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第8話:目覚め


 一日目。ずっと彼は眠ったままだった。少なくとも、あたしが起きている間は一度も目を覚まさなかった。それでも前日よりは容態は良くなっているみたい。そっと額に触れてみたけど熱は下がっているようだったし、呼吸も規則的なものに落ち着いてきていたから。

 氷嚢(ひょうのう)も外し、冷えたタオルよりも温めたタオルで汗を拭いたり、季節外れのちょっと高いりんごをひとつ、いつでも食べられるように準備しておいたり。

 その日はあたしもソファーの傍で座ったまま睡眠をとった。寝るつもりはなかったというのは主張させてもらいたいところだけど、彼の様子が安定してきて気が抜けたのも事実。うなされることもなく本当に静かな眠りだったから、夜中に起きるということもなかった。

 

 二日目。数時間おきに眼を開ける彼と、会話をした。といっても、「学校に行ってくるけど、大丈夫?」に返された「うん」と、「ご飯は食べられそう?」に返された「いや」の二言だけ。微睡(まどろみ)の中、あたしと視線を合わせることさえしてくれずに、彼は目覚めている貴重な短い時間をずっと、天井を眺めて過ごしていた。

 食事は摂らないけど水だけはどうにか飲めるみたいで、一応はと用意しておいたボトル入りのスポーツドリンクが少し減っていた。探るようなことはしたくないのだけど、恐らく彼はあたしが寝ている間にも何度か目を覚ましていたのだろう。わざとなんかではないんだと信じたいからか、日中の寝顔が狸寝入りに見えることはなかった。本当のところどうなのだかは知らない……別に、知りたいとも思わない。

 穏やかな寝顔は幸せそうで、それが逆に辛くなる。気の遠くなるような年月を生きてきた堕天使の顔には時々あどけない影さえも窺えて、夢の世界にいた方がどんなにか心が休まるのだろう、目覚めることを諦めないで欲しいと思う自分と、それさえも彼を苦しめるのじゃないかと迷う自分と二律背反。そしてあたしの大好きなひとはとても疲れていたのだと、改めて思う。

 

 三日目。起きている時間が長くなる。彼は相変わらずソファーの上に仰向けに寝そべったまま、腕を伸ばして何やら手を動かしていた。手の中は空っぽなのに、まるで棒のようなものを弄ぶように、くるくると細い指を動かす。

 くるん、ぱしん。くるん、ぱしん。

 やわやわと奇妙な手の動きは怪しいといえば怪しかったが、天井を見上げた目には色がなくて、何かにとりつかれたかのように頻りに手を動かし続けていた。そこに声をかけることなんてできなかったあたしは、ただ普段の生活をできる限り心がけた。

 

 四日目。前の日と同じように腕を伸ばし、今度は本当に物を……テーブルにあったボールペンを弄っていた。くるん、と回して消したかと思えばテーブルに出現させ、と次の瞬間にはひゅん、と指を折り曲げて手元へ戻す。飽きもせず黙々と、一見して無駄にも思える些細な能力行使。だからそれは暇潰しというよりも、リハビリに近いように見えた。

 ずっとソファーに寝ているのは辛くなってきたろうか、とあたしはタイミングを計って自分のベッドに移ることを何度か奨めたのだが、断固として拒否された。「ここでいい、ここがいい」って。単に女子のベッドに寝ることに抵抗があるとか、一年間の生活を鑑みるにそういう思考の持ち主でないことは確かだ。

 水だけは、相変わらず口にした。とうとうおかわりを頼まれた時に再度何か食べないのかと尋ねたものの返答は変わらず、「水は生命の源だろう」と、そんなことを言っていた。

 

 そして、倒れてから五日目の今日。

 ルシフェルはようやく体を起こした。ぼさぼさの黒髪、極端に蒼白な顔色。それでも水だけで数日を過ごした割には、思ったほど痩せこけてはいなかった。まあルシフェルがこれ以上痩せたら、本当に病的なガリガリになってしまうんだけど。

 幸いにも今日から夏休み。講習もなく学校は休みだったから、彼が起きた時にちゃんと傍にいられた。

 

「……よく寝た」

 

 どうにか自力で身を起こし、ソファーの上に胡坐をかいた彼の第一声がそれだった。安心するやら呆れるやらちょっと腹立たしいやらで、あたしは思わずため息を吐く。ぼんやりしている顔は、それでも、朝の光に照らされてとても美しかった。

 長い間閉ざされていた瞳にいつもの鋭さはなかったけれど、その代わり、どこともない――しいて言えば自身の手元の一点に視線を落としていたから、すごく円やかでやわらかくて……脆い印象を受けた。

 

「力を、使い過ぎた」

「えっ?」

 

 予想に反して先に口を開いたのはルシフェル。ぼそぼそと、言い訳がましく。

 

「思ったより犯人を捜すのに手間取ってな。こう……万魔殿全体に意識を発散させていたら、魔力を消耗するのが速くて」

 

 犯人……ああ、あの、軍馬を逃がした?

