ミステリアス・ストレンジャー 世界ウエルター級王者 ドン・ジョーダン(1934-1997)
フロイド・メイウェザー・ジュニアも本気かフェイクかわからないような奇行で知られるが、ドン・ジョーダンはメイウェザー顔負けのお騒がせ男であった。
マーク・トウェインの小説に『ミステリアス・ストレンジャー(邦題・不思議な少年)』というのがある。この小説の中の“謎めいた異邦人”は少年の姿をしたサタンであるから、人間界で彼の素性を知る者が一人もいないのは当然である。
しかし人間である以上、両親がいるのは当たり前で、仮に捨て子であったとしても、人間の子は誰かから養われなくては生きてゆけず、誰からも存在を知られることなく一人で成長してゆくということなどありえるはずがない。
にもかかわらず、ドン・ジョーダンはプロボクシングの世界で頂点を極めたほどの著名アスリートでありながら、生まれも育ちも謎めいていて、どこまでが実像でどこからが虚像なのかわからない。少なくともボクサーになる前の私生活に関する客観的な情報は曖昧模糊としており、出生から少年時代に至るまでの人生は、本人の言葉以外に裏付けるものがないのだ。
十九世紀末の初代世界ウエルター級チャンピオン、ミステリアス・ビリー・スミス(カナダ)は、エキセントリックな性格と謎めいた私生活ゆえに「ミステリアス」という呼称が付けられたが、それから半世紀以上も経過し情報化が進んだ社会にあって、マスコミはおろか、トレーナーをはじめとする取り巻き連中すらジョーダンの私生活についてはほとんど把握できておらず、全くつかみどころのない男だった。
プロフィールではカリフォルニア州イースト・ロサンジェルス市出身のドナルド・リー・ジョーダンは、総勢十八人とも二十二人とも言われる大家族の中で育ち、子供の頃からいっぱしのワルだった、と紹介されている。
十六歳で結婚し、少年院にぶち込まれて高校を退学。少年院で習ったボクシングを生かしてまっとうな道に進もうと心を入れ替え、アマチュアを経て一九五三年にプロに転向したというのが略歴だが、これは引退から十年後に彼があるインタビューで告白した内容とは大きく異なる。
後年に彼が告白したもう一つのプロフィールを簡潔にまとめるとこうなる。
ドミニカ共和国に生まれ、少年時代は金のために複数の殺しを請け負っていた。幸い足が付く前に家族でイースト・ロサンジェルスに移住したが、手伝いも含めて実際に関わった殺しは三十人以上に及ぶ。
渡米後も十四歳の時に、一人の男をリンチにかけてなぶり殺しにしたかどで少年院に送られ、そこでボクシングを習った。出院後は裏社会の雑用係をやっていた。
単なる不良少年と殺人犯ではえらい違いだが、彼がフランキー・カルボやプリンキー・パレルモといったイタリア系の大物ギャングたちと深く関わりがあったことは事実である。一九五〇年代までは、ギャングがボクシング界にも大きな影響力を持っており、元世界ミドル級チャンピオンのジェイク・ラモッタのように八百長まで請け負った例も少なくない。
ジョーダンのプロキャリアは一九五三年四月から始まった。選手契約を結んだカルボのおかげで、マッチメイキングにも恵まれ、約一年半後の一九五四年十月にはカリフォルニア州ライト級チャンピオンになった。
一七五センチの均整の取れたボクサーファイター型で、デビュー当初はスナッピーなジャブと左フックの連打を得意とするコンバーティッド・サウスポーとして戦い、後にオーソドクスの右構えに戻している。
出世試合となったのは、一九五五年六月二日、地元のロサンジェルスのオリンピック・オーディトリアムで行われたアート・アラゴン戦である。
“ゴールデンボーイ”の愛称で呼ばれるアラゴンは、映画俳優兼ボクサーという変り種である。ハンサムな見かけによらずボクサーとしても一流で、世界チャンピオンには届かなかったものの、長らく世界ランキングの常連だった。マリリン・モンローやジェーン・マンスフィールドらと浮名を流し、ゴシップにも事欠かなかったこともあって、知名度は抜群で世界チャンピオンクラスの集客力と試合報酬が保障されていた。
この人気者相手にジョーダンは序盤からアグレッシブにパンチを繰り出し、三ラウンドにダウンを奪ったが、段違いのキャリアを持つアラゴンに終盤は巧くコントロールされ、僅差の判定負けを喫してしまった。
人気者のアラゴンを追い詰めたことで株が上がったジョーダンは、半年後に再戦の機会を与えられたが、今度は逆に一ラウンドにダウンを奪われるなど劣勢に立ち、大差の判定で敗れている。
ここからしばらくスランプに陥ったのは、本人の不摂生によるものだった。
