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第35話:LUCIFER

 “君には大切な弟がいた。”


 ……そうだ。

 覚えている。思い出した、金色の光だ。


 “君は最初から偉大なる光として生を授かった。誰よりも美しく、賢く、気高く……そうやって創られた。”


 “天界は素晴らしい所だった。君の大好きな主の光が至る所に満ちていた。澄んだ大気は草木の本来の色を見せ、泉に集う鳥達の囀りは心地好く響き渡って。数多の天使が君のことを慕い、無論、主の寵愛も格別だったと聞く。そして……何より大切な弟がいた。

 君は幸せだった。今よりもずっと。”


 “――でも君は自らその幸せを壊した。”


 捧げた『つもりで』目を逸らしつづけていたこと自体が罪の意識となって待ち構えている。封じてしまった記憶、保身のために忘却した愛する者の存在。

 あのまま見ない振りをしていたなら。最たる光明であることに拘らず、箱庭の守護者としての座に満足していたなら。

 主に近付くことさえ望まなかったなら。


 “君がいなければ人間も死ななかった。光として生まれながら、君はたくさんのものを裏切り、傷つけた……そしてこれからも”


 “君がいなければ、誰もが幸せだった。”


***


 見覚えのある暗闇だ。あの時はまともに目も見えなかったが、感覚で、わかる。

 悪魔が己以上に呆然とした様子で立っていることもまた、なかなか面白かったが。

 鏡を見るのとはまた違う感覚だった。だが不思議と厭な気持ちでもない。堕天使は肩を竦める。結局はこれしかないというのか。

 背中の様子を確かめることはできなかった。それでも先の死闘が嘘かのように痛みは感じず、確かに貫かれたはずの腹にも穴は空いていない。まさか――ベリアルはこれを狙っていたと?


「お前の姿、初めてまともに見た」


 苦笑いする。何故あれだけ憎んだ存在を前にして友のように語りかけているのか、自分でもよくわからなかった。どこか自棄であることは確かだが。もう彼を縛る力など残っている筈がない。そうでもすれば、本当に主の御許にさえ辿り着けなくなってしまう。浅ましく思えどその執着だけは捨てきれなかった。


「良かったな。私が消えれば、晴れて肉体をものにできるぞ」


 虚勢と捉えられようと相手が相手だ、特段構うまい。精一杯の皮肉のつもりで発する。

 鎖もない、戒めもない。それでも悪魔は動こうとしなかった。じっと堕天使を見つめている。


「……なあ、ルシファー。どのみちこれで最後なのだろう。私の話を聞いてはくれないか」


 ふと気付く。果たしてこんな風に名を呼んだことがあったか。これだけ長い間、身近にいたのに。


「皆にはな、感謝しているんだ。私を……自惚れかもしれないが、慕い愛してくれた。今回もそうだ。馬鹿げているよな、取るに足りない一天使の望みを」


 眠っていたとしてもきっと同じものを見てきた悪魔に語る。反応はなかった。

 あれで良かったのだ。何度目かわからない言葉を言い聞かせる、呪いをかける。救われることがないと知った時から、こうしなければ正気を保ってなどいられなかった。主以外の手など取る気は初めからなかったから。


「だが同時に。頭を垂れぬ膝をつかぬ決して、見上げることなど、して堪るかとも思っている」


 痛みを飲み込み喉の奥で笑う。腐っても大罪の一柱……と同一存在、なのだから。

 認めてしまえば何とも心地が良かった。ミカエルに剣を向けた時のような興奮も恐怖も感じず。何もかもを閉じ込めて善であらねばならないと、決めつけたのは一度限りのことではない。

 悠久の時をただ、そうであれと。行き過ぎた祝福は呪詛なのだと。己がかけた呪いが他者が信じ続けた呪いが、他の誰に解けるものか。いつか張られた頬が僅かに痛む。ああ、せめて愛しい弟が、愚兄の失策を目の当たりにしてくれて本当に良かった!


