第59話:灰かぶりの戴冠
帝都サンクト・オーガスタの冬を支配していた死の氷雪が完全に融解し、陽光が柔らかな春の息吹を街並みへと注ぎ込んでから、数ヶ月の月日が流れていた。
かつて悪臭と泥濘、そして澱んだ汚水が路地裏を埋め尽くしていた帝都の空気は、いまや劇的なまでの変貌を遂げていた。
カン、カン、カン!と、規則正しく響き渡る金属と石の槌音。
大聖堂の地下金庫から接収された数百万枚の金銀財宝を惜しげもなく投じ、エルザが自ら引いた詳細な都市土木設計図に基づき、帝都全域を網羅する『近代上下水道インフラ整備事業』が、昼夜を分かたず着々と進められていた。
下町の水車長屋街では、病原菌の巣窟となっていた古い開渠がすべて掘り起こされ、生石灰で徹底的に滅菌された上で、オスカーの硝子・窯業ギルドが焼き上げた耐腐食性の硬質陶管と、黒狼領の製鉄所が鋳造した分厚い鋳鉄管が、地中深くへと埋設されていた。生活廃水と飲用水の完全な分離。
通りには生石灰を混ぜ込んだ清潔な敷石が隙間なく敷き詰められ、春風が吹き抜ける大通りからは、かつて鼻を突いていた人糞や生ゴミの腐敗臭は完全に消え去り、代わりに焼きたてのパンと、街角の花屋が並べるヒアシンスの爽やかな香りが漂っていた。
そして――大聖堂の広大な付属敷地の一角、かつてアンセルムが毒聖水を製造していた忌まわしき工房の跡地には、帝国の新たな知性の象徴が、白亜の巨躯を現していた。
『帝国公立医学校』並びに『中央衛生研究所』。
すでに開校式を終えたその学び舎には、貴族の令息のみならず、下町の職人の子、地方の薬草売りの娘に至るまで、身分や家柄を完全に撤廃した試験によって選抜された二百名の第一期生が集い、連日熱気あふれる講義に耳を傾けていた。
教壇に立つのは、かつて異端として追放され、いまや帝国初代衛生技監となったユーグ。彼は惜しげもなく人体の骨格標本と近代解剖図を掲げ、迷信を排した病理の真理を若者たちの脳裏へと叩き込んでいた。
その隣の附属医院では、マリカが率いる清潔な白衣とナースキャップを纏った看護部隊が、手洗いと煮沸消毒を徹底させながら、入院患者たちのベッドサイドで優しく、かつ毅然と近代看護を実践していた。
神の奇跡という名の嘘に怯え、祈祷師に金を毟り取られていた暗黒の迷信国家は――。
わずか一人の少女が振るった科学のメスによって、自らの手で病を克服し、衛生と理性を誇る近代帝国へと、驚異的な速度で生まれ変わりつつあった。
◇
そして、この日。
抜けるような青空の下、神聖オーガスタ帝国の至高たる皇宮『白金宮』は、建国以来、類を見ない壮麗極まる祝祭の熱狂に包まれていた。
皇宮の正門から宮殿へと続く広大な大通りには、色鮮やかなタペストリーと帝室の黄金の鷲の旗が幾重にも掲げられ、沿道にはエルザの姿を一目見ようと、数十万におよぶ市民たちが早朝から幾重にも人垣を作っていた。
皇宮の玉座の間へと続く回廊には、北方の辺境伯から南方の諸侯、さらには帝都の全貴族、軍の最高幹部、諸外国の使節団に至るまで、豪奢を極めた正装を纏った千人を超える貴族たちが列をなし、息を呑んでその時を待ち構えていた。
大広間を満たしていたのは、かつてのような嘲笑や侮蔑の空気ではなかった。
そこにあったのは、畏怖。
そして――皇帝すら首を垂れさせ、神殿の絶対権力を根底から解剖し尽くし、国家を滅亡の淵から救い上げた、たった一人の少女に対する、底知れぬ敬意と戦慄の視線だった。
――ボオォォォォン……! ボオォォォォン……!