実はジョーダンは、現役ボクサーには珍しいほどの大酒飲みでチェーンスモーカーだったのだ。ボクシングのセンスは一流で、ダウンを奪われてもKOされたことがないタフネスが売り物のホープだけに周囲も酒と煙草を控えるよう再三忠告していたのだが、本人は全く悪癖を改める気はなかったらしい。それでいて世界チャンピオンにまでなったのだから、相当な運動神経の持ち主か特異体質だったのだろう。
一九五八年五月にメキシコのテイファナ遠征から戻ってきたジョーダンは、中古車セールスマンのドン・ネセスを新マネージャーに迎えた。ネセスの伝手で名トレーナーとして知られるエディ・ファッチとジャッキー・マッコイに預けられたことが、ボクシング人生の大きな転機となった。
短期間のコーチングにもかかわらず、七月二日に世界二位のアイザック・ロガート(キューバ)にスプリットで競り勝って世界ランキング入りを果たすと、キッド・ギャビラン、トニー・デマルコといった元世界チャンピオンにも勝ったことがある強打者、ガスパール・オルテガ(メキシコ)との世界挑戦権をめぐって雌雄を決することになった(九月十七日)。
序盤はオルテガの強打にてこずっていたものの、中盤からパンチの軌道を見極めるや、大振りのパンチを出すタイミングにインサイドからのショートを合わせる戦法で次第に劣勢を挽回し、スプリットで何とか勝ちを拾うことができた。
もっともどちらが勝っていてもおかしくないほど接近した内容だったので、わずか一ヶ月後の十月二十二日に再戦が行われ、ラウンドも前回の十ラウンドから十二ラウンドまで増やされたが、またしてもスプリットでジョーダンに凱歌が上がっている。
僅少差とはいえ、世界ランキング一位のオルテガに連勝したことで、ランキング一位に繰り上がったジョーダンが世界挑戦権を獲得した。
同年十二月五日、ロサンジェルス・オリンピック・オーディトリアムで臨んだ初の世界戦では、ベテランのバージル・エイキンス(米)をスピードで翻弄し、一方的な判定勝ちを収めた。半年前までは世界ランキング十傑にも入っていなかったジョーダンは、3対1という不利予想を覆し、世界ウエルター級タイトルをかっさらっていったのである。
後年、名伯楽として名を馳せるエディ・ファッチにとっても、ジョーダンは自らが世に送り出した最初の世界チャンピオンということになる。
一九五九年四月二十四日の初防衛戦は、前王者エイキンズの故郷セントルイスで行われた。地元の声援の後押しもあってエイキンズは前回よりも健闘したが、判定は僅差でジョーダンに上がった。
七月十日にはかつてのスパーリングパートナーだった二十戦無敗の十九歳の挑戦者デニー・モイヤーを際どい判定で退け、二度目の防衛に成功。十二月五日にはブラジルで地元の若きヒーロー、二十七戦無敗のフェルナンド・バレットから四ラウンドにダウンを奪う快勝で、連勝記録も自己最高の十三に伸ばした。
ところが過密スケジュールの南米遠征は、自己管理能力に乏しいジョーダンを思わぬ陥穽に誘い込むことになった。バレットとの激戦からわずか一週間後にブエノスアイレスのルナパークで対戦した三十一歳のローカルチャンピオン、ルイス・フェデリコ・トンプソンは、二十八連勝(十九KO)と勢いに乗っていた。
相手が世界ランキングにも入っていない無名のボクサーということもあって、ジョーダン陣営は甘く見ていたのかもしれない。酒の飲みすぎとウィルス性の白血球増加症によるコンディション不良が原因で、タフで鳴るジョーダンが四ラウンドにトンプソンの右一発でボクシング人生初となるKO負けを喫したのだ。
実はジョーダンの破綻の兆候はタイトル獲得直前から現れていた。
オルテガ戦に勝利した一ヶ月後、酩酊状態のジョーダンは連れの女性二人をめがけてアーチェリーで矢を射るという傷害未遂事件を起こしていた。
幸い大事には至らずに世界戦は予定通り行われたが、今度はタイトル獲得からわずか三週間後にマリファナの不法所持で起訴されているのだ。
よほど酒と煙草とは縁が切れなかったのだろう。遊びが過ぎたか二度目の防衛戦前には急激な減量を強いられ、とてもリングに上がれるような体調ではなかったらしい。そんなコンディションにもかかわらず、ジョーダンが強敵を撃退したため、チャンピオン陣営のスタッフたちは勝利を喜ぶというよりむしろ驚きを隠せなかったという。
負けるべくして負けた南米遠征からの帰国後は長期の休養に務めたが、相変わらずのトラブル続きで狂い始めたボクシング人生はもはや後戻りできないところまできてしまった。
前妻からゆすり容疑で告発されたかと思えば、次は飲酒運転で逮捕され、最後は三度目の防衛戦のわずか二週間前に調整試合を入れたことでコミッショナーから厳しく非難されている。
関係者が首を傾げたのはそれだけではない。TV中継がセットだったジーン・フルマーとの対戦オファーを蹴って、無名のキャンディ・マクファーランドとの対戦を選んだのは何とも不可解だった。
