第36話:終局
それはあまりに唐突で、あたしを含め、何が起こったのか一瞬誰も理解できなかった。
「そ……んな……」
「アシュタロスさん?」
口を覆い珍しくその場にへたりこんだ堕天使を見て――違和感に気付く。
風景がやけにクリアだ。虹色のあの膜が、消えている……?
ずっと窓辺で外を睨んでいたベルゼブブさんが、立ち上がりこちらへ寄ってくる。それを見ようともしないで、ううん、どこか遠くを見つめたままアシュタロスさんは呟く。
「術者本人にしか解けないこの結界は、命を懸ける証です。必ず此処へ戻ってくるという誓いの証」
嫌な予感がした。呆然とした声に色はない。
「しかしだからこそ、この結界が解ける条件はもうひとつ存在します。いえ、“もうひとつしか有り得ません”」
「オ、オイ……!」
ベルゼブブさんが詰め寄るのと同時、続く言葉があたしにも予想出来てしまう。
気の遠くなる感覚。耳鳴りがひどい。やめて、違うそんなはずない。だって、でも、ああ!
「それは術者が死――」
……耳鳴り……?
まさか。
「お前達を置いて、消える訳にはいかないだろう」
いつもの転移の予兆。魔方陣なしで現れる堕天使を、あたしはひとり知っている。
中空に現れ、音もなく降り立った彼は。視界がぐしゃぐしゃで定かではなかったけど、少しだけ、ほんの少しだけ辛そうにしながら微笑みを向けてくれた。
「終わったよ、真子」
***
「フン、他愛ない」
口許の血を拭いベルフェゴールは言う。街は見るも無惨な姿となっていたが、誰ひとり欠けることがなかったのは奇跡に近い。
「存外にしぶとかったわねぇ。久し振りに頑張ったら疲れちゃった。……くしゅん!」
幾度も氷結魔法が使用されたお陰で、大気はすっかり冷えきっていた。と、「阿呆が」の言葉と共に何かを投げられる。受け取ってみれば、ベルフェゴールが寄越したのはいつも彼が纏っている上着。
「そんな服装で来るからだ。俺の能力は知っているだろうが」
「あら、気が利くじゃない」
「喧しい。下らんことで倒れられても困る」
「アタシが居なかったら危なかったクセに」
反論の代わりに不満げに鼻を鳴らす音。
「あーあ、またイチから門の中身を管理しないといけないのね」
思い返すも、何故かやけに印象の薄い堕天使だった……と思う。あれだけの力を有していたというのに。《大罪》でないにも拘わらず、ここまで膨れ上がっていた《強欲》を抑え込んでいたのは驚嘆に値する。
恐らくあの美しい堕天使も名を持っているのだろう。当人は《無価値》だなどと嘯いていたが、それは一面に過ぎないはずだ。
いずれにせよ。
「全くだ。天界の内輪揉めなど、堕ちる前に済ませれば良いものを」
悪態を吐きたくもなる。蓋を開ければどうということはない。玉座を争った時とてここまでのことはなかった。
「まぁ、悪いことばかりでもないじゃない? お陰でもうひとりの管理対象は、その必要がなくなりそうだし」
肩をすくめる。オモシロイものが見られなくなったことは残念だが、長を管理する、という歪な関係が改善されたのはきっと喜ばしいことだ。それに同胞を討たねばならないのは、いくら躊躇う程の感慨はないとはいえ、あまり気が進む話でもない。
「《大罪》の空席は放っておいても問題ないけど、新しい《門番》は探さなくちゃね。今度は喧嘩しないコがいいわ」
「同感だ。そこで考えがある」
***
地割れで生じた亀裂や岩をひょいひょいと飛び越えながら、紳士は改めて戦場だった場所を検分する。
今はもぬけの殻となってしまった門の奥。この景色もそう長くは続かないだろう。如何な命であれ、欲がなければ生きていくことは出来ないのだから。
「さて、門があるのなら番が要るね。我が輩なら務められるが……残念ながら、我が輩は彼ほど狂うことができないのも事実」
操るものが煉獄の炎であるとはいえ。何十年も何百年も何千年もひとつところに意識を置き、たったひとりの天使に執着し続けられるほど、メフィストフェレスの好奇の志向は纏まってはいないのだ。
ぱん、と白手袋を打ち合わせて。
「そうだ、ここにお茶会の用意をしよう! いい考えだとは思わないかね、ヴァサゴ君?」