皇宮の尖塔から、天を揺るがす祝砲の轟音と、純銀の鐘の音が鳴り響いた。
宮廷楽団のトランペットが一斉に鳴り渡り、玉座の間の高さ八メートルに及ぶ白金張りの大扉が、音もなく厳かに左右へと開け放たれる。
「――帝国衛生院総裁、エルザ・ヴァルデック閣下、ご入場ッ!!」
宮内卿の高らかな先導の声。
その瞬間、大広間を埋め尽くしていた千人の貴族たちが、一斉に左右へと分かれ、中央に敷かれた長大な深紅の絨毯の上を開け放った。
静寂。
敷居を踏み越えて現れたのは、一人の少女だった。
カツン、カツン、カツン。
静かで、寸分の狂いもないリズムを刻む足音。
エルザ・ヴァルデックは、帝室の最高位典礼服に身を包んでいた。
純白の最高級絹織物の上に、深海のように透き通った深藍色のシルクが重ねられ、襟元と袖口には、金糸と極小の真珠によって「生命の樹」と「二重螺旋」を模した緻密な刺繍が施されている。
だが、その衣装には、宮廷貴族特有の無駄なレースや巨大なパニエといった虚飾は一切存在しなかった。
あくまでも機能的で、洗練を極め、背筋を真っ直ぐに伸ばしたエルザの凛とした立ち姿を、最も美しく際立たせるための職人の衣。
腰には、皇帝から下賜された黄金の衛生院総裁章。
手には、汚れ一つない純白の絹手袋。
艶やかに梳き上げられた黒髪は、後頭部で清潔に束ねられ、琥珀色の双眸は、前方の玉座だけを真っ直ぐに見据えていた。
十二歳。
大人の背丈の半分ほどしかない華奢な小柄な身体。
だが、彼女が一歩、深紅の絨毯を踏みしめて前進するたびに、周囲を取り囲む屈強な諸侯や大貴族たちが、まるで物理的な重圧を浴びせられたかのように、自然と頭を垂れ、身を引いていく。
(……この絨毯を、歩いているわ)
一歩、また一歩。
深紅の毛足を靴底に感じながら、エルザの脳裏の深淵で、遠い過去の情景が静かに去来していた。
前世。
十九歳のあの日。
自分が歩かされたのは、この栄光の絨毯ではなかった。
冷たい晩秋の雨が降りしきる中、首枷と足枷の重い鉄鎖を引きずり、泥を投げつけられ、民衆の罵声を浴びながら歩いた、あの処刑台への血塗られた十三段の石階段。
首筋に触れたギロチンの冷徹な鋼刃の感触。
そして、死に戻ったあの日の朝――。
アルトハイム伯爵邸の薄暗い地下洗濯場で、氷の張った木樽に手を突っ込み、ひび割れた指先から血を滲ませながら、理不尽な侍女長に濡れた雑巾を投げつけられていた、惨めな十二歳の記憶。
無知であることは、それだけで首を差し出す罪だ。
そう師ユーグから叩き込まれ、感情を殺し、血と内臓と毒の知識だけを武器に、己の命を守るためだけに冷徹に計算を積み重ねてきた七年間の逆行。
伯爵邸を脱出し、大公の鉛中毒を解毒し、麦角中毒の村を焼き討ちから救い、皇太子の胃動脈を開腹して縫い合わせ、毒壁紙の欺瞞を暴いて元主家を自滅へと追い込み、そして――帝都を襲ったコレラの猛威を、火と塩だけで完全に滅菌してみせた。
誰にも媚びず、誰にも命を握らせず。
ただ己の知性と、メスを握る指先の一分の狂いもない正確さだけで、運命の濁流を力づくでねじ伏せ、這い上がってきた。
ふと、列柱の脇を見上げると――。
黒狼騎士団の儀仗兵の最前列に、直立不動で立つテオバルトの姿があった。
かつて大公の寝所でエルザの喉元に抜刀寸前の威圧をかけていた生真面目な副官は、いまや軍帽を胸に当て、溢れ出そうになる熱い涙を必死に堪えながら、敬礼を捧げていた。
その隣には、正装の軍服を着せられて居心地悪そうに肩を竦めながらも、満面の誇らしげな笑みを浮かべるオスカーと、白衣を纏って小さく手を振るマリカの姿。
そして――。
玉座の直下、全貴族の最前列。
佩刀した大剣の柄に手を添え、黒鉄の軍装を完璧に着こなして佇む、ギルバート・フォン・ラングリール大公。
