幕間:MI-CHA-EL
ふわふわと、巻き付けただけの帯のような袖を揺らしてアリシアは上機嫌に草原を歩んでいた。跳ぶような動きに合わせて白い衣の裾も踊る。
小脇には画布、手には画材入りの籠。今日は主君たる天使から与えられた休養日。いつにない晴天の下を出かけられるとあって、彼女はこの丘に至る道中ずっと鼻歌混じりに楽しい気持ちを振りまいていた。
質素とは言い難い衣も彼女自身が設計したもの。絵を描くのが得意な少女は、驚くべきことに、天使長にその才能を見出されたのだった。天界の全てを握るにしてはあどけない、愛らしい主君の顔を思い出して彼女は小さく笑みを漏らす。大好きな《光の君》。彼の兄のことを思い出す度に付きまとう寂しさも、最近では幾分薄れてきたろうか。
『私がこの衣を着てしまったら、本当に兄上が帰る場所がなくなってしまうから』
金刺繍の衣を着るよう促されれば、いつも彼はそう応えた。
『自分は生に甘えていたのです。その価値を否定するつもりはないけれど、ただ……自分より思慮を重ねるひとがいたなら、私はその席に甘んじていてはいけなかった』
服を設計したのは彼女だったが、それを作ったのは別の天使だった。彼女には裁縫の上手い親友がいたのだ。遠い過去に、道を違えてしまった親友が。
この素晴らしい日に暗い思い出をなぞってしまったのは、花よりずっと強い香が風に乗って運ばれてきたからだろうか。
彼女が上機嫌な歩みを止めてしまったのは、丘の頂上に二つの黒い影を見たからだろうか。
黒衣。天使ではない。何よりその纏う気配が。
白く滑らかな肌を惜し気もなく晒した女。宮殿へ入る前の出来事をアリシアは知る由もないが、彼女が天界を訪れるのは二度目となる。
そしてもう一方はよく見知った顔。女より長い髪を尻尾のように束ねた、少々目付きの悪い男。
「そんなにアタシのこと見つめて……やだ、まさか外でそういうことするの好きなの?」
「ちッげーよ! つーかオレは正装にしろつったろが、ンだよその露出しまくりな服はァ?!」
「我慢しなくて良いのに♪」
「だあああなんでてめえが《色欲》じゃなくて《嫉妬》なのかマジでわかんねェわ!」
眼前で不毛な口論を繰り広げられ、アリシアは声をかける機会を逸し立ち尽くした。彼らがこうして天界を訪れること自体、極めて稀どころの話ではないのだが。
「ったく、アスモデウスとてめえとどっちがマシかっつー話だな。ちったァこっちの事情も考えろよ、余計なことで警戒されたら本末転倒だ」
「アスモデウスはどのみち来られなかったでしょう? 頼まれ事があるとかなんとか。それにアタシ堕天使じゃなく悪魔だから、難しいことわからないのよねー」
「コンニャロウ……!」
「ベ、ベルゼブブ様……?」
勇気を出して声をかければ漸く彼女を見る両名。
「リーシャ!」
先に反応したのはベルゼブブだった。今しがた青筋を立てていたのが幻かと思うほど、愛する主君がつけてくれた呼び名を嬉しそうに呼ぶ。堕天しても変わらぬ人好きのする笑みに、アリシア……リーシャは僅かに安堵を覚えた。
「なぁにベルゼブブ、このコ知り合い?」
「おう、知り合いも知り合い、ミカエルの従者だ。丁度良かったぜ」
ふうん、と呟く女悪魔と不意に目が合い、慌てて頭を下げる。名を知らずとも、少なくともベルゼブブと対等に話せる相手など限られている。
これほど強大な魔力を持つ堕天使と悪魔が事前通達もなしで来訪するのだ、呑気に観光などではないとは分かってはいたものの。
「悪ィ、驚かせちまったよな。ちっとばかし急用でな、ミカエルに会いに来た」
「え?!」
思わぬ言葉に大声をあげる。あの反乱以降も地獄との定期的な交流を行っているとはいえ、元高位の堕天使が直接ミカエルに会うことなどなかったのだ。
そのことについて誰かが嘆くことはなかったが、彼らとの再会を厭う者が果たして居るだろうか。
“反逆者”を悪く言う者はなかった。本人は考えていなかったようだが、あれだけの存在に干渉してまわったのだ、救われた者達がその目的に気付かないはずがない。無論、新たな天使長を責める愚か者もなかった。
「ああ、なんてことでしょう……! きっとミカエル様もお喜びになりますわ!」
それは紛れもなくリーシャの本心だった。
当然ながら宮殿内は大騒ぎである。ベルゼブブも懐かしい顔触れに挨拶をしたかったが、それは全てが丸く収まった後に取っておくことにして。
今は、眼前の天使に話がある。
「よく……来て下さいました」
