第7話「一歩、前へ」
放課後のグラウンドには、まだ太陽の熱が薄く残っていた。
週末の練習試合に向けて、チーム全体がどこかピリついた空気をまとっている。
真歩は、少し離れた場所で一人ストレッチをしていた。
ボールを抱えたまま、深く息を吸っては、吐く。
(……また、怖がったらどうしよう)
昨日、ノートに書いた文字が、胸の奥でまだざわざわ揺れている。
「声が出せなかった。」「前に進めなかった。」
ページの端。
その横に、自分で書いたもう一行。
――でも、本当は、行きたかった。
その言葉が、何度も心を叩く。
そこへ、影が落ちた。
「真歩」
顔を上げると、凛が立っていた。
「行こ。」
その声は強くない。
せかすでも、引きずるでもない。
ただ――寄り添う声。
真歩は、小さく息を吸い、うなずいた。
「……うん。」
⸻
チーム内ミニゲーム。
テーマは「縦への推進力」。
監督が笛を鳴らす。
「縦、怖がるな! 行けるなら行け! 失敗していい、戻ればいい!」
ボールが動き始める。
村岡千春がセンターラインからガサツな声でゲキを飛ばす。
「押し上げろ! 止まるな!」
真歩は右サイドでボールを受ける。
前には相手DFがひとり。
横には簡単に戻せるパスコースがある。
(……戻せば安全。ミスしない。でも……)
ほんの一瞬、判断が遅れた。
DFが寄せてくる。
「真歩、前空いてるだろ! 勝負しろよ!」
千春の声が刺さる。
胸がすくむ。
呼吸が浅くなる。
(わかってる……わかってるけど……怖い……)
そのとき――横から、凛の声。
「真歩」
真歩は顔を上げる。
凛の目は、逃げていなかった。
「見えてるなら、行こ。」
怒っていない。
責めてもいない。
ただ、信じていた。
真歩の“行きたい”を。
ほんの少しだけ、真歩の足に力が入る。
(……行きたい。行きたいなら――行っていい?)
ボールが足についた瞬間、真歩は前に踏み込んだ。
一歩。
二歩。
相手DFが身体をぶつけに来る。
真歩は息を止め、右へ小さく体をひねった。
「っ……!」
スルッと相手の脇を抜ける。
視界が、開いた。
(……行ける)
凛が中央に走っている。
少し速い。でも、間に合う。
真歩は強さと優しさのちょうど真ん中で、ボールを前へ通した。
スルーパス。
芝をなでるような軌道。
凛が受け、そのままシュート。
ボールは、綺麗にゴールネットを揺らした。
一瞬、静寂。
そして、
「ナイス!!」
誰よりも先に千春が叫んだ。
真歩は驚いて目を丸くした。
胸が熱くなった。
(……届いた)
自分の勇気が、ちゃんと誰かに届いた。
その実感は、涙が出るほど優しかった。
⸻
練習後。
凛と真歩は、いつもの川沿いの公園へ。
加藤はベンチに寝そべり、空を見ている。
真歩はノートを開いた。
ページにペン先が触れると、自然に言葉が流れた。
今日できたこと
・怖かったけど、前に進んだ
・パスが通った
・仲間が喜んでくれた
加藤はそれを横目で見て、ゆっくり言った。
「できへん理由を数えるんは簡単や。」
風が通り、木の葉が揺れた。
「でもな。
できたことを一個でもちゃんと見つけられたら、
人は前に進める。」
真歩は、ペンを握ったまま、少し震える声で言った。
「……私、できないんじゃなくて……
ただ、怖かっただけだったんだと思います。」
その声は、小さいけれど、しっかりと前を向いていた。
凛は、真歩の肩にそっと手を置いた。
「怖いままでやればいいんだよ。」
真歩は、ふっと笑った。
笑顔は小さい。
でも昨日よりずっと強い。
夜の川が、静かに光っていた。
二人は並んでノートを書き続ける。
“逃げないための線”を、ひとつひとつ重ねながら。
小さな光が、確かにそこに灯っていた。