男の氷灰色の双眸が、歩み寄るエルザの姿を捉えていた。
その瞳に宿っていたのは、戦場の冷酷さなど微塵もない。
ただ一人の少女に対する、狂おしいまでの誇りと、深い敬愛、そして世界中の何者にも奪わせはしないという、甘く重い絶対の熱。
ギルバートは、エルザと視線が交錯した瞬間、誰にも気づかれぬほど微かに、だが力強く口端を吊り上げてみせた。
――行け、俺の魔女。お前の戴冠だ。
声のない言葉が、エルザの胸骨を心地よく震わせる。
エルザは微かに顎を引き、迷いのない足取りで玉座の前――十段の大理石の階段の直下へと到達した。
彼女は足を揃え、深緑のドレスの裾を払うと、完璧な角度でカーテシーを捧げた。
「帝国衛生院総裁、エルザ・ヴァルデック。皇帝陛下、並びにロザリア皇妃殿下の御前に罷り越しました」
鈴を転がすような、凛とした少女の声。
大広間の千人の貴族たちが、一斉に息を呑んだ。
玉座の上に座していた皇帝フリードリヒが、重厚な衣擦れの音を響かせて立ち上がった。
その右隣では、ロザリア皇妃が優美な笑みを浮かべ、左隣では、健康を取り戻したディルク皇太子が、熱い眼差しでエルザを見つめている。
皇帝フリードリヒは、黄金の笏を手に、大理石の階段を一段、また一段と、自らの足で降りてきた。
帝国の至高たる君主が、臣下を迎えるために階段を降りるなど、帝国建国千年の歴史において一度たりとも前例のない破格の待遇。
皇帝の威風堂々たる巨躯が、エルザの眼前に立つ。
猛禽のような双眸が、十二歳の少女の白磁の横顔を、深甚なる感慨を込めて見下ろした。
「――エルザ・ヴァルデック」
皇帝の低く、地鳴りのような声が玉座の間に轟いた。
「そなたの持つ比類なき知性は、皇太子の命を繋ぎ止め、帝都を死に至らしめんとした悪しき疫病の猛威を、わずか一週間にして完全に滅菌してみせた。
迷信と欺瞞の闇に葬られかけた真実を切り開き、国家の根幹を腐敗の底から救い上げたその功績……もはや、いかなる言葉をもってしても称え尽くすことは叶わぬ」
皇帝は背後に控えていた侍従長へ向けて手を掲げた。
侍従長が恭しく捧げ持ってきたのは、純銀の盆載せられた、息を呑むほどに豪奢な一領の外套だった。
それは――帝国の最高位貴族のみに着用を許される、純白の極上シルクの裏地に、漆黒の黒貂の毛皮を贅沢にあしらった、至高の典礼マント。
皇帝フリードリヒは自らの両手でその重厚なマントを取り上げると、膝をつくエルザの前へと進み出た。
そして――帝国の覇王自らの手で、その純白と黒貂のマントを、エルザの華奢な両肩の上へと、優しく、厳かに羽織らせたのだ。
ズシリと、国家の命運そのものの温もりと重みが、エルザの肩へと預けられる。
皇帝はエルザの肩に手を置き、全貴族、全軍司令官、そして帝国の全臣民へ向けて、雷霆の如き大音声で親裁の勅命を宣言した。
「――帝国法、並びに帝室大権に基づき、勅令を発布する!」
広間の全員が、息を止めて直立した。
「エルザ・ヴァルデックの不滅の功績を称え、そなたに帝国の最高爵位たる『公爵』の位を授与する!
あわせて、帝室領の肥沃なる穀倉地帯三万ヘクタールを公爵領として永久下賜し、貴族院における終身議席を認めるものとする!」
――公爵。
平民同然の没落小男爵家の娘が。
わずか十二歳の少女が、一族の血統ではなく、己の知性と実力のみによって、帝国の最高爵位たる公爵へと上り詰めたのだ。
貴族たちから、地鳴りのような息を呑む音が漏れる。
だが、皇帝の親裁は、それだけでは終わらなかった。
「――さらに! そなたに『神聖オーガスタ帝国最高医官』の地位を終身のものとして授与する!
帝国全土の全病院、全医学校、薬局、上下水道、並びに軍医体制における一切の監査権と指揮権を、そなたに委ねる!
