第9話:契約 - 彼の場合
頬を撫でる風が心地好い。より澄んだ空気を吸いたくて、川の方へと飛んだ。
飛び立つ瞬間は少しだけバランスを崩しかけたが、さすがは私、既に力は再生し始めているようだった。もっとも、全て戻るにはどれだけの時間がかかるか知れないが。
そっと降り立った川岸の土手。いっぱいに伸びた草の若々しい輝きが眩しい。陽光の下、一対の黒い巨翼をしまい、ようやく深く息を吐いた。
……そういえば、この土手は以前も夏祭りの時に来た所だ。彼女と並んで座り、夜空を照らす大きな花火を眺めたのだったか。そんな場所に来ていたことに気付いて、私は苦々しい思いを禁じ得なかった。
――「来年も一緒に来たいな」
そう笑った少女に私は確かにうなずいたのだ。だが。
「……悪いな。約束、守れそうもない」
ひとり、呟く。さっき嘘を吐いたというのに、我ながら未練がましい。
魔力を消耗したのは犯人捜しのためではない。本当のことを言わなかったのは心配させないためではなくて、ただ知られたくなかっただけだった。これは私の我儘だ。一つ嘘を吐こうが、百の嘘を吐こうが、染まることのできる純白の余地は己にもう残されてはいないのに。
私の幸福のために彼女を救うのではいけない。彼女の幸福のために私は傷つかなければならない。それが堕ちるために傷ついた友のための償い、私自身の過去へ対する……償いだから。
今更、というのが相応しいか。かつて自分で呪った焔――人間に関してここまで振り回されるとは、なんと滑稽なことか。様々な不吉を運び込むのは彼女を縛る最悪の堕天使だが、そもそも彼が真子を縛ることになった大元の原因は私にある。
と、座っている私の片手に何か冷たいものが触れた。思わず手を引くと、そこにいたのは一匹の子犬。どれほど自分はびくついていたのやら、と照れを誤魔化す苦笑が漏れた。
迷い子だろうか。見回してみたが周囲には誰もおらず、よく観察してみると首輪も着けていない。
「ひとりか?」
尋ねれば、悲しそうな鳴き声をあげながら頻りに鼻を押し付けてくる。なるほど、あの湿ったものの正体はこれだったか。
茶色の毛並みの、小さな犬だった。どうやら気に入られてしまったらしい。薄汚れた毛をゆっくり撫でてやると、余計に身を寄せてきた。
悲しみが、伝わってくる。何故自分だけが――そう叫ぶ気力さえ失った哀れな心。孤独……虚無感。
私は頼られることが好きなのに違いない。寂しさに同調しているなどと自らの内でだけ説明を加えるのは、自分でも間抜けなことと思うし、悲劇の英雄を気取るなんて考えただけで虫唾ものだというのに。――ああ、どうして私の思考はこうも“煤”に塗れている? この身に宿る命は聖なる炎によって生み出されたものではなかったか。
「……お前は、世界が嫌いか」
己を暗く寒い隅へと追いやった世間が嫌いか。人間が嫌いか。
お前の声を聞いてやるから。少しの間でよければ傍であたためてやるから。それが一時的であれ、さらに先の辛さを増させる温もりであれ、他ならぬ私にこの迷い子を見逃すことがどうしてできよう?
「壊れる前に心を解放しろ。でないと……私のようになるぞ」
私の声は届いたろうか。お前の声は届いているよ。お前の灯は強く、美しく燃えている。
こんな私でもこうして動物には好かれるのだ、昔から。
――人間にも?
不意に浮かんだ疑問を打ち消す。馬鹿馬鹿しい! 好かれていたら何だというのか。“私は人間を呪った”のだ。我が能力を以てしても覆すことのできない厳然たる事実、史実。あの時も心は決して穏やかではなかったが、これほどまでに悔いる日が来るとは一体誰が想像できたろう?
だからこそ、だ。二度目だからこそ、なのだ。私は少女を見殺しになどしない、しかしこれ以上親しもうとも思わない――思ってはならない。
少しずつ、少しずつ、用意を進めねば。彼女を縛る堕天使に感付かれる前に……時が来てしまう前に。
これでいいのだ、何もかも。私ひとりが我慢すればいい。私だけが罰を受ければいい。同じ過ちを繰り返すものか。
彼女の泣き顔を見るのはもちろん辛い。もしかすると、私のせいで彼女は泣くかもしれない。それでも、傍にはいられない。やるべきことをやったらもう……
でないと、これ以上彼女の顔を見ていたら私は、私はきっと彼女を――
(『――殺してしまう、か?』)
「……!!」
突如として頭の中に響いた声に、思わず手を止めた。不思議そうに見上げてきた犬と目が合う。黒く、潤んだ瞳。跳ね上がる鼓動。この耳障りな音は血潮が満ちる音か、引く音か。
――皮膚を切り裂く自分の爪。悲鳴。剥き出しの肉塊にほとばしる血潮。死臭。真っ赤に濡れた手のひら。血の海を前に私は嗤い……――
「っ!!」
次瞬、私は反射的に身をひねった。
深々と土を抉る右手。これが生き物に突き刺さっていたかと思うと身の毛がよだつ。犬は怯えたような悲痛な声を上げ、どこかへ駆けていってしまった。
それさえ遠くに。体の中を廻る水流の音にも紛れない甘く冷たい囁きは、永い眠りを思わせないくらい滑らかで生気に満ちている。
(『惜しいな』)
脳裏に焼き付く幻影の赤い色。久しく嗅いでいない戦場の匂いが蘇る。ぞわぞわと背中を這うような気持ちの悪さは寒気であってくれ――断じて興奮ではないと、誰か。
思考を引っ掻き回され、怒りと恐怖に体が震えた。それでも忌々しいことに“彼”とは鼓動が重なっているのだ。何せ我々は、“契約者”なのだから。
「あ゛あ……っ」
しかしあまりに急過ぎるじゃないか、卑怯者! 出てくるな、せめてあと少し、あとほんの少しの間だけでいい……!