 意識の発散。なるほど、その言い方はわかりやすいかもしれない。あたしはかつてルシフェルの体を使ったことがあるが(お互いの中身が入れ替わってしまったのだ、どういうわけか)、その時に自分の周囲に感覚の糸のようなものが無数に張り巡らされているのを感じた。本人曰く、その糸で他のモノの存在に“触れて”干渉するのだそう。あまりに危険だからあたしは実践はしなかったけど、今回はそれをセンサーのように働かせたということなのかもしれないと思った。

 

「犯人って捕まったの?」

「あ……うん、まあ」

 

 消え入りそうな声で呟くと、そのまま彼は洗面所へ。顔でも洗いに行ったのか。怠そうな足の運びだったが、しっかりとまっすぐに進んでいるのを見て、少なくとも一から十まで空元気ではないとわかる。

 一方のあたしは台所へ。ちょうど朝食の準備をしようと思っていたところだったのだ。冷凍しておいた米をレンジで解凍し、昨日の残り物の豆腐ハンバーグに根菜の炒め物を添える。フリーズドライの卵スープの素は、ご飯と煮て雑炊を作ってあげるためのもの。簡単なものになってしまうけど起きたのが急だったし、と心の中で言い訳を呟いてお湯を沸かす。それより何より、ルシフェルが少しでも元気になってくれた嬉しさと安堵感ですごく楽しい気分だった。誰かのために料理するのは本当に愉しい。

 それにしても、たったひとりを捕まえるために彼はどんなに力を使ったんだろう、というのは失礼かな。万魔殿は広いから大変だった? それとも犯人が手強かった? でも魔王が、堕天使長が、こうも簡単に倒れてしまうものだろうか?

 けど、とにかく。回復してくれたのは良いことだ。ルシフェルが何も語らないのだから、これでいいに決まってる。またいつもの生活が始まるに違いないんだ。

 早く朝食をでかしてしまおうと台所に立つあたしの背中に声がぶつかる。

 

「ああ、あとな」

「うん?」

「私の分の食事は、要らないから」

「……は?」

 

 耳を疑った。食事が要らないって言った?

 

「ま、まだ食べられないの? 具合悪い?」

「いや、そうじゃないが。単に不要だと言っている。これから先も」

「え、ちょっ……!」

 

 なんだ、どういうことだ。あの超がつくほどの食いしん坊が。あの無限の胃袋が。

 思わずお椀を取り落しそうになる。レンジから、解凍終了を告げる場違いな音が響いた。火にかけた愛用の鍋の中で、お湯はとっくにぐらぐらと苛立たしげに沸いている。

 顔を拭き濡れた前髪を手櫛で軽く整えながらやって来たルシフェルは、硬直するあたしの横をすり抜けて長い腕を伸ばし、ガスコンロの火を止めた。普段は聞こえないような消火後の微かな残響を聞いたまま、黙って彼の心を読み取ろうと見上げるあたしと、小さく純な笑いを零した彼と。

 

「そんなに驚くなよ。私は堕天使だぞ。人間と違って食べ物を摂る必要がないと言ったろう?」

「それは、そうだけど」

 

 諭すような口調に腹が立つよりも困惑する。何と言ったらいいのか。確かにどこにもおかしなところはないはずだ。理論的には当たり前のこと、微笑んだ堕天使が言っていることは正しいのだから、うなずく以外に正解はない。

 けど違う、違うよ。ルシフェルはいつもご飯を楽しみにしてたじゃん。堕天使なのに、食べることが好きだったし……あたしの料理を、おいしいって言ってくれたじゃんか!


「……」


 でも、結局は彼の論理の前に崩れてしまうこの気持ちを、どう表現して伝えたらいいのかわからなくて。何も言えないあたしを置いて、ルシフェルはベランダへ出るための窓を開ける。

 待って、行かないで。

 どうしてこんなに焦ったような気になるのだろう――ならなければ、いけないのだろう?

 

「私がいると気を遣わせてしまうだろうから、食事の時間は外にいるよ。その辺をうろついてくる」

 

 また後で。

 そう言って飛んだ彼を見送って、あたしは呆然と台所に突っ立っていた。


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