ミドル級の世界ランカーであるフルマー戦のファイトマネーが一万二千五百ドルだったのに対し、マクファーランド戦はわずか千四百ドルぽっちだったからだ。しかも、ジョーダンはダルファイトのあげくに、マクファーランドに一方的に敗れているのだ。
マスコミはこぞって「チーズチャンプ(腰抜け王者)」と揶揄し始め、オッズメーカーは慌てて三度目
の防衛戦のオッズを大幅に変更し、三対一で挑戦者ベニー・パレット有利とした。
一九六〇年五月二十七日ラスベガスのコンベンションセンターで行われた三度目の防衛戦は三千五百名の観客がうんざりするようなダルファイトだった。
パレットは特にパンチがあるわけでもなければフットワークがいいわけでもない平凡なファイターだが、ジョーダンは持ち味であるミドルレンジからの鋭いジャブもほとんど出さず、パンチも単発でやる気というものが感じられなかった。
両者ともに打ち合いを避けるかのようにクリンチを繰り返すばかりで、世界戦とは思えないような試合ぶりに観客席からのブーイングは回を追うごとに激しさを増していったが、パレットの方もポイントでは負けていないと計算しているのか、強引に仕掛けてゆく気配は一向に感じられなかった。
防衛に失敗したジョーダンは後日、この試合はパレルモ傘下のパレットが勝つことになっていたので
途中から手を抜いた、と言い訳していたが、新チャンピオンになってからのパレットの惨めな戦績を見
る限りは全くの出まかせとは言い難いものがある。
というのも約二年後に世界タイトルを失うまでにパレットは三勝五敗と負け越しているばかりか、最後にエミール・グリフィスから殴り殺されるまでに三度ものKO負けを喫している二流チャンプだったからだ。ノンタイトル戦を多くこなして小遣い稼ぎをするチャンピオンの中には、時にコンディション不良で格下に黒星を喫する者もいるが、負け越しというのはあまりにお粗末である。
パレットも三文役者並みのチャンピオンだったが、ジョーダンの負けっぷりも酷すぎた。よほどコミッショナーの心象が悪かったのか、一方的なKO負けをしたわけでもないのに、七月のランキングではいきなり八位まで滑り落ち、八月にはもう名前が消えてしまっていた。
ランキングを駆け上がってくるスピードも速かったが、落下スピードも片破りの速さだった。
一九六〇年十一月二十六日に世界ランカーのルートヴィッヒ・リヒトバーンに判定負けしてからというもの、完全に勝ちに見放され、そこから八連敗してリングを去っている。
最後の試合となったバトリング・トーレス戦(一九六二年十月五日)に至っては、一ラウンドにトーレスの左が頬をかすったかと思いきや、ジョーダンはフロアにダイブしたまま立ち上がろうともせずにテンカウントを聞いたが、さすがに芝居が見え透いていて、レフェリーはトーレスのKO勝ちをコールする代わりに、ジョーダンにファイト再開を促した。
ところがジョーダンがこれに応じなかったことで、試合は無効(記録上は一ラウンド無判定)となり、十月十七日にがコミッショナーから永久出場停止処分が下されている。
無冠になったとはいえ、元ウエルター級チャンピオンの肩書きがあれば、売り出し中のホープの踏み台としての需要もあるため、引退後の蓄えにもうひと稼ぎすることもできたはずだが、ボクシングしか能がない男が唯一の食い扶持を自ら放棄するというのは何とも不可解である。
ジョーダンのチャンピオン時代には、日本のプロモーター塚原崇司が来日興行の交渉を行い、かなり実現が濃厚と見られていた。塚原は裏社会にも太いパイプを持っていたため、ジョーダンの背後にいるギャングとも話をつけられるという確信があったのかもしれない。
ところがジョーダンはパレット戦のファイトマネーの大半を叩いてマネージャーから興行権を買い戻したばかりか、ジョーダンに対する共謀と恐喝容疑で告発されたカルボとパレルモに不利な証言をしたため、二人はアルカトラズ送りとなり、ギャングとの腐れ縁も切れてしまった。
こうなってしまうと、本人と直接交渉しようにもエキセントリックな気分屋とビジネスの話を進めるのは困難である。ましてやすでに彼はアル中だったのだ。
引退後は二度の離婚を経て職を転々とするという墜ちたヒーローのお決まりのパターンだった。
最期もまた哀れだった。デラウェア州ウイルミントンで沖仲仕をしていた一九九六年九月三十日、駐車場で二人組の強盗に襲われ瀕死の重傷を負ったジョーダンは、五ヶ月間昏睡状態が続いた後、息を引き取った。享年六十二歳だった。
生涯戦績51勝23敗(17KO)1分
ドン・ジョーダンの破滅型の人生は1990年代のJ・バンタム、バンタム、J・フェザーの三冠王ジョニー・タピアの生き様と似ているような気がする。両親共に殺人事件の被害者という出自のタピアはそこから這い上がり、J・バンタム級時代は敵なし状態の一流王者になったが、最後はコカインから抜け出せずに早世している。一体何が彼らをそうさせたのだろうか。