右腕が、言うことを聞かない。懸命に左手で押さえつけながら、歯を食い縛り目をきつく閉じる。他の生き物が見えないように。獲物が視界に入らないように。
(『言ったはず。いつか貴様を殺してやる、内から喰らい尽くしてやると』)
声が、聞こえる。契約者であり最大の敵でもある“彼”――否、“私”を名乗る“悪魔”の、久しく聞いていなかった冷たく甘美な呪詛。それが自分の内側に直接響いてくる。
「まさか、力が?」
(『まだ完全ではないがな。たかが腕一本が限界だ』)
争うべきはこの肉体。かつて自分は生き延びるためだけにこの悪魔に大切なものを捧げた。記憶もそのひとつ。きっと愚かな私の、その中でも最大の、失敗。
通常の契約は情を挟むことなど無為の、無味乾燥な遣り取りに終始する。求める側が対価を捧げれば力が貸与され、目的達成の暁には力を失い、対価を支払い、また縁も切れる。
だが我々の契約は、利害の一致に基づく合意であると同時に敵対の始まりでもあった。互いの存在を認めることが自己の存在意義を揺るがすことに繋がってしまうから、我々はどちらも交渉の際に譲れぬ領域を開放することを一度たりともしなかった。だから少しばかり特別な“契約”をする羽目になったのだ。
過去、対価を捧げた灯は再び燃え上がった。現にこうして私は生きている。しかしそのおかげで終に灯が消えるより前に、私と“彼”どちらが殺されるのが先か、常に命懸けの奪い合いを引き摺り続ける運命を負った。
事の仔細は、同朋でさえも知らない。
折れんばかりに押さえつけた甲斐あってか、ようやく感覚が戻り始めた右手に安堵する。だが、「まだ」、ということは。
(『今回は警告をしにきた』)
「警告?」
未だ緊張を解くことのできないままに問えば、呆れたような小さな溜息が聞こえる。不思議と挙動がいちいち馴染む気がするのは、誰よりも永い間を共に過ごしたからだろうか。まるで違うイキモノだというのに……苛立たしい!
(『人間の小娘が何だ、弱小堕天使が何だというのだ。他の悪魔にかまけるなよ臆病者。貴様の相手はただひとり、この私だ。……何を迷っている? 簡単だろう、世界を壊すことくらい。貴様は既に“一度それを成している”』)
「黙れぇっ!!」
堪らず叫んだ。残響が、川面に吸い込まれていく。
恐ろしいことを。世界を壊すだと? そんなことをしたらここに生きる者が――彼女が。
(『裏切り者めが。何を今更になって躊躇っている?』)
「違う、あれは私でなくお前が……」
(『違わない。貴様は既に堕ちたのだ。過去の罪は消せない』)
「違う……ちがう!」
頭に鋭い痛みがはしる。まずい――“呑まれる”。否定を無視を断絶を。早く、早くこちらへ。己の意識をこちらへ!
過去の話など聞きたくない。見たくない。認めたくない。知るな……私の過去を、私以外が知るな!
「あ、がっ……!」
(『……時間切れだ。チィッ、動きにくくてかなわない。以前よりも強いこの鎖、貴様によるものではないな……?』)
悪魔が、何か言っている。見えないはずの視線が怖い。
(『まあ良い。《光の子》、また私は暫く眠る。次に目覚めた時には片腕だけでは済まないぞ』)
耐えきれず崩れるように身を丸めた途端、またしても唐突に体が軽くなる。ふっと、圧し掛かっていたものが消失したような。
息を整えながら恐る恐る目を開けると、土で汚れた右手と、白くなるくらいに力を込めてそれを押さえつける左手が見えた。もう声は聞こえない。視線も、感じない。
そっと手を離して汗を拭う。まだ動悸は治まらないが、頭痛も徐々にひいていく。
暫く眠る、と。本人が言うのなら、多分そうなんだろう。奴は暫くは来ないはずだ。
まったく、厄介なことになった。
いつかは来るとわかっていたが、今回は確かに自分にも非がある。“彼”は契約の時に言っていた――「貴様が最も弱った時を狙う」と。つまり私の魔力が不足したところを、もっと言えば精神的な負担が大きく膨れ上がってくるところを見計らって仕掛けてきたということになろう。その程度、予測できているべきだった。
ひとり相手にするだけでも手一杯だというのに、この上更に、か。おまけに「次は片腕では済まない」という言葉。……否、気にするな。こちらとて、次に向こうが目覚める時までには迎え討つ準備くらいできていよう。この肉体は渡さない。
そう、これが私の罪の重さ。“彼”の存在そのものが《光》と呼ばれた大天使の裏切りの証。一体何度……いや何度でも、恐らくはこの命尽きるまで。大罪を犯した者に、幸福になる権利などないのだろう。自分がなれないのなら、せめて他者の幸福を願うことぐらい、赦されて欲しいものだけれど。
私には泣く権利もない。ひとつ、深呼吸。様々な感情の波は全て心の奥に押し込めて、ゆっくりと立ち上がった。