「お前にはきっと後者の方が、」


 言いかけた言葉に悪魔は漸く首を振り。ふ、と瞬きの間に堕天使の眼前へ。色のない紅眼はどことなく疲労を滲ませる。


『……貴様には、よほど前者の方が』


 救いとなったのだろう。


 悪魔の言葉に静かに笑うと、堕天使は腹を見下ろし撫でた。悪魔の言葉に耳を傾けるのも久方振りだ。


「いつぞの傷、お前が私であるなら、私の力は本当に……無尽蔵であったのだな」


 《神軍》の最たる剣による致命傷。命を繋ぎ止めた契約が、もし己のみで完結していたとしたら?


『懺悔か?』

「冗談」


 ゆるやかに否定する。箱庭に居ては解らなかった。


「もう、この期に及んで後悔などしないさ」


 大罪を内包することも、悪魔と位を共にすることも、地上で死せる者の旅路を眺めやることも。結果論であろうと、幸福を見出だすため――時は進んだ。

 それを認めるまでの時間を些かかけすぎたほどだ。深く息を吸い、やっと、言葉にする。


「お前は私自身だ。お前が居なければ今の私はなかった。その存在は罪ではなかろう……たとえ《大罪》に座していようとも」


 悪魔はわらったが。嗤笑でも、ましてや嘲笑でもなかった。


「……ああ、私は、」


 気を抜けばその場で泣いてしまいそうだった。こみ上げる感情の波に押し流されてしまいそうで。どちらの感情か、などと考えることも馬鹿馬鹿しい。

 如何に都合の良い話だろう。これまでの犠牲と頓着なく踏みにじってきた自らの心と、今更向き合う覚悟を決めたとて、赦しを得られるだろうか。

 己を赦すのは、今も尚、あのひとであろうか。


「愛していたのだな……人間のことも、お前も」


 どうすれば良かったのだろう。どうすれば、善いのだろう。

 握るのは首飾り。初めてこれを見つけた時の心地は失意や落胆と言うにはあまりに苛烈で。躍起になって否定するうちに、周囲に期待と羨望しかなくなってしまったことに気付いた。


『貴様は別に、箱庭を愛していたわけではないだろう? 主のことも。嫌われ、幻滅されることに堪えられなかっただけだ』


 己はそれを理解していたに違いない。自身がそう告げるのだから。

 そうだとしても、全てを否定されるのは寂し過ぎた。純白の清い心でなかったにしても愛は確かに在ったのだ。白か黒かで決めつけるから苦しくなる。

 この身を捧ぐと。堕天も含めて盲信と言われることだろう。しかし……


『真に信じられるものは己しかない』


 思考を遮る悪魔の言葉にふと考える。そのような言い回し、手酷く裏切られた経験でもあったろうか?

 覚えていないのかもしれない。痛みも苦しみも、重ねた恨みも妬みも、目の前の彼が負ってくれていたのだから。

 だが、それではいけない。それでは……あまりに不公平だし、それに。


「私だけ知らぬことがあるというのも、なあ」


 彼だけが知る快楽、己だけが知る罪。


「確かに私は完全ではなかった。光ではなかった」


 去来するのは善行とはとても繕い難い過去の大罪。あの時に流した涙は、誓って虚飾ではない。

 届くなら、赦されるのなら。胸を張ってあの子に再会したい。


「しかしこのような身でも、些かの救いをもたらすことはできる」


 帰ろう。

 彼らならきっと“私達”のことを受け入れてくれるだろう。あまりに仲間を見くびり過ぎたようだ。

 悪魔を、抱き締める。抵抗はなかった。だが一言だけ。耳元で呟かれた言葉に、ルシフェルは満足そうに頷いた。

 ルシファーの姿が消える。滅びではない。ずっとそうだったのだからわかる、彼はこれからも傍にいる。

 敷かれた道ではなく新たな物語を紡ぐのだと他者を諭しておきながら、あまりに自身を道に縛り付け歪めてきてしまった。

 あの時はうまいやり方ではなかったかもしれない。だが、一度の過ちが、かつての敗北が何だと言うのだ?


(私達がそう思う限り、)


 まだ全てが終わった訳ではないのだから。

 そう、私達は《傲慢》だ。運命を変えられることも、それだけの力を持つ己のことも、誰より強く信じている。世界如きを前に屈して堪るものか。


「そうだろう、ルシファー? おかえり……私」

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