第3話「走れ、言い訳を超えて」
朝のグラウンドは、まだ薄い霧が残っていた。
照りつける太陽の熱はなく、静かな空気が澄んでいる。
その中で――凛のスパイクだけが、はっきりと光を反射していた。
昨日、磨いたばかりのスパイク。
大切に扱われた革は、まるで呼吸をしているようだった。
凛は一人、誰もいないピッチでボールを磨く。全てのボールを磨き終わったら軽くボールを転がした。
トン、トン、トン――と、芝の上に小さくリズムが生まれる。
(……間に合う。間に合わせる。)
言葉にしない。
声に出したら壊れてしまいそうだから。
凛はゴールに向かって走り出した。
ドリブル、ステップ、切り返し、シュート。
ボールが網に吸い込まれる。
息が上がり、胸が苦しい。
でも、止まりたくなかった。
(昨日までの私なら――ここで止まってた)
スパイクが芝を蹴るたび、
昨日の自分が遠ざかる気がした。
⸺
「お、おはよう……?」
少し遅れて来たチームメイトが、驚いたように目を丸くした。
凛は振り返らない。
「……おはよう」
短い声。
でも、その声にトゲは無かった。
チームメイトたちはひそひそと何かを話す。
昨日までの凛を知っているから。
どう接していいのか、まだわからないから。
だけど凛は、それを気にしなかった。
(今は、走る。それだけでいい)
走ることに理由はいらない。
言い訳もしない。
ただ、走る。
⸺
放課後、川沿いの公園。
昨日と同じベンチ。
いつも通り寝ている加藤。
凛は声をかけない。
ただ、ボールを持って、静かにリフティングを始めた。
トン、トン、トン……
その音に合わせて風が揺れる。
しばらくして、加藤は薄く片目を開いた。
口元に、ほんの小さな笑み。
「……走ったな」
凛はリフティングを続けたまま、そっぽを向く。
「別に」
そう言った声は、昨日より少しだけ柔らかかった。
加藤は両手を頭の後ろで組み、空を仰ぐ。
「次の課題や」
凛はリフティングを止め、少し身構える。
「声、や」
「……声?」
「ああ。お前はFWやろ。
FWはな、一人で戦う役目やない。
“味方を動かす”役目や」
凛の胸が、チクリとした。
「……でも私、今まで……」
「怒鳴っとったな」
図星すぎて、言葉が喉につかえる。
加藤は、冗談を言うでもなく、説教をするでもなく。
ただ、静かに事実を置くように言った。
「怒鳴るんと、導くんは違う」
川の流れる音が、しばらく二人のあいだを満たした。
「……じゃあ、どうしたらいいの」
「簡単なこっちゃ」
加藤は、小石をつま先で蹴った。
「明日の練習で、一回でええ。
誰かに“良い声”かけろ」
「良い声……」
「大層な指示はいらん。
『ナイス』でも、『それいいよ』でも。
たった一言でええ」
凛は目を伏せた。
(……たった一言。
でも、それが1番できてなかった)
「心はな、行動でしか変わらんのや」
その言葉は、昨日と同じく真っ直ぐだった。
まわりくどくなく、重くもなく。
ただ、真実だけ。
だから刺さる。
凛は小さく息を吸った。
そして――ゆっくりとうなずいた。
「……わかった」
加藤は何も言わなかった。
ただ、空を眺めたまま、微かに口元が笑った。
⸺
帰り道。
夕焼けが川を赤く染め、風が少し冷たい。
凛はスパイクを片手で持ちながら歩く。
昨日より、足取りは強かった。
胸の中に迷いはなかった。
(明日……ちゃんと声、出そう)
“明日やる”と先延ばしにするのではなく。
“明日やることが決まっている”という安心。
小さな変化。
けれど確かな一歩。
夜の空気は、昨日よりずっと優しかった。




