白雲紀行
◆ 序論
我が国の伝承や民話において、このような一節で語られる存在がある。
「雲の中に生まれ、雲の中でその一生を閉じる」
俗に白雲竜と呼ばれるドラゴン属のことだ。
一般的なドラゴンが岩山に巣を作り、あるいは樹海を縄張りとして地上にその巨体を誇示するのに対し、白雲竜は地上から数千メートルから時に数万メートルの空に浮かぶ雲そのものを生息域とする。彼らが地上に降りてその姿を我々に見せることはなく、その痕跡すら地上で発見された例はない。彼らの死は雲の消滅とともに霧散するか、あるいは高空で水蒸気へと昇華するのだと考えられてきた。
かつて白雲竜は実在さえ証明されていない伝説の存在であった。本稿は長年謎に包まれていた白雲竜の生態を明らかにするために私が実施したフィールドワークの記録、および考察をまとめたものである。
◆ 調査における準備と手続き
天空という極限の環境に存在する生態系を調査するためには緻密な事前準備が不可欠だ。特に白雲竜が棲息するような巨大な積乱雲や層積雲の内部は、人間にとって死に直結する環境である。
1. 飛行魔法の使用許可証申請
我が国において高度300メートルを超える高空での持続的飛行術の行使は厳重な制限下にある。これは一般的には過失による墜落事故を防ぐ目的として知られているが、より重要な問題として上空の風系を乱す危険な魔力の散乱を防止するという目的がある。
飛行魔法の高度使用許可、いわゆる一級高空飛翔許可証の取得手続きは王立魔導保安庁の窓口を訪ねることから始まる。申請には『調査計画書(到達予定高度、滞空時間、飛行ルートの詳細)』、『危険予知および緊急回避術に関する適性証明書』、『王立学会または加盟機関からの推薦状』が必要となる。
審査は極めて厳格であり、申請から発行まで概ね三ヵ月を要する。特に適正証明の実技試験においては、突風による体勢崩れからの復帰スキル、魔力枯渇時の緊急防護壁展開、そして雲中での視界ゼロ状態における空間把握能力が厳しく問われた。
審査官より「雲中では地上のいかなる密林よりも迷いやすい」との警告を受けたが、私はこれまでの研究成果と準備を評価され、無事に青い羊皮紙の認可証を手に入れることができた。
2. 防寒および環境適応装備の選択
雲の内部、とりわけ高度6,000メートル以上の空は、我々地表で暮らす生物にとっては苛酷な環境だ。気温は氷点下20度を下回り、強烈な上昇気流と水蒸気が体を凍りつかせる。今回のフィールドワークにあたって私が用意した主要な装備は以下の通りである。
まずは氷海羊の毛織物インナー。極北の厳しい気候に耐える獣の毛から織られた衣類で、極度の湿気の中でも保温性を失わない性質を持つ。そして術式付与型の防風レザーコート。撥水と軽量化のエンチャントメントが施されている。水滴が衣類に付着して凍結するのを防ぐ。
耐寒魔導ゴーグル。過酷な視界不良の中でも魔力光を自動感知し、雲の密度変化や白雲竜の発光現象を捕捉するための特注品。王立学会の推薦状があれば大陸魔導院から借り受けることができる。
最後に、凍傷を防ぐための携帯式熱素結晶と万一意識を失った時のための呼吸補助マスク。これらは少々値が張るものの市場で手に入る生活雑貨だ。
準備には多大な時間と費用を要するが、未知の生命体と出会うための出資と考えればどんな手間も苦にはならなかった。
◆ 雲の選定――竜が棲む雲、棲まぬ雲
秋の中頃、入念な準備を終えた私は大山脈の南側に位置する標高2,500メートルの観測拠点へ向かった。ここからは西から流れてくる広大な雲海を一望できる。
白雲竜はどんな雲にも無条件で棲むわけではない。長年の観測と伝承の分析から、私は彼らが好む雲と彼らが存在し得ない雲の視覚的・環境的特徴を特定することに成功した。
1. 白雲竜が棲まない雲の特徴(層雲・霧・巻雲)