昔であれば泣いていたろうに、ゆったりと椅子に腰かけたまま、穏やかにそう言った天使長。蒼色の瞳は物憂げでどことなく兄に似ている。純白の衣が似合う彼は、少しの緊張を滲ませながら微笑んだ。
「正直驚きました。まさかまた、お会いできるなんて」
「あー……来ようと思えば来られたンだが……」
頭を掻く。ベルゼブブがここへ来たのは反乱後に捕虜を引き取って以来。ミカエルの側も事情を理解しているつもりだった。自ら地獄を訪れることはしてはならないと思っていたし、詮索することは許されないと。
そして一天使ではなく天使長の務めを果たしていれば、きっといつかあのひとに会えると信じて。
一方のベルゼブブとて言えるはずもない。彼の堕天使が弟の存在を“忘れている”ことなど。
「でもな。こっちまでちゃんと聞こえてたぜ、頑張ってるって」
「……はいっ」
あの頃の幼子ではない。しかし頬を赤く染めた天使は、ベルゼブブと天界を駆け回った頃と何も変わっていなかった。
ふとミカエルの衣装に違和感を抱き、ベルゼブブは一瞬その隣にいる大天使と見比べる。あの衣はとうにミカエルの手元にあるはずだ。急とはいえ地獄からの使者との会談……だというのに、彼はかつての長のような正装ではない。それが意味する想いに胸の詰まる心地がする。と同時、ルシフェル当人がこれを知らないことに幸いを感じる。
「あら、やっぱり可愛いのね」
かの堕天使長の弟に対し、不躾とも言える視線を送るレヴィアタン。柔らかく波打つ金の髪に深く澄んだ蒼の瞳。纏う空気の鋭さは違えど、その美しさに背負う悲哀も慈愛も、確かに兄弟である。
果たしてミカエルの隣、その光景を睨む大天使が座っている。彼女――ガブリエルは、嫌でも女悪魔の初来訪のことを思い出し渋面を作った。
「ミカエルにまで変なことしたら承知しないわよ」
「相変わらずアンタは生真面目ねえ。そんなんじゃモテないでしょ?」
「ッ大きなお世話!」
そっぽを向いたガブリエルにミカエルは驚きつつも微笑む。彼女のこんな幼げな素振りは、なかなか見られるものではないから。
「……それで、」
幾分かの間を置いたミカエルの声にベルゼブブは居住まいを正した。
「用件をお聞きしましょう。――それは、我々天使でなければ果たせないことですか?」
一足飛びに掴まれる核心。ベルゼブブは辛うじて苦笑を隠す。どうにもこの兄弟は。
「否」
隠し事をしても仕方あるまい。彼らは相手が天使だからといって助力を願いに来たのではなかった。
「これはオレ達が勝手に動いてるだけだ。言えた義理はねェ、存分にわァってる。アイツが知ったら良しとしねェことだ、それでも」
彼は遠い昔のことを思い出した。友が地獄の覇権を握った時のこと。血生臭い空気、ぬるりと滑る感触、冷たい瞳と哄笑。
あの凄惨な玉座争奪戦の後、アスモデウスの言葉は的中した。自らを剣で突き刺し痛めつけ続ける長を、文字通り体を張って止めたのはアシュタロスとベルゼブブだ。償いになるとは到底思わなかった。堕ちたことを後悔していないと言えば嘘になる。それでも、愛する者のいる大きな枠組を守ろうとした勇気は認められるべきだったし、全てを負おうとした長には感謝を伝えたかったから。
力になれたかどうかはわからない。ただ、ルシフェルという堕天使の心が強かったことだけは間違いない。ゆっくりゆっくりと過去を受け入れ、彼はもう一度立ち上がった。
だが彼はどうしようもなく不器用でもあった。また愛のために何もかもを捨てるつもりでいる。
壊れた心が漸く戻ろうとしているのだ。再びあれを繰り返してはならなかった。傲慢かもしれぬ、自尊心に懸けて。
「オレは、オレ達は、もうアイツを独りにしたくねェんだ。アイツが気に病んでること全部取っ払ってそうして」
――幸せになって欲しい。
天界からずっと長の傍にいた堕天使は絞り出して頭を下げた。主ではなく、友の最愛たる天使に。
かの堕天使が天界を訪れることは一度もなかった。それはきっと彼が己を戒め罰しているから。血塗れの手で光を抱き締めることなど出来るはずがなかった。長い長い間、彼にとって彼自身が反逆者であることは揺るがぬ事実なのだから。
レヴィアタンは青ざめる堕天使を横目で見遣り、静かに顎を引く。
「……恐らく地獄はこれから荒れるわ」
原初の悪魔としてはこのまま成り行きに任せて、歴史上何度目かの混沌と破壊の極みを目撃したくもあったが。まあ、面倒事を嫌うどこかの悪魔が積極的に動こうとしていることだし……それに彼女も、突如天界から堕ちてきた美しく愚かな堕天使のことは、それなりに気に入っているのだ。
