第30話:あなたと
「じゃあ今もルシフェルは万魔殿に力を使っているの? 世界の拡大を防いでいるの?」
「そのことなのだが……」
あたしを見たルシフェルは何故だかちょっとばつの悪そうな顔をした。
「今は私と都市の間に繋がりはない。少しまずいことになりそうだったから、関係を絶ち切ってある」
「まずいこと?」
「魔力というのは使用者の精神状態にひどく左右されやすい。如何に強い力であろうと、精神が安定していなければ単なる暴走で終わってしまう」
それはつまり。
「ルシフェルの、その……」
「少しだけ、な」
やっぱり、と思う。ここ最近の物思い、初めて見せた冷たい表情、苛立ち、怯えた目。彼は何かに心を乱されていたのだ。
「関係を断つ前に万魔殿にはかなりの力を注いでおいたんだが。私が倒れたのもそのせいだ」
「あ……あの時の」
力が弱まったから倒れたのかもしれないとアシュタロスさんは言った。世界の要になる都市機関を全て保つための、充電みたいなことだったのだろう。今聞くと倒れたのは当然すぎる……むしろそれすら独りで賄えてしまうのだ、このひとは。それはとても尊くて……寂しい気がする。神様のことを残酷だと、初めて思ってしまった。
「あんな姿、お前に見せるべきではなかった」
「……」
「しかしもうすぐ元に戻せそうだ。あと少しで、心の整理がつきそうだから」
ルシフェルはとても嬉しそうに笑う。本当に屈託がなくて、たぶん、彼にとって何もかも独りでやることは当たり前なのだろう。思い通りにするための力も知恵も運も持っているのだから。
「ここで起きている異常を取り除いて、そうしたら、真子は幸せになる」
あたしが、幸せに。
「ねえ、ルシフェル。ルシフェルをそんなに悩ませていたのって……」
「それは……」
彼は黙ってあたしを見た。見つめ返して言葉を待つ。待つ。
……あれ、もしかするとこれは。
「…………あたし?」
訊けば首肯され、ショック過ぎて頭痛がした。なんてことなの?!
「ふふ、大丈夫だよ。真子が悩むことじゃない」
「でも、でも!」
「正確には私の悩みの種は己の自尊心だった。そして多くの人間との出会いだった」
人間。自尊心。
「私は人間が嫌いだった。だから、とても卑怯な贈り物をした」
「卑怯?」
「……過去の自分自身のためにも、私はずっと人間を下等な生命として位置付けねばならなかった。そうしないと自分の過去を自分で否定することになるから。それなのに、」
膝の上で握りしめられた拳が震える。
「何度も人間の光を見た。時に天使と何ら変わりないような輝きを見た。その度に心が揺らいで、その度に見ない振りをしてきた。何度も何度も……私は疲れていたのだと思う。そうして……真子、お前に出会ったんだ」
「……」
「お前は救いをもたらしてくれた。漸く私は自分の心と向き合えるようになった。人間を、いとおしいと思えるようになった」
好きの反対は無関心だと聞いたことがある。“嫌い”は“好き”という感情から生まれるのだとも。
きっと彼にとっても。幾千、幾万の刻は長過ぎた。憎悪を保ち続けるのにもエネルギーが要る。ずっと心に留めていたものが、最も憎むべき存在から、いつの間にか最愛へと変化していたとしたら。
「真子……愛している。だから私はお前を幸せにしたい」
いつかのように両肩に手を置かれる。痛い強さじゃない、すごく優しい。座ったままで見つめ合う。嬉しくて恥ずかしくて全身が沸騰しているのに、またあの宝石みたいな瞳に魅了されてしまって。
あたしはこのひとの荷を少しでも軽くできるだろうか。自惚れでも勘違いでも、こうして求めてくれるなら、どんなことでも力になりたい。どうしたらいい?
あのとき彼は、不老不死を望むかと訊いてきた。そんなのは怖いけど、人間の一生が彼らにとって一瞬でしかないなら、もしもそれでほんの僅かでも寂しく感じることがあるのなら。少しでも長く生きて一緒に居たいとは思う。
「目を、閉じていて」
なんだろう? 言われるがままに両目を瞑る。
「良いと言うまでそのままで」
「え、うん、わかった」
すると力強い腕に抱き寄せられて。あたしの肩に頭を乗せたルシフェル。
「そう、かつて父親から聞いたのだけど、お前は少し体が弱いのだそうだ。私が治してやる。その方が幸せだろう?」
強いて言えば風邪をひきやすい気はするけど……小さい頃に入院したとか、かなあ。実感はないけど、頷く。
「うん……それでいい。お前はただ願い、望めばいい。この私に」
囁く声は熱を帯びている。逆に懇願、するかのような。
「合図をしたら。生きたいと、強く願って」
「うん……うん?」
そんな願い、まるで――
「痛ければ言って欲しい」
言うや否や、アスモデウスさんにつけられたあの傷に柔らかいものを押し付けられ、思わず息を呑んだ。
しつこいくらい何回も。頬に当たるくすぐったいものは多分髪の毛。
どうしてか見てはいけない気がして、あたしは必死で目を瞑り続けた。ほんの少しの空白とため息の音。そして、次に傷口を撫でた、ざらついた感触。湿り気を帯びた首筋がひやりとする。体が震えたのは寒さのせいばかりではない。
静寂の中、彼の甘い息遣いが響く。しみて痛いことはないけれど、執拗に舌は傷を這う。まるで血を舐めとるかのような動き。こくり、と唾液を飲み下す音がした。
「……“我、汝と共に在り”」
そして微かに震える声を聞いた。同時に首筋に息がかかる。
「“苦難も栄華も導くは因果。毒も蜜も汝と共に分かつ”」
硬直するこちらにはお構いなしに、淀みなく唱えられる切ないテノール。聞き慣れない言い回しだけど、思考が徐々に追い付いてくる。
「“その血を代償と認めん。我ここに誓う。汝が側を離れず、灯火消えるまで汝が敵を排すと”」
言葉の意味を考えてはっとした。まさかこれは……契約というもの?
「望んで。自分の生を歩むことを。灯りが自分の元へ戻ることを……願って」
冷静さを取り戻すより先に耳元で囁かれた。
生きること。灯り。
ねえ、もしあたしが幸せだと言ったら、ルシフェルは笑ってくれる? それなら、
「あたしは……“生きたい”よ」
――貴方と一緒に。
心の中で付け足した。また居なくなるのが怖くて、抱きつきながら強く強く願う。
「ああ、困ったな……こんなにも惜しくなるなんて。本当に……私が先に出会っていれば良かったのに」
「ルシフェル?」
小さく笑い、彼は肩に埋めたままの額を擦った。そして、
「契約成立だ」
離れていく気配に目を開ける。今しがた儀式を終えた堕天使は、あたしの頭を撫でながら、どことなく潤んだ瞳を細めて笑んだ。なんだかルシフェルの方がよっぽど幸せそうに見える。創作物の印象だと、あんまりこう、向こうから契約を持ち掛けるのって良いイメージがないけど。
「契約って、その、もっと大袈裟なのかと思ってた」
「本来はそうだな。きちんと契約書も作るし、それ以前に望みを品定めするものだが。今回は特別」
訝るあたしを見て何を思ったか、彼はそっと首を振った。
「大丈夫。私は何があろうと、命を懸けてお前を守るよ」
その瞬間だった。いつもの予兆である耳鳴りがしたのは。
『命を“賭けて”良いのかな?』
――魔方陣ではなく、部屋の隅にわだかまる闇から声が響いたのは。