地上近くに漂う層雲や、高い空にたなびく巻雲に白雲竜が潜むことはない。層雲は物理的な厚みが足りず、ドラゴンの巨体を包み込むことができない棲息不能域だ。また高度8,000メートル以上に存在する巻雲はほとんどが微細な氷の結晶で構成されており、ドラゴンが生存するために必要な濃密な液相の水分と魔力エネルギーが存在しない。物理的には生存可能といえるが、遊泳できないため棲息は不可能とするのが適切だ。風によって容易に霧散してしまう短寿命の雲も彼らの生活拠点としては不適格となる。
2. 竜が棲む雲の特徴(雄大積乱雲・熱帯性巨大積乱雲)
白雲竜が棲息する雲――ドラゴン学者の間で「竜雲」と呼ばれる雲には、いくつかの明確な特徴が存在する。第一に雲の寿命と厚みだ。雲底部から頂部までの垂直な厚みが少なくとも2,000メートル以上あり、かつ同じ気圧配置の中で数日間にわたり形態を維持し続ける巨大な積乱雲群であること。
第二に内部の魔力対流と魔力帯電。白雲竜は体内に固有の魔力器官を持ち、周囲の水蒸気と摩擦を起こすことで大気中の静電気と結合した特殊な魔力を生成する。そのため、内部にドラゴンが棲息している雲は外光を浴びた際に青みがかった真珠色の独特の光沢を放つ。竜雲を遠方から魔導双眼鏡で観察すると、雲の内部で放電現象が規則的な周期で起きているのが確認できる。これは通常の雷放電とは異なり、生き物の脈拍のような規則性を持つ。
私がターゲットとして定めたのは、山脈の東側に居座る、高さ約5,000メートルに達する巨大な複合積乱雲であった。
◆ 雲中調査――天空の生態系
秋晴れの早朝、私は飛翔魔法を発動し、雲の底を目指して飛行を開始した。高度が上がるにつれて気温は急激に低下し、眼下に広がっていた緑の絨毯は急速に小さくなってゆく。高度3,000メートル付近で雲の底部へと突入した。
雲の内部は静寂と激動が同居する異様な世界であった。外から見れば柔らかな綿のように見える雲だが、内部は猛烈な上昇気流が吹き荒れ、濃密な霧によって視界は極端に制限される。ゴーグルの光を頼りに上昇気流の層を慎重に通り抜け、比較的気流が安定している「熱対流の目」と呼ばれる領域へ到達した。
その場所で私は幻想的な光景を目にした。
視界を覆っていた白い霧がふと薄くなり、真珠色の光に満ちた直径数百メートルの空洞が出現した。その空洞の中心に身をくねらせながらゆったりと泳ぐ影があった。白雲竜である。
成体の体長はおよそ12メートル。細長い半透明の体躯は流動する雲そのものによって形作られているかのようだった。背には翼というより羽衣に似たヒレが数対生えており、それが波打つたびに周囲の水蒸気が螺旋を描いて舞い上がる。
皮膚は皮膚としての硬質さを持たず、高密度の氷晶と水分子が強力な磁場によって繋ぎ止められているような構造をしている。体内には青白く輝く魔力核が透けて見え、その拍動に合わせて周囲の雲が発光していた。
雲中に魔法陣で固定した浮遊足場に拠点を設営し、数日間にわたる観察を行った。幸運にも私は彼らの生殖と死に関する決定的なデータを得ることができた。
白雲竜は地上に棲息する他のドラゴン属のように卵を生まない。彼らの繁殖は、高密度の水蒸気と強力な電界、そして二頭の成体が放出する魔力が交差する過冷却水滴の渦の中で行われる。魔力核が分裂し、それが水蒸気を吸着することで数センチほどの幼体が形成される。
この幼体は雲中の水分の蒸気圧差を利用して急速に成長し、雲内部の小さな微生物や、高空に漂う有機浮遊物、つまり風によって巻き上げられた花粉や胞子などに含まれる魔力を吸入して生きているようである。
そして死の瞬間もまた神秘的であった。
寿命を迎えた、あるいは生存に適さない環境に陥った白雲竜は、身体を構成する魔力の結合を自ら解除する。するとその半透明の体は徐々に周囲の霧と同化し、最後には雨、あるいは雪となって地表へと降り注ぐのである。彼らの骨も肉も、すべては大気の一部へと還る。
まさに「雲の中で生まれ、雲の中で一生を閉じる」という伝承は、科学的な事実であった。
◆ なぜドラゴンは雲の外に出ないのか