しかし悪魔の力だけでは足りない。それではまた同じことの繰り返しだ。許しを与えられるのは、手を差し伸べられるのはこの天使しかいない。
天使の長は硬い表情のまま息を詰めていたが、やがて。
「ガビィ」
澄んだ声にガブリエルは我が意を得たりと席を立ち、そのまま外へ向かう。
「如何な事情であれ、私はここを離れる訳にはいきません」
「そりゃ、」
「ですが、最大限の戦力をお貸ししましょう――《地》と《風》のおふたりを」
言い切られた思わぬ名にベルゼブブは別の意味で顔をひきつらせる。体裁上は私情を一切挟まぬ事務的なやり取り。だが、切られた手札は考え得る限り最も容赦ない。
「じ、充分過ぎらァ……」
***
帰路、レヴィアタンは解放感に伸びをひとつ。
「兄弟共々、まるでヘマをしないみたいな自信に溢れてるのね」
ぼやくように漏れた彼女の言葉にベルゼブブは肩をすくめた。
「まァ、そーでもないぜ?」
――彼らが辞する前、ガブリエルが退室して後にミカエルは言ったのだ。
「安心しました」
まるで主に祈るかのような穏やかな表情で目を伏せ。
意味を図りかねて彼らが首を傾げれば、顔を上げたミカエルは別人かのようににっこりと笑って。
「兄さまは地獄でも愛されているのだな、と。烏滸がましいことを承知で言いますが……こんなにも想ってくれるお友達に恵まれて、本当に良かった……!」
ベルゼブブとレヴィアタンは思わず顔を見合わせた。それからどちらからともなく吹き出す。「天然のひと誑かしであるのは兄弟で違いないのね」、とレヴィアタンは呟いたとかなんとか。
***
運ばれた伝言に立ち上がるは二名の大天使。
因縁と……それに勝る、後悔。
「漸くだ」
予知に長けた《地》の天使は言った。
天界の《蒼氷》たる《風》の天使も頷く。
斯くして天の使いは地獄へ踏み込む。仲間を――あの時は救うことのできなかった友を思うが故に。
***
くるりくるり。手にしたステッキを回しながら進む、片眼鏡の老紳士。名をメフィストフェレスという。
万魔殿よりずっと下層――煉獄。このような辺境を訪れる物好きなどそうはいないのだが、彼にとっては少々懐かしくすらある場所。
「ほほう。これはこれは……」
見やった先には黒々とした緩やかな波……否、よくよく目を凝らせば個々はヒトの形、に見えないこともない。
立ち止まり、楽しげに振り返る。
「このうちどれだけが我が輩の獲物であったのかねぇ?」
「また呑気なことを……」
メフィストフェレスの後ろに立つ青年もまた、燕尾服にシルクハット姿。鳶色の長い前髪に顔の半分が覆われている。ステッキは手にしていないが、帽子の上には大きな鷹が一羽。
「それより会長」
「うむ、これはちと我々だけの手には負えんな。彼等も動いてはいるだろうが、報せを飛ばしておくとしよう」
「御意。“アガレス”」
呼べば鷹は暗い空へと舞い上がる。青年と同じ《役割》を担う片割れ。
いずれかが鳥であればもう一方は預言者である。代わる代わる別名で語り継がれてきた彼等。
さて、黒い影は今や速度を増してふたりの方へ向かっていた。堕天使達を敵と認識することもない。ただ本能に従って呑み込むだけ。理性があればそれを“欲望”とは呼ばないのだから。
「今は“ヴァサゴ”ですから、あまり力は使えませんが」
そう言って青年は地面に白手袋の手を置く。ややあって波打つ地面、そして地割れ。巨大な割れ目に先頭集団が飲み込まれる。
「そう卑下するものではないだろう。君の《千里眼》はアガレス君のそれを凌ぐ」
「恐悦至極に存じますね」
地震と予言、それがひとりと一羽の能力。
対する老紳士の能力は幻を操ることと。
「ちょっとおイタが過ぎるねえ諸君」
ステッキを振ればあっという間に延びる煉獄の炎。先刻まで痛め付けられていたそれに焼き払われて、呻きと叫びが入り混じった地鳴りのような音が響く。
彼ら《強欲》を閉じ込めていた門は、もはや仕事をしていないのだろう。むしろあの門番が、これまで大人しく座に収まっていたことの方が奇跡ではあるが、とメフィストフェレスは苦々しく思う。
ご丁寧に大罪の一柱を解放し、万魔殿という都市に向かわせ。彼の目的はきっとひとりの堕天使。動機を考えるのは徒労だ、あの門番は愉悦のために悪行を為せる……元、天使。
「さてさてヴァサゴ君、暫し耐久戦になるぞ」
嫌な予感を振り払うようにステッキをもう一振り。せめて長が大事にしているものを守ることが仲間の役割なのだから。