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第37話:二度目の祝福

 さらさら。ふわふわ。ゆらゆら。

 どんなに上質な布よりも滑らかで。

 どんな陽だまりよりもあたたかくて。

 どんなに可憐な花の香よりも甘やかな。

 無限に広がる白の空間。久方ぶりの感覚に、体の奥を鷲掴みにされるような切なさに、彼は知らず小さく喘ぐ。


 ――貴女が示した幸福とは、このことだったのですね。


 答えはない。けれど彼は微笑んだ。


「主よ。やっと、見つけました」


***


 万魔殿の医療施設をひとりで訪れると、中は騒がしく往来も頻繁で、以前アシュタロスさんが運ばれたときとは雰囲気が全然違っていた。それでも絶望的な空気はなく、一つの困難を乗り越えた安堵を感じさえするくらい。

 そっと胸を撫で下ろし、ある堕天使に面会したい旨を伝える。受付のお姉さんはちょっと驚いていたけど、すぐに案内してくれた。


 ノックして声をかけたけど返答はない。ダメではないんだろう、と勝手に解釈をして扉を開ける。思いの外こじんまりした個室だ。もうすぐ夕方になろうという時限の橙色と、独特の薬臭さで満たされた部屋。

 ベッドの上の堕天使は、包帯を巻かれた腕を顔に載せたまま。


「…………あの方を愛していた、から」


 顔は見えないけれど、その声は幾分湿っていた。


「誰かに必要とされなければならなかった。存在理由が欲しかった。けれど周りのためと言っておきながら、結局全て自分のためで、何も与えることができなくて。そのことが――それ以上に、仲間を欺く偽善者でいる己が許せなかった」


 傍らの椅子に座る。

 ああ、このひとは。分かっていたはずなのに改めて心から思う。このひとは本当に……生まれながらの王なのだ。そしてとても、呆れてしまうくらい優しい。それなのに、ごく自然に自分だけはその優しさの対象から外してしまう。

 みんなを頼っていいんだよ。全然恥ずかしいことなんかじゃない。きっと神様も……いや、神様の気持ちをあたしなんかが代弁できるはずがないけど。今だけは人間の傲慢さを許して欲しい。

 だってきっと神様も、ルシフェルの幸せを願ってた。親は自分の子供の幸せを願うものでしょう?


「だから傷つきたいと願った。自己犠牲とは甘美な痛みだ、償いのふりをした我が儘だ。現に周りも傷ついていくことはわかっていたのに。それでもこうするしかなかった。痛ければ痛いだけ、誰かが許しをくれるのじゃないかと」


 ぐっと拳を握った彼は、親子の繋がりを知らない。確かに在るのだろうに、理解しようがないのだと思う。生まれ、その時から責務と力を与えられて。対価のない愛の受け取り方を彼は知らない。

 託された願いに沿うだけじゃなくて、純粋に甘えることができたらどんなに良かったろう。お母さん……仮に神様をそう呼べるような天使だったら、どんなに気が楽だったろう。これは人間から見た極端な考えではあるけれど。

 不器用で、そして誰よりも努力家で。

 いつだって貴方は傷だらけだった。仲間が被るはずのそれも全部ひとりで引き受けようとして、罪を忘れることも、甘えることすら己に許さず。

 誰に強制された訳でもないだろう。でも、貴方は賢すぎた。自分に課せられたものの大きさも才能もあまりに早く理解してしまったから、そうやって生きていくしかなかった。

 贅沢な悩みではあるんだろう。『何でも出来てしまう』が故に『しなかった』後悔は他人の何倍も多くなる。貴方は世界にひとりしか居ないから、どうしたって手が足りなくなるに決まっているのに。優しすぎて諦めることもできない。

