た思いも抱いてしまったし、食器を洗う水も気のせいかいつもより冷たく感じられて憂鬱になった。
沈んでばかりじゃいけない。彼には彼の事情があるんだから、悲観的になったってどうしようもないじゃないか。
そうは思えど悶々と。日差しが少し強くなってきた頃やっと、特に面白いテレビ番組もないなら気分転換に課題にでも手をつけようと思い立ったのだ。時間がもったいないし、何かに集中していれば気が紛れそうだったし。
最初に開いた苦手な数学になんて集中できるはずもなく、あれこれとつまみ食いして落ち着いたのは、比較的得意な英語の和訳問題。辞書と格闘し続け、始めてから一時間くらい経っただろうか。近頃ルシフェルのことが気になってちゃんと寝ていなかったのもあったけれど、少し休憩するつもりが居眠りしてしまった。
そして、夢を見た。
――何もない真っ暗な空間にあたしは立っていた。夢の中のあたしは、それが夢だとわかっていた。またいつかみたいに……彼に関係ある夢だということも。今回は隣に彼が眠っているわけでもないのに。
目を凝らす。次第に暗闇の中に浮かび上がるひとつの影。彫刻かと思ったけど、違う。
それは、美しい、黒髪の堕天使の姿だった。何も纏わない、生まれたままの姿。
しかしその筋肉質でしなやかな細身の体は、頑丈な鎖によって縛られていた。淡い光を放つ黄金の鎖は闇の中では一際目立つ。全身をがんじがらめにされ、まるで磔にされているように両手をだらりと広げた格好で、彼は眠っているのだった。
磔。罪人。――封印。何故かそんな単語が思い浮かんだ。
「ルシフェル」
堪らずに名前を呼んだ。声はちゃんと響く。
するとどうだろう。黄金の鎖は解けるどころか、あたしの声に反応するかのように締まり始めたのだ。
そしてとうとうきしむほどに締め付けが強くなった時、やっと彼は静かに目を開けた。
地を這うような低い音は唸り声。他ならぬ目の前の堕天使が、よく見知った堕天使の長が、あの紅眼でこちらを睨み付けて唸っている。暗闇で見えないはずなのに認識できる。捕らえられ自由を奪われた姿は獣みたいで、鋭い眼差しに足が竦んだ。
『……この鎖は、貴様の仕業か』
あたしの、仕業?
わからない、知らない。どうしてルシフェルは縛られているのか。どうしてこんなにも殺気立っているのか。どうして――そもそもこれは、ルシフェルなのか。
質問してみることはおろか、向こうの問いかけに答えることもできなかった。全身を貫くような殺気が怖くて、瞳に込められた感情の昂ぶりに縫い止められてしまったみたいだった。
美しい紅玉の奥には少年のような好奇心も、いつもの穏やかさも見られない。あるのはただ憎悪、苦痛、そして呪咀。
『答えろ。私を縛るのは貴様か!』
勢いでどうにか首を振ると、彼は歯を剥き出して低く怒鳴る。
『ならば立ち去れ……今すぐ私の前から失せろ!!』
……そこで、夢は終わった。
あまりの恐怖に飛び起きて今に至る。あれはルシフェルじゃないんだ、ただの夢なんだと自分に言い聞かせてみても、震えが止まらない。いつも隣で慰めてくれる彼もいない。泣きそうだった。
特にあの目。憎んで憎んで、自分が辛くなっても憎まずにはいられなくて……そんな怖い目。けど同時に、とても悲しそうな目だった。ああ、もしかすると、あたしは怖さを感じているだけじゃなくて、同情してしまってもいるのか?
怖かった、怖かったけど。これはあたしと彼、どちらの思いの結果なのだろうかと、落ち着いてきたらそんな下らないことが気になった。というのも昔は夢を見た側ではなく、夢に出てきた側が相手のことを考えているという解釈になったらしいと、古典の授業で聞いたのを思い出したから。今の心理学とかから考えるとあまりに非科学的なこと――むしろ夢を見た側の深層心理? なんかが関わってくるのかもしれないけど、そういう解釈を拠り所にできるならいいなと、ふと思ったのだ――
《ドン、ドン》
「っ?!」
リビングの窓が揺れる音にまた飛び上がる。びっくりして見ると、ルシフェルがベランダに立っていた。マンションの五階のベランダに現れたのが彼ら“人外”でなかったら大問題だけど。直接部屋の中に現れないのは、まだ力が戻っていないからかな。
すっかり見慣れた人間の服を着てぼんやり立っている彼を見て、安心したのは内緒。恥ずかしい。さっき夢の中にいたのはルシフェルじゃないっていうのに、何をびくびくしているんだろう。
それでも鍵を開け窓を開けてから、一瞬だけ身構えてしまいそうになった。そっと見上げた紅い瞳。その光は穏やかだ。でも、どことなくいつもと違う気もする。
瞳が……昏い。
色褪せたように、無機質な紅色。冷たさはないけど、代わりに感情自体をすっぽりとどこかに置き去りにしてきてしまったような。なんだか家を出る前より疲れてない?
「どうした?」
「あっ、いや、ううん!」
ずっと見ていたからか、彼は不思議そうに首を傾げる。慌てて答えたら変な声が出てしまった。そう?、とベランダから部屋の中へと入ってきた彼からは、外の匂いがした。
丁寧に窓を閉めてから振り返った堕天使様と、そんな彼の動きをじっと見つめてしまっていたあたしの視線がかち合う。一瞬で喉元までジャンプする心臓。この切ない痛みをどうにか伝えたいのに、じっと立ち尽くしたルシフェルの姿はどちらかというと戸惑っているようで、特にこちらが口を開くのを待っている風にも見えなかった。実際、奇妙な沈黙を先に破ったのは。
「……顔」
「へ?」
「顔色悪くないか。何かあったのか?」
さすがは共に暮らしているだけあって、すぐにバレてしまった。それとも自分はそんなに強張った表情をしていたのか。
とはいえ、まさか「怖い夢見たから」なんて言えるはずもない。小さい子供じゃあるまいし、客観的に見たら笑われたって文句は言えないような理由だ。
「何でもないよ。ちょっと寝ちゃったからかな」
「無理はするなよ……」
整った顔が曇る。些細なことも心配してくれた彼は、あたしに触れようと伸ばした手を……途中でぴたりと止めて急いで引っ込めた。何か思いついて気が変わったみたいに。
「ルシフェル?」
「いや……汚れてる、から」
確かに片手は泥まみれ。窓を閉めた時も全然気づかなかった。既に白っぽく乾きかけている汚れは土以外には見えない。爪の間に入ると気持ち悪いんだよね、あれ。
土いじりでもしたの?、なんて自分でもあり得るかどうか疑わしいようなことを尋ねようとして、はっと口をつぐむ。汚れた手の、手首の方が帯状に赤くなっている。不自然な形……あれは、指の痕?
再びあたしが口を開こうとしたのと、ルシフェルが右手を庇うように隠したのは同時。
「ちょっと転んでしまって」
照れたように笑う。昏い目を軽く伏せたまま。
「洗ってくる」
「あ、うん……」
――嘘だ。
わかっていたのに何も言えなかった。洗面所に向かう背中を黙って見送る。
それに、本当のことを言うほどでもなかったのかもしれないと思い直した。夢のことを言わなかったのと同じで、彼も、きっと。