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第34話:《無価値》

 少女はそれを悪魔だと思っていたが、彼はれっきとした堕天使であった。

 乾いた風の吹く赤茶けた大地は、いつか天使が視た舞台。ここが地獄か天界か、そんなことはどうでもよかった。最悪なる堕天使はいつも通りの笑みを浮かべていたし、かつて《暁の御子》と呼ばれた彼は哀しみに視線を落とした。

 一度結ばれた契約に反する契約を成すためには、対象者を滅ぼさねばならない。世界の理だから。それだけの話。


 裏切り者。誘惑者。

 《楽園》にいた彼らを唆したのは誰か?


「私かお前か、どちらかが消える」


 目を伏せたまま、彼は独り言のように口にした。


「何をそんな悲痛な、天使のような顔をしているんだい? 優しいのか愚かなのか分からないな。君が手を出してしまったのだからね、嘆くなんて勝手な話」


 拾う声はあまりにあっけらかんとしていて。


「禁忌は禁忌だ、例外なく。君は悪魔の都でよほどそれを学んだと思うけれど?」

「だが、お前は」


 戸惑い、顔を上げる。


「初めからこの展開を望んでいたのではないか? いつだって仕掛けることはできたはずだ。私が契約の上書きを試みる前……あの娘を地獄で生かそうとしていた時から」


 ベリアルは返答代わりに肩をすくめた。これ以上は何も得られないと見るや、ルシフェルは腰の剣を抜く。堕天使としての誇りの証だった。魔力を帯びた剣身が薄銀に輝く。能力は使えない。何せこの堕天使は“捉えられない”から。対するは漆黒の巨大な鎌。ベリアルは満足げに目を細めた。


「ああ、それでいいよ。……まあ、あと、信じちゃもらえないだろうけどね、これだけは伝えておきたいな」

「……なんだ」

「君のこと――本当に愛しているよ!」


 一陣の疾風。易々と振り回された大鎌がルシフェルが立っていた空間を切り裂いた。

 跳躍した堕天使も、勢いそのまま剣を振り下ろす。が、即座に湾曲した刃に受け止められる。迷う間もなく次の一撃。卓越した体術と剣捌きで次々に攻撃を繰り出す。

 彼は愛し子だ。真っ当に剣のみで戦えば彼に敵う者は居ないだろう。まして通常であれば、念じるだけでモノの存在自体に手を加えられるのだから。

 しかし相手は変幻自在の得物を操る天才。使い手次第の手数の多さは、ウリエルやベルゼブブのような派手さは無いにせよ、底無しの可能性を有している。いつの間にか鎌は一本の棒術具へと姿を変えていた。


 既に目で捉えることも難しい攻防。ルシフェルが攻勢と見えるが……彼の攻撃は全て防がれていた。

 流石の彼とて違和感を覚える。突き出した先には必ず――ただ一撃の例外もなく、ベリアルの武器が待ち受けていた。


「予知……か?!」

「違うね。僕は預言者じゃない、つまり鷹匠でもない」


 ふふ、と笑いすらして。まるで重量を感じさせない動き。それはそうだ、この漆黒は彼の一部なのだから。


「慣れているってだけだよ。全ての君が同じ道を歩んだわけではないけれど、君とこうして戦うのは何度目かわからないくらいだから。動きを読むなんて容易いこと」


 ルシフェルは一度距離を置き構え直す。棒術具はぐにゃりと歪んで再び鎌の姿に。薄く笑む堕天使は息一つ切らしていなかった。

 どうにも様子がおかしかった。何度目かわからないとは? ベリアル自身と剣を交えた記憶などない、それに。こんな戦い……したことがない。このような展開が許されるはずがない――同じ地平に在るのであれば。

