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第33話:真子

 真っ白な空間。温かな光が満ちた、白い白い空間。眩しくて何度もまばたきした。体は何故か全く動かすことができない。


「私は完璧であろうとしてきました」


 細い声に目線だけを移せば、純白の衣を纏った彼の姿。何だか今よりも少しだけ若く見える。立ち姿は相変わらず、遠目にも芸術作品かのように美しかったけれど。

 慌てて名前を叫べどこちらを見ようともしない。……きっとあたしはこの世界には存在していないことになっているのだ。完全なる傍観者。あちらの声は聞こえても、あたしの声は届かない。


「貴女が望む通りの光です、主よ」


 “主よ”。

 すうっと不思議なくらい滑らかに頭に流れ込む情報。知らないはずなのに、理解できた。彼が呼び掛けた相手は“主”。この温かさ……そうか、ここは神様の懐なのだ。彼は彼の主に――世界の主に呼び掛けている。


「愛しています。世界中の誰よりも、私が、私こそが貴女を理解しているのです」


 見つめるのは虚空の一点。胸に当てられた手、陶酔しきった横顔。

 あたしの知らない大天使の彼がそこにいた。神様を愛しているということは疑いようもない。知る限り誰に対したって、あんな表情を見せたことはなかった。


「主よ、貴女を愛しています」


 惜し気なく愛を口にするルシフェル。返答は、ない。


「ですから、」


 その瞬間。彼の瞳の色が変わった。


「どうか私を愛してください」


 片手が伸びる、相手を求めて。届くはずもない手を伸ばし続ける。


「何故、私ではないのですか? 一体、私には何が足りないのですか?」


 自分ではない……その意味は。


「お願いです、主よ……」


 声が震える。透明な雫が、紅い瞳からこぼれ落ちた。泣いている?


「私を愛してください」


 はっとした。信じ難い――彼は、怯えていたのだ。


「貴女を愛しています、信じています、貴女のためにこの身も心も捧げます、光であり続けます。だから……」


 必死に紡がれる言葉。縋るような眼差し。

 嫌われたくない。ずっと好きでいて欲しい。愛しているから、相手にも自分を愛して欲しい。

 嫌われるのが、怖い。


「お願いです……お願い……」


 ぼろぼろと涙を溢し、ついに堪えきれなくなった様子で彼は叫ぶ。


「私を愛してください! どうか見捨てないで、意味を奪わないで……私を、私だけを、お側に置いてください!!」



「真子さん!」


 さっきのは……夢?

 心臓がドキドキしているのがわかる。耳から離れない叫び。目に焼き付いている必死の形相。今の彼からかけ離れた姿は、それでも紛れもなく彼の過去なのだろう。浅ましくて、ともすれば醜くて、弱くて、愚かしくて、……とてもいとおしかった。

 慌ただしい足音と共にやってくる堕天使さんがふたり。見慣れた姿にほっと胸を撫で下ろす。


「アシュタロスさん、ベルゼブブさん」


 ふたりとも普段より汚れていたし髪も乱れていたけど、怪我もなさそうで安心。いつかのような姿はもう見たくない。

 よくわからないけど。さっきからずっと聞こえてくる騒がしさと建物の揺れとで、きっと外では只事じゃないことが起きているのは察しがつく。


「ああ良かった進藤、無事だったか! ……ん?」


 駆け寄ってきたベルゼブブさんが首を傾げ虹色の壁に触れる。


「コイツは一体……」

「お任せを」


 結界の専門家たるアシュタロスさんが進み出る。暫く壁を触って何かを考え込んでいたが、やがて小さくため息を吐いた。


「まったく……なんという才能なのでしょうね」

「な、何かまずかった?」

「いえ、今更ながら彼の底知れなさに驚いたまでです。少々綻びも見られますが、これは難度の高い、そして非常に特殊な術式です。僕にも解けない。展開した本人にしか解除できないのです」


 つまりあたしがここから出るには、家に帰るためには、ルシフェルが帰って来ないといけないということか。

 残していってくれた約束の証。視界が滲む。死なないって、言ってたもんね。


「進藤……」


 目を逸らしたベルゼブブさんの顔には、珍しく不敵な笑みがない。アシュタロスさんの表情も堅い。


「……ベリアルさんってひとが来たの。ふたりは知ってたんだよね……?」


 あたしの命のことも、契約も、ルシフェルがそれを破ろうとしていることも。

 契約を上書きした悪魔や堕天使がどんな運命を辿ることになるのかも。

 ここで八つ当たりしても仕方ないのはわかってた。それでも、何か出来たんじゃないかって。人間じゃない彼らなら、どこかで助けられたかもしれないって。


「なんで……なんで留めてくれなかったの? あたしは……っ! あたしは、こんなの嫌! ルシフェルに幸せになってほしかったのに……一緒に幸せになりたかったのに……!」

「……すまねェ」


 話すだけ止まらなかった。やっぱり怖い、怖いよ。


「ベリアルは……善悪の理から外れた天使でした。子供のように無邪気で、その癖に読めず……ミカエル様を除き、ルシフェル様に唯一傷をつけることが出来た」


 天使。あれが。

 淡々と話すアシュタロスさん。つまりそれは、ルシフェルが無事じゃ済まないって知ってて放置したの……?