目を輝かせ振り返る。何処に赴くことも容易にできなくなるのなら、《紳士同盟》の拠点を移してしまえば彼等が退屈することは決してないはず。
素晴らしい提案に、それまで何も言わず着いてきていた堕天使は、目深に被った帽子の下で困ったように小さく笑った。呼応するように肩の鳥が羽ばたく。
「ああ、これは失礼……今はアガレス君か」
“ふたりとも”聞こえているはずだから、然したる問題ではないけれど。相互の名で語られるというのも難儀なものだ、と、狡猾で知られている堕天使はため息を飲み込んだ。
戦場で天使の姿を見つけたのはそれから程無くしてのこと。
二名の紳士が視界に捉えた、見覚えのある立ち姿。戦場に於いて敵として出会いたくない苛烈なる大天使は、幸いにも地獄の住民へ剣を向けることはない。それはそうだ――もはや争いは過ぎた。
気付き、飛翔してくるその翼は純白。
「ウリエル君……か?」
「メフィストフェレス……先生」
かつての教え子は、やや戸惑ったように目礼してみせた。
メフィストフェレスは得心し頷く。確かに上空から炎を向ける際、《強欲》や地震を操る堕天使以外にも動く者が居るとは思っていたが。
「道理で。やけに腕の立つ戦士がいると思っていたよ」
対するウリエルは苦笑してみせる。
「貴方も戦が好きなのか? 俺まで焼き払われるかと思った」
「まさか、冗談はよしたまえよ~!」
快活に笑う紳士だったがしかし、傍でアガレスは咳払いを一つ。その黒衣の裾が焦げていることに、ウリエルはとうに気付いている。
「ミカエルに命じられた」
言葉少なに告げれば、紳士らは瞠目し息を呑んだ。大天使を動かせる立場の者など決まっているが、よもや地獄へ遣ることがあろうとは。
ウリエルは暫し反応を待ったが、意外にも堕天使からの問いは何もなかった。見回せば暗く、深く、紅く。爬虫類の舌のように大地から吹く小さな炎と、決して終わりの見えない黒の天井。遠くには場違いに巨大な門。あまりに深いという感慨こそあれ、まるで興奮も陶酔もないことが、ウリエルが未だ天の使いである証なのかもしれない。
「メフィストフェレス。出来ることなら……天使に戻りたいと思うか?」
「いや」
逡巡の暇はない。人間は努力次第で天界へ行くことができる。かつてそれを羨んだ堕天使は否定し、全てが全て嘘ではない言葉を口にした。
「もがく魂を見るのは嫌いではないのでね。飽きるまでは」
「……そうか」
「だが、もし……もし我が輩達と再会したいというのなら、それは決して難しいことではない。いつだって我々は喜んでお茶会に招待しようじゃないか」
ウリエルはただ瞬きをしたのみだった。それは寂しさかもしれなかったし、かの素晴らしい箱庭への未練を認められなかった失望や焦りもあり、それ以上の前向きな諦めが心を占めた。
直接聞いた訳ではなかったが。きっと、彼女もそうなのだろう。確りと頷く。
「楽しみにしておく。その時はぜひ、ミカエルも連れていこう」
***
天使の眼前というのに、珍しく座り込んだ悪魔。力を長時間酷使し続けたために、その両腕では未だ雷撃の名残が音を立てて弾けていた。黙っているだけでも辛かろう。思わず治癒をと屈もうとすれば、ギロリと睨み上げられる。
「……そう怖い顔をしないでくれ。もう何も奪わない」
「笑えるな、流石に自覚はあったんだね」
まるで獲物を横取りされまいとするかのような姿。あの時は見せもしなかった。
その実ラファエルは驚いていたのだ。悪魔がここまで力を尽くして何かを守るなど……
「侮るなよ。僕だってこの都に愛着はある」
心を読んだかのようにアスモデウスは吐き捨てる。ラファエルは中途半端に差し出しかけた手をやはり引っ込め、その場に立ち尽くす他なかった。
「お前さ、なかなか容赦がなかったよね」
不意に金眼を逸らし手をついた先、自棄気味に力を込めれば瓦礫が砕け散った。
「ま、それは僕がいちばん知っていることだけど。この身を以て」
唇は持ち上がるも、目には全く温度はなく。
当時は互いに若かった、のだろう。ラファエルにとってはあれが最善だった。