 かつて仲間だった堕天使。その特異性は理解していたはずなのに。


「お前は……何だ……?」

「前にも言ったろう? 僕は全てを知っている。“これからの可能性”以外の全てを」


 或いは主のような言葉さえ、本当ではないかと思わせられる。初めてだ、戦において無意識に後退りをしそうになったのは。背を汗が伝う。


「だから君自身よりも、僕は恐らく、ルシフェルという存在についても知っている。さあ、少しは僕の予想を裏切っておくれよ!」


 執念に燃える赤銅色の目。先程から、ベリアルの言葉はあまりにも理解の範疇を超えている。

 それでも、敗けは許されない。真の意味で命を懸けてはならない……何故なら己が死ねば、彼女も。

 ルシフェルはわざと攻撃の当たる方向へ移動した。深々と突き刺さる鎌。


「ぐぅ……っ!」


 肩に湾曲した刃を刺して抜かせないことで、漸くベリアルを射程に捉えたのだ。普段の彼なら有り得ない捨て身の動き。案の定、ベリアルは瞠目した。


「これは初めて見た。素晴らしいなぁ!」


 歓喜に叫び、思い切りルシフェルの胸を蹴り飛ばす。肉が裂ける音。愛を告げた口で陥れ、友好を示した手で躊躇なく害する――それがベリアルという堕天使だった。ルシフェルは腕を押さえ、仕方無いと言わんばかりに薄く困り顔を見せた。


「どう……あっても、私を殺したいか」

「君がそうまでして我儘を通すのが悪い。違う?」


 挑戦者はぼたぼたと血を滴らせながらも笑う。思うのは都の様子。彼が独りで守ってきたと思っていた、大好きな場所。

 何故これまで気付かなかったのだろう、受け容れられなかったのだろう。

 真に孤独であったなら。今ここで、唯ひとつの勝負に全力で立ち向かうことなど出来はしなかっただろう。


「そうだな……だが私の仲間とて、多少の我儘は赦してくれるだろうよ――!」


 きゅうと引き絞られた瞳孔は見る者次第では……蛇と。象徴は獅子たる彼の、命を狩るための性は何人が目撃しただろう。見れば生きているはずもなかった。何せ彼はあの反逆でさえ誰をも本気で傷付けようとしなかったのだ。

 だからこれは、きっとベリアルしか知らない。


(今回も、そろそろだ)


 紅の瞳を見、唇を歪める。獣性と呼ぶには生温い。背負い続けた数多の願いと祈りに蝕まれた、悪魔よりもずっとおぞましい化物だ。真に恐怖すべきは、それだけの呪詛に堪え得る存在が産み落とされたこと。堕ちるべくして、と。そう告げたなら、この《傲慢》なる天使は“ほんとうに”堕ちてしまうだろうか?

 刃零れなど意に介さず全力で叩き込まれる剣。鋼鉄で殴られベリアルの体が飛ぶ。咄嗟に鎌を地面に突き刺し衝撃を和らげると、空中で彼は得物の形を変えた。

 弓矢だ。といっても術者は弓をひかない。どろりと溶け消えた鎌に代わり、無数の矢が地面から放たれる。


 狩りとは時間をかけるものではない。とうに音も消えた世界でルシフェルは感覚の糸を操った。猛追から逃れようと動けば視界に血が飛び散る。痛みなどない。ただ、紅い色に体の芯が疼くだけで。

 開けた大地に次々と黒の壁が顕現する。ベリアルが自身の影を立ち上げ足場としているのだ。


「早くルシファーを呼べば?」


 軽業師のように攻撃を繰り出しながら、まるで心を読んだかのように投げ掛けられる名前。呼べば楽になる、命尽きるまで血を求めるだろう、だが。


「彼女と……真子と契約をしたのは私だ!」


 断じてあの悪魔ではない。誇り高き堕天使たる己が、己こそが。


「――だから相変わらずだと言ったんだよ僕は」


 微かに苛立ちの滲んだ声に驚くルシフェルのもとへ、今度は剣を構えたベリアルが飛び掛かってくる。銀色の向こう、影で出来た剣を操る堕天使は鬼気迫る笑顔で力を込めた。


「何ッ度出会っても君はいつもそうだ。こればかりはゆるせないよいつもいつも、いつも! 僕を肯定しておきながら、自分の片面の存在を許すことすら出来ないのか? 馬鹿げているねまったく!」

