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第31話:契約 - 彼女の場合

 最初そのひとは大きな人形を引き摺っているのだと思った。

 ず、ず、ず。

 暗闇からソレが完全に姿を見せる前に、ルシフェルが目を覆ってくれたのは幸いだったに違いない。正体に思い至り必死で吐き気を飲み込む。あれは“作り物”なんかじゃない……


「相変わらずだね《傲慢》」


 この、声は。いつかの武術大会のことをあっという間に思い出す。


 ――『君は相変わらずだ』


「……お前も変わらない」

「そう? それは喜ばしいことだね」


 ぱちんとルシフェルが指を鳴らす。手を離したってことはたぶんさっきのアレを消してくれたんだろう。恐る恐る目を開ければ、立ち上がった彼の向こう、怖いぐらいに美しい男性が立っていた。その手は既に空っぽだ。

 後ろで緩く束ねた金髪、ルシフェルのよりも茶がかった瞳。すらりとした長身を包む黒衣には、襟元と裾にファーみたいなものがついている。

 如何にも優しげに唇は弧を描いているというのに何だかぞわぞわして、思わずルシフェルの背中に隠れた。


「何をしに来た」

「目的? 訊かなくてもわかっていると思うけど。知っているだろう、僕は“悪徳のために悪徳に熱中する”。殺人も、窃盗も、街だって滅ぼした。それでもまだやっていないことがあってね」


 唸るようなルシフェルに対して、そのひとは何の気なしに恐ろしい単語を連ねていく。元天使とも思えないし、きっと悪魔、なのだろうけど。今まで出会った悪魔さんと比べるとどうにも信じられないのも事実。おかしな話かもしれないが、ベルフェゴールさんやレヴィやアスモデウスさんにはまだ良心というものがあった気がする。でもこのひとは。


「それは悪魔を殺すこと」


 付け加えられた愉しげな言葉。


「この歴史に於いて、嗚呼、そうさ僕の鎌が刈り取るその瞬間!  何と言うことだろうね、“最強の”悪魔は僕の手によって地に伏す訳だ」

「……」

「ねぇルシフェル。分かっていると思うけど、契約の上書きは禁忌。《世界》がその存在を許さないよ?」

「承知の上だ。何もかも……解っている」


 庇うように前に出る背中。上書き? 禁忌?


「この生が果たして主の望むものであっても、そうでなくとも」

「……ふうん、何やら君は弱くなってしまったね。主が望まない存在に一体何の価値があるのかな? これだけの寵愛を受けて尚、ひたすら命を浪費しているというのも、まぁなんとも恩知らずで面白くはあるけどね」

「……ッ」

「――さてさて。はじめましてと一応言っておこうかな、お嬢さん」


 悪魔が次に見たのはあたしの方。美しいひとだった。どれだけ微笑みかけられても震えは止まらなかったけど。


「怖いかい? まあ、それは人間の倫理だからね。君らだって他の生き物を殺す、喰う、穢す。僕達の、何を咎める権利があるって言うんだい?」


 すらすらと並べ立てられる弁には隙がなく自信に満ちている。人を騙すのが得意そうだ、すごく。


「僕の名前はベリアル。そんなに怯えることもないだろう。だって僕は、ずーっと、君を守ってあげていたんだよ?」

「え……?」


 掠れた声が漏れた。どういう、意味だろう。あたしはこんな悪魔さんを知らない。


「そしてね、君のために彼は死ぬのさ。ふふ、可哀想だねえ」

「聞くな、真子!」


 厳しい声が飛ぶ。

 さあっと血の気が引いた。ルシフェルが死ぬ……?


「違う、大丈夫だ。私は死なない」


 僅か振り向いた彼の表情は固くて、これほど懸命な様子こそが答えじゃないかと思った。ただ見返すことしかできない。


「なぁんだ、その様子じゃ知らなかったのか。なら、そこの彼の代わりに教えてあげよう。君の今の魂は契約で繋ぎ止められている。さっきの君らの契約じゃないよ? 契約者は、君の父親だ」


 あたしの、お父さん……?!

 待って、さっきルシフェルもお父さんの話を出した。体が弱いのだと。もしかしてルシフェルはこのことを……?


「いわゆる、そうだね、君らの世界の言葉を使うなら『水子』。君は生まれていないはずだったんだよ、僕が居なければね。僕が契約に則り君の命を長らえさせた」

「ベリアル!」


 愕然と、した。

 つまり……つまりこのベリアルとかいう悪魔さんが、お父さんと契約をして、二十年近くあたしの命を繋ぎ止めていた?

 何なんだろう。本当に現実?

 余程ルシフェルの方が感情的になっている。唸る姿をあたしはどこか他人事のような気分で見ていた。


「すまない……」


 彼は悪魔を睨み据えたまま。


「かつてお前の父親に会った時に頼まれたんだ。契約は、“完全”ではなかったから」


 知る限り、ルシフェルがお父さんに会ったのは両親が家に帰ってきた一度だけだ。いつの間にそんな話をしたって……ううん、あの日から彼はずっとそのことを知りながら傍にいた?