 そしてそのこともきっと、幸せだと断言するのだろう。


「でもその刃がお前に向かうと知った時、嫌だと、思った。欲張りな私は失うのが怖くて、失うくらいなら……最初から手に入れなければいいのだと」


 今でもね、拒絶された時のことは思い出すとショックだけど。それ以上に貴方の気持ちを想像すると、悲しくて仕方なくなるよ。

 どうかこの先、貴方が二度と同じような気持ちになりませんように。笑っていられますように。


「ずっと欲しかったものは……己に相応しいと思い上がっていた愛は」


 微かな、悲しい笑いが零れる。


「どうあっても、届かなかったよ。それから初めて望んで主以外の誰かの……お前の傍に居たいと思った。お前の隣は私でないと嫌だった。それなのに漸く見つけたものが永遠でないことが、すごく、辛くて」


 だから優しくすることを止めたのだと彼は言う。それは……そうなのかもしれない。二度も痛い思いをするなんて堪えられない。


「また間違ってしまったのだろうか」


 ひとりごちる。とても寂しそうな声で。


「独り善がりな欲望を」

「……」

「運命なのだと言い訳を並べて。力を授かったから。幸福なことに、特別だったから」


 ベリアルさんとの契約が破棄されて、あたしが自分自身の生を取り戻した以上、この先に保証はない。もしかすると明日にでも死んでしまうかもしれないのだ。

 死ぬのは勿論怖い。それは現状が幸せだと感じているせいかもしれないし……でも正直なところ、実感がない。


「どちらがお前にとって幸せなのか最後まで迷っていた」


 彼はぐしと顔を拭い腕をおろす。

 天井を見つめる端正な横顔。細められた紅い瞳がとろりと潤っていることに、光があることに本当に安堵した。と同時にどきどきしている自分の心臓に気付く。


「私はただ、な……お前に生きていて欲しくて……」


 言葉の行き着く先を待った。

 たくさんの手当の痕。堕天使長様ならすぐに治ってしまうかもしれないけれど、こんなにも傷ついてしまったのだ。あたしのために。


「守りたいと思って命を懸けたのに、いつも泣かせてばかりだった。身を呈するほどお前は悲しそうな顔をした。だから、どうしたらいいのかわからなくなって……」


 ふとこちらを見て自嘲する。


「どうにも自分勝手だ」

「そんなことない。ルシフェルはあたしを救ってくれた。約束、守ってくれた」


 首を振って返す。絶対に守るって約束も、命を取り戻す契約も、『最後』まで。


 果たしてくれた。

 だから彼にはもう、あたしに関わる理由がない。


 お礼を言うと、彼は本当に安堵したような優しい顔で「うん」と頷く。


「……ベリアルを、恨むなよ。あれにも《役割》があるのだから」


 そう呟いた。

 役割。あたしの役割は何だろう、貴方にとってあたしの……それは傲慢だって言われるだろうか。ベリアルさんがどうなったのかは、怖くて訊けなかった。

 

「……終わったんだね、全部」


 彼とあたしの人生が交わったのはベリアルさんの契約があったからで、たまたま彼自身が見出だしてくれたから。

 ずっと黙っているのに部屋の外は不思議なくらい静かだ。窓から差し込む光は地獄と思えないくらい柔らかい色。あの石畳の通りをまた一緒に歩きたいなと思った。


「こうしていると、共に過ごしてきた日々を思い出すよ」


 彼が穏やかにそう言った瞬間、もうだめだった。気付けば言葉が溢れていた。


「あたしが助かったから……ルシフェルと……お別れ?」


 訊かなければ肯定されることはないと思っていたのに。嫌で、嫌で、答えを聞きたくない。

 ルシフェルは心から大切なひと。主張してやるんだ。心から愛してるひと。

 だけどあたしは人間でルシフェルは堕天使。この瞬間に。あたし達の関係が一区切り、ついてしまう。


 暫くの沈黙の後、彼はゆるりと半身を起こす。支えようと慌てて腰を浮かした。


「私は長い長いこの生、一度も退屈だと思ったことはない。けれどお前と過ごした時間は、特に充実していた」


 泣かない、泣くもんか。ルシフェルにもやるべきことがあるんだ。きっと彼はあたしと過ごした時間を過去に押しやろうとしている、そんな言い回しだもの。邪魔をしちゃいけない。