「っ、」

「いいかい?! 僕は君を愛している。ああそうさだから殺すんだ何度だってねええ」


 吼える。鍔迫り合いで動きを止めたのが悪かった。ベリアルが扱える影は一つだけではない。

 地面から延びた黒い蔦はルシフェル自身の影。焦る彼が足を絡め取ったそれを振りほどく前に、巨大な手が背後から翼を鷲掴みにした。一瞬の硬直の隙。


「ごめんね?」


 美しい笑みを見たか、どうか。ルシフェルの意識は激痛に塗り潰される。赤茶の空を切り裂く絶叫。

 ただ触れられるだけで鳥肌が立つほどのそれを、魔力の根源たる漆黒の翼を。同じ堕天使が握り潰したのだ。めきめきと音を立て、まるで枝でも折るかのように。片やベリアルは、いくら能力を行使しようと翼を出すことはない。昔から一度も。


「あーあ、痛いよねえ、それはそうだろうねえ」

「ぅ……あっ……アガっ……!」


 器に穴が空いてしまったような感覚だった。思考の全てを埋め尽くす痛み。それを必死で振り払いどれだけ力を込めようとも、そのそばから零れていく魔力。

 地獄の争いに於いても、翼に手出ししないのは暗黙の了解であった。急所だが致命傷にはなり得ない場所を狙うことは、最も侮蔑されるべき事柄の一つですらある。もはやここまで変形してしまった翼が元に戻る保証はないだろう。


「翼は僕らが天使だった頃から最も敏感な器官だ。それだけの痛みですら死ねないんだもの、主も酷なことをするじゃないか。大事なものは隠しておくべきだろうに、僕らは何故こんな創りなのだろうね? あ、だから人間には翼がないのかもしれないよ」

「う、ウウ、ア……アぁ……!」

「どうして君はそんなに苦しい思いをしてまで理に背くの? それこそ馬鹿馬鹿しいとは思わないのかい? 弟との約束さえ守れないのに世界との約束が守れるはずないってことかなあ。ねえ教えてよ、僕が憎い? 主が憎い? それとも世界が憎い? ねえ!」


 高笑いと共に刃を首筋にあてる。一振りだ。僅かに力を込めさえすればお仕舞い。だが、そんなことしてやるものか。このまま終わらせてなどやらない。

 ぼろぼろと生理的な涙を溢し。黒の蔦をいっそ支えにして立つ堕天使は、喘ぎ、ぎょろりとベリアルを見据えた。痙攣を数度、吸う息にノイズが混じる。単なる天使なら、このまま魔力が尽きるのを待つしかなかっただろう。

 そう、単なる天使なら。


「……わカッた、それほど、望ムなら、」


 命の瀬戸際だったはずの堕天使の魔力が急激に膨らむのを感じ、ベリアルは蕩けるような表情で息を吐いた。漸く、漸くだ。

 漸く今回もここまで来た!


「『私達が殺してやる』」

「あっはは、そう来なきゃ!」


 影を回収し飛び退るベリアルを、剣を構えたままのルシフェルが追う。不自然に折れ曲がった翼で体勢を保つ、どころか、音よりも速く迫る。表情はない。ただ苛烈な殺気だけがあった。

 傷つくこともまるで気にせず刃を手で掴み、もう片手は違えることなく急所へと凶器を振るう。


「『死ね』」


 いっそ色香さえある鋭利な言葉。柄から手を離す判断が僅かでも遅れていれば勝負は着いていた。ベリアルは初めて動揺を見せる。


「ふふ、何度見ても君はずるいよね……!」


 掴まれていたはずの剣は、ぐにゃりと再び鎌の形となり手元に。光と対を成す漆黒の大鎌だ。

 否、本当に対なら対等であるはず。


(くっ……これは、!)