「お前こそ。悪魔の割には器用なことをする」
「天使サマ方はどうにも僕らを野蛮で粗暴な低能と定義したいようだけど、生憎と悪魔にも悪魔なりの美学があるんだよ。全員が《強欲》みたいな筈ないだろ?」
「何もそこまでは、」
「それこそ、お前らの方がよっぽど理解していると思うけれどね」
義を貫き堕ちた天使。万が一にも彼を天界の恥と断じるのなら、主に顔向けできる行いなど、歴代どんな天使も成していまい。
「これは僕の持論だけど。お前ら天使は絶対に認めないだろうし、うちのベルだって聞いたら怒り狂うかもしれない。でも……僕ら悪魔にしか救えない魂だって、確かに、在るんだ」
「そう……かもしれないな。そして俺達は、ルシフェルが堕ちるまでそれに気付きすらしなかった」
知の探求者が聞いて呆れる、とラファエルは内心で自嘲する。結局は都合の良い側面しか見ようとしなかった。その結果があの反乱だ。
「お優しい天使サマ方は救いを求める声を聞いてやるのかもしれない。けど、僕らは違う。心が死んだ奴は哀れだとこそ思うけどね。残念ながら、感情の動きこそ僕らの大好物」
皮肉に対する反応の無さにふと大天使を見た悪魔は、美しい顔を醜悪に歪め舌打ちをした。
アスモデウスの側とて驚いていたのだ。どうにも天使というのは、平穏な世界に在って、悠久を経てすら真面目な鍛練を欠かさないらしい。あれだけ魔力を行使して平然と立っている、更に治癒までしようとする!
「お人好しも大概にしろよ、そんな顔、まるで僕が悪者みたいじゃないか」
言わば八つ当たりだった。そのあまりの言い種に、思考に沈んでいたラファエルも思わず小さく吹き出す。それに気付かぬ振りで悪魔は捲し立て。
「同じことだろ、お前らにしか聞こえない声だってある。あるものをあるがままに捉えれば良いのに、天使ってやつは善だ悪だって、本っ当に馬鹿みたいだね!」
最たる愚か者を思う。絶対の善でなければ純白でなければ、彼は自身の存在を許すことができなかった。だからこそ、あれだけ純度の高い《大罪》となったのだ。
言うだけ言っても未だ動けないのだろう。転移魔法すら使わないところを見れば、アスモデウスは相当に無理をしたらしい。腕からの放電は、少し鎮まっているようだった。
「もうこの辺には何も残ってないよ。さっさと消えてくれ」
「……ああ。すまなかった、その……ルシフェルに」
「よろしくって? はっ、嫌だね」
背を預け、こうして言葉を交わす日など二度と訪れないと思っていたが。
「言いたければそのくらい、自分で言うといいさ」
放られた言葉にラファエルは目を見開く。彼の堕天使には、いよいよ礼を伝えねばなるまい。
「言っておくけど、模倣というのは美しくも何ともない。お前、堕ちたら僕が赦さないからな」
***
――やあ、終わったかい。
――恩返しのつもりだったんだよ。
――珍しいね、君がそんな“善行”をするなんて。
――「お前は主に愛されているのだな」
――ん?
――そう言ってくれたんだ、彼は。僕の力を唯一受け入れてくれた。
――ふうん。
――もらったものを返すことは善でも何でもない。現に今回は彼等の結び付きが強くて、あんなやり方しかできなかった。
――うん、観ていたよ。ずるかったねぇ。だって君は死なないのだもの。そうだろう、《輪廻》?
――まあね。でも命を懸けなければ、彼も本当に求めているものの正体がわからなかっただろう。
――まったく危険な賭けだね。ひどい奴。
――期待だと言ってくれ。それにねえ、君にだけは言われたくないよ、ザドキエル。……本当は、あの天啓は告げられないはずだった。違う?
――ふふ、どうだろうね?
――君は御言葉を受け容れつつも、選別は行っていたはずだ。絶望を契機とするにしたって強引な……
――ああでも、記憶に関しては僕のせいじゃない。彼自身が自分の過去に蓋をしただけ。
――……つまり君は、遅かれ早かれ“ふたり”が乖離するって、わかっていながら放っておいたね?
――仕方がないだろう。僕は《器》に過ぎないんだから。それに彼も言っていたはずさ、変えられない運命なんてない、ってね。