ここで一つの疑問が生じる。なぜ白雲竜はこれほど広大な空にいながら、特定の雲の中という限定された領域から生涯出ようとしないのだろうか。
実験データおよび観察記録から、彼らが雲の外、すなわち乾燥した大気や地表近くに出ない・出られない理由は、彼らの生理構造と環境への依存性に由来することが推察される。
1. 形態維持の崩壊(乾燥への脆弱性)
白雲竜の身体は、前述の通り高密度の水蒸気と魔力によって保持されている。雲の外の相対湿度が低い環境に露出すると、体表面からの水分蒸発速度が魔力による結合力を上回ってしまう。
仮に白雲竜が雲の外へ飛翔した場合、数分以内にそのヒレや皮膚の末端から霧状に蒸発が始まり、急激な体重減少と運動能力低下に見舞われることが予想される。これは地上生物でいえば重度の全身火傷および脱水症状に等しい。
彼らにとっては雲の外こそ危険区域なのだ。
2. 生態系への悪影響と降竜害
白雲竜が誤って、あるいは雲の急激な消滅によって落下の如く地表付近に進出してしまった場合、人間社会および地表の生態系に甚大な被害をもたらすだろう。太古の記録にある「白魔の災い」と呼ばれる現象は、おそらくはこの白雲竜の降下事故によるものであったと考えられる。
雲の外に出た白雲竜は生存本能から周囲の大気中にある水分と魔力を無差別に吸い寄せようとする。これにより、以下のような現象が引き起こされる。
▸局所的超乾燥と急激な冷却
竜の周囲数十メートルの湿気が一瞬で奪われ、同時に強烈な吸熱反応が起こるため、農作物が枯死し、地表の水分が凍結する。
▸無秩序な大電撃
崩壊していく白雲竜の魔力核から、制御不能となった高電圧の電撃が放電される。これにより建造物の破壊や火災が発生する。
▸過剰魔力による生態系汚染
白雲竜が蒸発する際に撒き散らされる高密度の魔力降下物は、通常彼らが棲息する高空からの落下過程で薄められているが、地表付近でそれが起きた場合は付近の植物や小動物に急激な変異をもたらし、重篤な有害事象を引き起こす。
彼らが雲の中から出ないのは、単に自らの生存のためだけではなく、大気の熱エネルギー循環のバランスを維持するための物理的帰結でもあるのだ。
◆ 神秘の先にある愛おしさ
数日間にわたるフィールドワークを終え、私は満たされた心地で帰還した。
白雲竜という存在は人間の文化や歴史とはほとんど関わりを持ってこなかった。彼らは地上を滅ぼそうとすることもなければ、恵みをもたらすこともない。害獣にはなり得ず、家畜化することも不可能である。ゆえにドラゴン学者の間でさえ長らく白雲竜の生態は謎のままであった。彼らについて知るべき切迫した理由がなかったためだ。
かつて人間は雷鳴を轟かせる雲の背後に恐ろしい神の姿を見た。あるいは気まぐれに形を変える白雲の中に、空想の怪獣を描いた。現代の博物学と魔導科学は、その雲の正体が水蒸気の集合体であり、そこに棲むドラゴン属が物理現象と魔力場によって駆動される生命体に過ぎないことを解明しつつある。
解明は往々にして神秘を殺すと言われる。科学の光が照らし出すことで、伝説の情趣が失われると嘆く者もいる。だが、私はそうは思わない。
極寒の雲の只中で誰に見守られることもなく生まれ、真珠色の光を放ちながら空を悠々と泳ぎ、そして静かに雨となって消えていく白雲竜の姿を目の当たりにした時、私の胸を満たしたのは神秘への愛おしさと敬畏の念であった。
人間が足を踏み入れることのない高空のゆりかごで、水と魔力の奇跡が今この瞬間も脈打っている。彼らは純粋な自然の象徴として雲の中にあり続ける。伝説は、解明されてなお美しい。
調査ノートを閉じる私の頭上には、今日も秋の澄んだ青空に刻々と形を変えるひとすじの雲が浮かんでいる。思えばあの白い綿を生み出したのは、かつて白雲竜であった一滴の雨だったかもしれない。そんなことを考えるたび、見慣れた空の景色が二度と同じものには見えないのである。
――王立自然博物院・特任研究員ギルベルト・リンネ著/王立自然博物言論集 第42巻 寄稿論文より抜粋