 切り結びつつも、ベリアルが防戦一方となっているのは明らかだった。

 《傲慢》。悪魔だけでは足りない、堕天使だけでは勝てない。悪魔の狂暴性を冷静に御する堕天使の力。互いを補う云わば強さの乗算、それこそ彼等が最強たる所以。

 ベリアルにとっては何度も見てきた展開。ここで覚醒することも予定の内。

 だが、今回は例にないほどの力だ。“今回の分岐に何か変わったことはあったか?”


(いいよ、いいだろう! 君がその気なら僕は命を“賭けたって”構わない!)


 数在る《輪廻》の中で《無価値》が成すべき最後の役目。


(思っていたのとは少し違うかもしれないけど……まあ、きっと《世界》も許してくれるよね。元はと言えば、悪いのはそっちだ)


***


 悲壮な覚悟の裏、ずっと張っていた緊張の糸がふと、ほんのわずかに弛んだ一瞬。

 体勢が崩れた、という場面は嫌に冷静に記憶している。気付けば。

 手にした剣が、深々と友の身体を貫いていた。


「ベ……リアル……?」


 仰向けに倒れた姿を見下ろす。後悔が微塵もなかったと言えば嘘になる。と同時、かつての弟の気持ちを思い知る。

 血溜まり。不自然な呼吸。色のない眼差しは震える勝者を通り越し。


 これで、良かったのだ。


 底知れぬ堕天使の、あまりに呆気ない最期だった。もはや堕ちた彼等は、神の光などに拠らずともこうして肉体から滅びる。流れる赤が止まるのも時間の問題だった。


(ベリアル……)


 震える膝を着き、せめてもの手向けのつもりでその髪に触れる。彼は遠すぎる過去と、旧い友の命と引き換えにした未来について思いを馳せた。


(私は誰も傷付けずに生きたかったよ。主のように……何も奪わず、与えるだけの存在になりたかった)


 浅ましい感情を飲み下す。言語化し漸く腑に落ちた。彼が目指したのは《主》だ、それが彼にとっての光だったから。


(……本当は分かっていたんだ。お前が天界で剣の意義を問うた時、それを真っ向から受け止めるほどの思いがなかったから。あの時から私は真の光ではないのだと、分かっていた。だがそれを認める強さも……持たなかった)


 天使はどこまでいっても《主》にはなることができない。かつて弟に否定させ、堕天し、それでもまだ光明となることを心のどこかで諦めきれなくて。

 だが実際、こうしてひとりの旧友の命を奪ってしまった。また取り返しのつかないことをした。そっと触れた頬からは急速に熱が失われていく。先程まで執念に燃えていた瞳もただの硝子玉のよう。


「――――え?」


 瀕死のはず。

 だから、彼はその堕天使が笑ったのは見間違いだと思ったのだ。

 何かがぶつかった感覚。恐る恐る視線を下ろし、己の体を貫通した漆黒の槍に気付く。


「あはぁ……! 見てよルシフェル、うまく使えるようになったんだ……ッ!」


(ああ……最後まで甘いのは私だ、だって確かに殺すと宣言されたじゃないか)


 失策だ、どうしようも無かった。騙しに長けた堕天使を相手に油断をしたことが全てだった。

 してやられた。

 思わず笑ってしまう。禁忌を犯したのだから、それはそうなのだろう。世界からは逃れられない。

 馬鹿みたいな話だ。後悔するくらいなら、最初から関わらなければよかった。どうしてこうもうまくいかない? 様々な世界線があるというのなら、皆が幸福を享受し続けられる風景があるのだろうか……自分も含め。

 自己犠牲を優しさと履き違えるなと散々言い聞かせたのに。またしても己の手には卑しい免罪符が残ったではないか。

 体が痛みを思い出したか、傷口が燃えるように熱い。確かに瀕死ではあるのだろうベリアルの表情を見、言おうとした言葉の代わりにごぼ、と血が溢れる。霊体の性質をとうに失った身だ、生憎と助かる術など思い付かなかった。ただ一つを除いて。

 契約はどうなるのだろう。嘘つきになるのは嫌だと強く思った。


(お前は、生きて、)


 少女の面影を知覚するより先に、彼の意識は暗闇に堕ちた。


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