「そう。あの人間、僕が魔方陣を出ていたことに気づかなかったんだ!」


 悪魔はぺろりと唇を舐める。


「“魔方陣の中に居る間は悪魔は嘘をつかない”。召喚に於いて最も留意しなければならない点だ。この僕を喚び出したところまでは苦労もセンスも愚かなほど素敵だと思ったよ。でも、必死だったのだろうね、若しくは悪魔を嘗めていたか。目ひとつの対価で命を繋いだだけ感謝して欲しいよ」


 お父さんの目が見えないのもこの悪魔の……あたしのせい。


「彼は期限を想定していなかったけど、僕は君にとっての次の誕生日までで契約を結んだ。だから本来生まれなかった君の命はあと僅か。なかなか楽しませてもらったよ」


 こんな……残酷なことがあるの?

 ゆるゆると理解する。お父さんもお母さんもルシフェルも。みんな知ってたんだ。

 あたしさえ生まれなければ――


「真子」


 力強くて優しい声。


「心配しないで。お前は幸せになるんだ」


 断言された言葉にやっと全てが繋がった。

 先の契約、ルシフェルがあたしに言わせた望み。禁忌。

 なんだって彼はあたしのことをこんなに大事にしてくれるのだろう。

 涙が溢れてきた。もう幸せだと思った。でも、彼が戦っているのならあたしが諦めちゃいけない。そんな馬鹿な話があるものか。

 一緒に戦わなきゃいけない。だって一緒に生きたいと願ったのだ。これほど優しいひとなら、その願いも叶えられなかったらおかしいじゃないか、残酷過ぎるじゃないか。

 小さく笑ったのはベリアルさん。声はどこまでも穏やかな調子で。


「結局、君がしたことがまた人間を傷つけたじゃないか。幸せ? 君がもっと早く身を引いていれば何も知らないまま、寿命だったんだって、幸福のうちに生を終えられたかもしれないのに」

「それは……それでも私は、」

「期限はある。でもいいんじゃない? 確実にその時までは生きられるのだから。たとえ何があっても、それまでに死ぬことは無いんだよ?」

「詭弁を……!」

「今更どうしたんだいルシフェル! それは僕の得意とするところさ。永い付き合いじゃないか」


 と、笑うのを止めて「そうだ」と呟く。赤銅色の瞳がギラリと光り堕天使を射る。


「今更といえばね、大体、人間の生を縛ったのは君だろう? とんだ偽善だ」


 声を落とし囁かれたその言葉に、ルシフェルは後ろから見てもわかるほどに狼狽えた。


「な……!」

「聞こえているかい、お嬢さん。これは茶番劇なんだよ。信じられないかもしれないが、人間には元々寿命なんてなかった。当時は大天使だった彼が、“死”を贈るまではね」


 死を贈る? そんな、まるで死神のようなこと……

 食ってかかる勢いでルシフェルは踏み出す。


「何故それを……! そのことは、その歴史は“ミカエル”と私だけが!――」


 泣きそうにも聞こえる声で叫んだ途端、彼は雷で打たれたかのように不自然に硬直した。自分の言葉に驚いた……おかしなことにそう見えたのだけど。

 すると悪魔は今までで一番楽しそうに口を歪めたのだ。にやりと、怖気さえする美しさで。


「やぁっと“思い出した”んだねえ」

「ルシフェル逃げて!」


 そこからは目瞬きをする間もなかった。突如としてベリアルさんの足元から生えた黒い大量の槍。柄まで漆黒のそれは違わず相手を目指した、のだろう。気付いた時には先端が全て切り落とされた後だった。

 ルシフェルは剣を構え直す。


「一体どうしちゃったのかと僕は“ずっと”思っていたよ! ミカエルは君の大事な大事な弟だというのに、その存在を忘れてしまうなんて可哀想」

「黙れ!  貴様如きがその名を口にするな!」


 ミカエル。彼の弟の名前。忘れる……忘れる?

 はたと思い出すアシュタロスさんとの会話。あたしは未だかつて、ルシフェル自身の口からその存在を聞かなかった。


「ミカエルが知ったらどう思うかな? ああそうだね、そうだとも。それを対価に捧げている限り彼は出てこないはずだものねえ? どこまで君は《傲慢》なのやら。どれほど愛を謳おうとも、君には君以上に大事なものなんてなかったんだ」

「ち、が……!!」

「人間という種が生まれ、祝福と称して卑劣にも命を縛ったのは君じゃないか。僕の悪徳を責める権利なんてないだろうに! 一天使の自尊心のせいで人間は死ぬんだ、そうして君が漸く見つけた愛はまた喪われる」


 ぎゅっと目を瞑り首を振る堕天使の周り、バチバチと蒼白い光が弾ける。感情だ。きっと彼の心なんだ。激しくて、その気迫だけでこちらが苦しくなるほどの。だけど彼は何を言い返すこともない。