何人たりとも、貴族院といえども、そなたの振るう医療の刃を妨げることは許されぬ。
エルザ公爵の言葉は、帝国の衛生の法であると心得よ!!」
絶対権力の委譲。
不可侵の医療大権。
皇帝すら首を垂れ、皇族すらその診察を受けねばならず、いかなる大貴族も、いかなる軍閥も、二度と手出しのできない――完全なる「替えの利かない医療権力」が、いま、エルザの掌中へと完全に収められた瞬間だった。
かつて、誰からも顧みられず、冷たい洗濯場で家畜のようにこき使われ、無実の罪を着せられて断頭台へと送られた少女。
その「灰かぶり」の侍女が――いま、帝国の頂点において、最高位の公爵マントを纏い、至高の戴冠を果たしたのだ。
「うおおおおおおおおっっ!!」
「エルザ公爵閣下万歳!!」
「帝国衛生院万歳! 皇帝陛下万歳ッ!!」
静寂を破り、玉座の間を揺るがしたのは、割れんばかりの拍手と歓声の嵐だった。
居並ぶ千人の貴族たちが、一斉に右手を胸に当て、最敬礼の姿勢で少女へと頭を下げた。
かつて彼女を「魔女」「小娘」と蔑んでいた宮廷の古狸どもすら、いまやその圧倒的な権威の前に、畏敬の念を込めて深く平伏していた。
その歓声の中、階段を降りてきたロザリア皇妃が、優美な足取りでエルザの前へと歩み寄った。
皇妃は膝をつくエルザの両手を、手袋越しに温かく包み込み、引き起こした。
その怜悧な美貌に浮かんでいたのは、宮廷の女傑としての仮面を脱ぎ捨てた、一人の母としての、そして同志としての深い情愛の光だった。
「おめでとう、エルザ公爵」
ロザリア皇妃の声は、囁くように優しく、エルザの耳元へと届いた。
「我が息子ディルクを生かし、この国を病の底から救い上げてくれたこと……心より感謝いたします。
お前がメスを執り、お前が切り開いたこの新しい帝国を……私は、帝国の母として、生涯誇りに思い続けましょう」
皇妃の瞳に、美しい涙の雫が光っていた。
ディルク皇太子もまた、傍らに立ち、右手を胸に当てて誇らしげに頷いてみせる。
エルザは、肩にかけられた黒貂のマントの温もりを感じながら、ゆっくりと顔を上げた。
琥珀色の瞳は、澄み切った秋の湖面のように静まり返っていた。
胸の中に広がっていたのは、復讐を成し遂げたという狂おしい達成感ではなかった。
ただ、生き延びたのだという、静かな、確かな実感。
前世の理不尽な死の運命は、完全に過去の灰へと消え去った。
クラリッサは狂乱の果てに自滅し、アルトハイム伯爵家は断絶し、教会の腐敗構造は解体され、首を刎ねられるはずだった未来は、永久に消滅した。
もう、何者にも命を脅かされることはない。
二度と、理不尽に首を差し出すことはない。
だが――エルザの戦いは、復讐の完了とともに終わったわけではなかった。
手に入れたこの絶対の権力は、他者を支配するためのものではない。
無知ゆえに命を落とす者を一人でも減らし、病理と解剖の光によって、この国の未来を病から守り続けるための――真なる「知性の刃」。
エルザは深々と、皇帝と皇妃、そして帝国の全臣民へ向けて、完璧にして凛とした礼を捧げた。
「――恐悦至極に存じます。皇帝陛下、皇妃殿下」
澄み渡る少女の声が、万雷の拍手を静めるように響き渡った。
「私がいただいたこの爵位と権力は、すべて、帝国の民の命を守り抜くためのメスでございます。
病を解剖し、原因を究明し、清潔と科学をもって、この国に健やかなる光を灯し続けること……終身最高医官として、生涯を賭して全うすることをお誓い申し上げます」
その一切の傲慢を排した、純粋なる職人としての宣言。
皇帝フリードリヒは満足そうに頷き、再び玉座の間は地鳴りのような賛美の歓声によって埋め尽くされた。
万雷の拍手が降り注ぐ中、エルザは静かに振り返った。
視線の先――。
群衆をかき分けるようにして歩み寄ってきたギルバート大公が、彼女の目の前で足を止めた。
大公は自らの軍帽を脱ぎ、胸に当てると、冷酷な軍神の顔をふっと綻ばせ、深淵のような瞳でエルザを見つめた。
「……見事だったぞ、エルザ公爵閣下」
低く、熱い男の声。
「お前の勝ちだ。お前は、己の頭脳と刃だけで、この帝国の頂点をもぎ取ってみせた」
「いいえ、大公閣下」
エルザは琥珀色の瞳をわずかに細め、淡々と返した。
「勝ったのではありません。……ようやく、私の本当の仕事が始められる場所に立っただけです」
「ククッ……相変わらずだな」
ギルバートは低く喉を鳴らして笑い、その無骨な手をエルザの前に差し伸べた。
「ならば、その仕事を一生支えるのが、俺の役目だ。……行こう、エルザ。お前が救った、新しい世界へ」
「ええ、大公閣下」
エルザは躊躇うことなく、その逞しい手の上へと、自らの純白の手袋の手を重ねた。