 彼にとっては悠久の中の事故みたいなものだったんだろう。むしろここまで共に居てくれたことに感謝するべきなのかもしれない。


「そう悲しい顔をするものではないよ」


 頬に添えられた手。こっちはこんなに身体中を沸騰させているのに、彼の手はいつも通りひんやりと冷たい。作り物のようなそれが目許を拭ってくれる。同じ人間ではないのだと否が応でも感じさせられて、寂しくてすごく怖くなる。

 ふと、美しい宝石があたしを捉えた。


「お前はこの先どうしたい、真子」


 初めて出会った時から心を捉まえた、その瞳。

 訊ねてくれたことが情けだったとしても、


「……っ」


 嫌だ、本当は離れたくない、の。契約の時だってあんなにいっぱい願ったのに。

 言わなきゃ後悔するから。ねえ、お利口ないい子じゃなくてごめんなさい。わがままなのは分かってる、それでも。


「あたし……あたしは……ルシフェルと一緒にいたい」


 そう、と呟いた声は起伏なく静かで。じっと見つめてくる瞳に過った感情は読めない。彼は笑いも辛そうにもしなかった。ついに泣けてきてしまって、頬の手を逃がさないように包み込む。来るとわかっている悲しさを待つのがこんなに辛いなんて知らなかった。ここで時が止まってくれたら。


「我々は年を取らない。お前達の刹那の刻に同調することはできないんだ」

「うん……わかってる」


 崩れそうな足を必死で踏ん張る。今に始まったことじゃない、いつかこうなることはわかっていたはず。もうみっともない姿を見せるのはこれで終わり。頑張れ真子、いい女であるんだ最後まで。


「いずれお前の生を縛ることになるぞ」

「う、ん?」


 ……せいを、しばる?


「きっと私は、人間同士が寄り添う程度の時間では満足できないから」


 …………え?


「悪いな。『悪魔』というものは一度得たものを手放すほど寛大でもない」


 その時の彼の勝ち誇った笑み、きっとあたしは忘れない。違和感を覚える余裕もなく顔を見返すばかり。

 なに、それ? どういうこと?

 にやりと口の端を上げた堕天使長。悪魔だと彼が自称したことに驚く間もない。そんなこと言われたら、期待、しちゃうじゃないか。


「それでも構わないなら覚悟するがいい。私は誰にもお前を渡さない。一生を共に在ると、この私に捧ぐと、誓え」


 一生を、貴方に。

 ずっと、貴方と。

 それは、つまり、その。


「なんか、プロポーズ、みたい」

「婚姻か……その形を望むか?」


 アホな言葉を律儀に拾って、真面目に眉根を寄せる姿がたまらなくいとおしくって。

 何を思ったかなんて言葉にできない。ただ彼に向って両腕を伸ばした。そのまま寝台の上で抱きすくめられる。


「ふふ、畏れ多いことをする」

「あっ、ごめ、痛い……?!」

「いいや」


 続けようとした言葉を呑み込んだ気配がする。でも、


「真子」


 世界一大好きなひとが名前を呼んでくれる。それだけで今は何も要らない気がした。


「我、ルシフェルは、汝に《幸福》を」


 口づけて微笑んだ元天使の首元に顔を埋めた。ぎゅうと込められた力は、彼にとっては懺悔か贖罪だったのかもしれないけど。


「愛している」

「うん……あたしも大好きだよ、すごくすごく」


 一度で足りないなら二度、二度で足りないなら三度、それでも駄目なら何度でも。貴方の心に届くまで、あたしは……あたし達は言うよ、想うよ。生まれてくれて、出会ってくれて、今ここに生きていてくれて。


「ありがとう、ルシフェル」

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