 いつの間にかベリアルさんは巨大な鎌を手にしていた。刃も柄も全てが黒に染まった、先の槍と似たような鎌。


「軽蔑したろうお嬢さん? 彼さえいなければ君ら人間は幸せだったのに」

「そ……それは!」


 思わず叫んでいた。


「絶対にない! あたしは充分に幸せ! きっと堕天使さん達も幸せ! 全部、全部ルシフェルがいたから!!」


 驚き振り返ったルシフェルの向こう、悪魔は僅かに顎を引いた。すうと細められた赤銅の瞳がこちらを見る。


「大嘘つきなのに?」


 唾を飲み込む。ルシフェルはずっとこの視線を受け止め続けていたっていうのか。恐ろしくて堪らない。痛みにすら気付かないうちにあの鎌に切り裂かれる可能性だってある。それ以上に、長い間あたしの命を握っていた悪魔なのだ。どうこうするのは恐らく赤子の手を捻るどころじゃないくらい簡単だ。

 それでもここで、今ここで。堕天使長を守ってあげられるのは自分だけだから。


「ベリアルさん、生かしてくれたことには感謝してます。でもルシフェルを否定することはその、許せない、です」


 当時の彼が何を思ったのかは知らない。だけどあんなに苦しんで、後悔して。

 あたしだけじゃない。アシュタロスさんだってベルゼブブさんだって、ルシフェルの幸せを願ってる。もういいんだよって、きっとみんな思ってるから。

 救いにはならないかもしれない。でも、この気持ちを知ってもらいたい。


「それが取り返しのつかないことでも、過去があったから今のルシフェルがいて、あたし達がいるんだから。間違いは誰にでもある……ううん、間違いですらないよ、そんなの」

「死ぬのに?」

「それで……それで、いいんです。終わりがあるって、今しかないってわかってるから、だからあたしたちは一生懸命生きるの!」

「……はっ、結果論でしかないな」


 さっきまでの迫力が嘘のよう。ベリアルさんはすっかり興味を失くしたみたいで、半泣きのあたしにはお構い無しに宙にぐるりと鎌で円を描く。まるでメフィストフェレスさんにそっくりな動作、そして現れたぐにゃりと歪んだ入り口。


「どちらにしても、だ。君の生死は僕と彼にかかっている。結局は世界の掌にいるに過ぎないんだよ、皆」


 既にルシフェルの周りで弾けていた光は消えていた。


「あーあ。心を折ってしまうのは簡単だったのだけどね、この鎖はちょっと想定外だな」

「……」

「さ、門番がここにいるのだから、あまり悠長にしていると君の大好きなこの都市が滅んでしまうかもね。ソドムとゴモラみたいにさ!」


 最後にあたしを一瞥し、ベリアルさんは昂った笑い声を響かせて自分で作った空間へ消えていった。


 ……緊張なんてものじゃない、脚が震えて思わずへたりこむ。ふと空気が緩んだ部屋の中。外から何やら喧騒が聞こえる。

 ぐっしょりと汗をかいた彼は、ちらと窓の外へ目を向けてからあたしを見下ろし。


「真子……その、」

「……」

「……いや。ありがとうな」

「……うん」


 今更ながら鼻水啜る姿を見せるの恥ずかしいだとか、というか超お偉いさんを許すだの守るだの畏れ多いことを考えてしまったとか、色々思ったのだけど。彼の力になりたい気持ちに嘘はないわけで。


「さあ……幕は主役がひかねばな。最終決戦というやつだ」


 剣を置き、あたしの前に屈み。

 出会った時にやったように額の前で印を切る。呟かれる呪文。少し目元が潤んでいたけど、彼はいつも通り微笑んだ。


「おまじない?」

「結界。ちょっと強力な……真子、お腹は空いてない?」

「え」

「いや、暫く出られなくなるから」


 意味を聞くまでもなかった。周りに展開されるシャボン玉のような壁。ちょうど座り込んだのを囲むくらい、あまり広くはない。恐る恐る触れた壁はしっかりと質量があったけど、それ越しに合わせてくれた手の温度はわかった。


「大丈夫だよ。待ってる」

「よかった。置いていくのは心苦しいが……転移させるだけの余裕がなくて」


 おどけたように肩をすくめてくれたけど、たぶん時間ではなく魔力の話。あの悪魔のところへ行くのだろう。総力戦だ。

 どちらも……ベリアルさんも無事でいて欲しいと思ってしまうのはわがままだろうか。


「大丈夫。あたしは大丈夫だよ」

「うん。少し怖いかもしれないが、我慢して欲しい」

「帰ってきてくれるなら」

「無論。私を誰だと思っている?」

「じゃあ……終わったら、一緒に、おいしいご飯食べようね」

「それは楽しみだ、すごく」


 どちらからともなく笑う。


「行ってくる」

「うん、気を付けて。いってらっしゃい」


 ぱちん、と指を鳴らす音。両手を組み合わせて祈る。今だけでいいから聞いてください神様。どうか、どうか彼が無事でありますように。

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