 また噛み付きそうになって思わず口をつぐむ。だって、アシュタロスさんも震えてる。本当は分かっている。留めようとしなかったはずがないんだ。彼らにとってもルシフェルは大事な存在なのだから。運命を共にしたいと願うほどに。


「でも、これが彼の望みなんです」


 少し逡巡したベルゼブブさんが、銀色の頭へと不器用そうに手を置く。特に振り払うでもなく、アシュタロスさんは俯いたまま拳を握りしめていた。


「……なァ進藤、こんなこと言ってもわからねェとは思うンだがよ」


 ベルゼブブさんがこんな表情をするのは初めてだ。ぽつりぽつりと溢す姿はすっかり憔悴している。


「オレぁ堕天した直後に、天界に行って大天使達に会ってンだ。アイツらにとっちゃ、裏切ったかつての同朋だぜ? 気まずいどころじゃねェよ。だが、取り残された仲間を放置する訳にもいかなかった。それにその頃には、ルシフェルの目的は知られてたからな」


 ゆるゆると首を振り。


「……罵倒覚悟だった。いや、そんな生ぬるいモンで済みゃァ御の字だって思ってたさ」


「死者が、出たんだ」。そう続けた。


「再三な、警告をしてたンだ、アイツだって。ついてくるなって言葉の意味を、それが現実になるまでオレらは理解できちゃいなかった。命を失ったのは……こっちの陣営だけだ。天使側には何の被害も出てねェよ、それでも……」

「……」

「それでも、オレは……! わかるンだよ、“天の使い”だったからな。どれだけの、何があっても、それはしちゃいけなかった……その罪だけは……だがアイツを責めることも出来ねェ、そんなのは卑怯者がすることだ。《魔王》になる度胸もなかった、臆病者が!」


 次期魔王候補。そう呼ばれる彼は一度深い深いため息を吐いた。


「……悪ィ、話を戻す。ともかくオレは天界に行った。最悪、二度と地獄に戻られないことは覚悟した。目的がどうあれ、何せ天界を荒らすなんて前代未聞だからな。そしたら天使のヤツら、オレに向かってなんつったと思う?」


 ふと思い出し笑いのような。口角を上げる。


「『貴殿らに幸あらんことを』、そう言いやがった。信じられるか? 一つも非難されなかった、ただの一つもだ。主の膝元を血で汚して堕ちたオレらの、幸福を願ったンだよ」


 ぼんやり見つめるあたしと、僅かに鼻を啜ったアシュタロスさんと。

 思った反応を得られなかったのか、「だから、ええと、なんだ」とベルゼブブさんは頬を掻いた。


「何が言いてェかっつーと! これだけの祈りは届くに違ェねえってこった。堕ちたオレらじゃもしかするとダメかもしンねーけど、主の御許に近い天使がこぞって祈ってるならさ、きっと何もかも良い方に向かいそうな気がしねェか?」


 気休めと断じてしまうのは容易かった。でもあたしより余程不安だろう彼らが、励まそうとしてくれているのは痛いくらいわかったから、せめて駄々を捏ねるのはやめにしようと思った。泣き止むぞ、泣き止め。一生懸命に力を込める。


「ベルゼブブさん」

「ん?」

「なんか、天使だったんだなって、思った」

「失礼なヤツだなオイ!」


 びしっと突っ込みを入れられる。辛うじて笑顔を作ろうと試みると、ベルゼブブさんはこちらを見る目を細めた。それがなんとも優しい表情だったから、あたしは今度こそちょっぴり驚く。


「《大罪》も総出だし、天界から援軍も来てる。だから、大丈夫だ」

「……僕の」


 拭った目許を少し赤らめて、アシュタロスさんも顔を上げた。


「かつて……いえ。僕の師である大天使も来ていますから、きっとすぐに片付きますよ」

「アシュタロスさんの師匠……とっても、強いんだろうね」

「ええ、とても。やり過ぎてしまうかもしれません」


 肩をすくめた銀髪の堕天使は幾分か調子を取り戻したようだった。


「あの、変なこと訊く、けど」


 だから思いきって。きょとんとしているふたりに、さっきルシフェルに堕天の理由を聞いた時からずっと考えていたことを訊いてみる。


「堕天使さんはみんな、人間を嫌いじゃないの?」

「……なんでンなこと思う?」


 ほんの少しの警戒と傾聴。それだけで答えのようなものだった。だからあたしは、彼らに甘えてしまうのだ。


「みんなの欲望を押さえつけるために、堕天しなきゃいけなかったって。だったら、人間さえいなかったら、堕天しなくてよかったんじゃないかなって、思ったの」

「そりゃねェぜ、進藤」


 ベルゼブブさんはどこか安堵したように首を振る。


「欲を持ってるのは――《強欲》を形作るのは人間だけじゃねェ。ありとあらゆる生命が死ぬまで欲を持ってる」


 もしや天使も含まれるのだろうけど……明言はされなかった。

 彼らにとっては少なくとも人間と他の生物の区別はなくて。僅かに恥ずかしく思う。ルシフェルが人間に固執していたように思えたのは、ベリアルさんが言っていた呪いのせいなのかもしれない。罪悪感、なのかな。途方もなくて想像もつかないけど、死を贈ったのがまだ天使だった時代の話なら、彼はそのとき何を思っていたのだろう。


「ま、欲がなけりゃ生きてけねェからな。自然の摂理ってヤツだよ、誰が悪ィもクソもねェ」

「ええ、我々もこうして往生際悪く生きていますからね」


 堕天使のブラックジョークはパンチが効きすぎている。銀髪の元天使はあまりに情愛のこもった眼差しを床に向け、おどけて両手を組むなどした。


「だからね、真子さん。どうぞ欲を持ってください。願いなさい、望みなさい。結局は――祈りとて欲望であることなんて、主はとっくの昔からお見通しなんですから」

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