第2話「スパイクを磨け」
朝のグラウンドは、まだ空気がひんやりしていた。
いつもより少しだけ早く来た凛は、ボールを足元で軽く転がしながら、無言で芝を見つめていた。
部員たちが集まってくる。
しかし、昨日のことが尾を引いているのか、どこか距離がある空気が漂っていた。
「……」
凛は何も言わなかった。
言ってしまえば、また何かが崩れそうだった。
(別にいい。私は点を取るだけだから)
そう思おうとした。
でも、その言葉は昨日までよりもずっと軽く、頼りなく感じた。
昨日、公園で聞いた声が、まだ胸の奥で響いていた。
“気分が乗らんと動けん奴は、一生変われへん”
あんなやつの言葉なんか、と思いながら――
なぜか、忘れられなかった。
⸻
放課後。
凛はまた川沿いの公園へと足を運んでいた。
「……別に、教えてほしいとかじゃないけど」
そう口に出しながら。
気づけば足が向いていた、という方が正しいかもしれない。
昨日と同じベンチ。
加藤は、やはりそこで寝ていた。
凛
「……来ましたけど」
加藤
「そう言いながら来とる時点で、もう負けとるんや」
凛はムッとした顔で唇を結んだ。
「勝ちとか負けとかじゃないし」
「ほんまか?
自分に負けてるから、ここおるんちゃうんか?」
凛は言葉を失った。
⸻
加藤は、寝転がったまま片手を伸ばす。
「スパイク、出せ」
「は?何で」
「ええから」
凛は渋々バッグからスパイクを取り出す。
つま先には泥が詰まっている。
靴紐は少し解けかけ、芝がこびりついていた。
加藤はそれを横目で見ただけで言った。
「この靴が、お前を走らせるんやぞ」
「……だから?」
「自分の武器を大事にできん奴は、自分も大事にできん」
凛は息を呑んだ。
その言葉は、妙に真っ直ぐ刺さってくる。
「……別に、汚れてても走れるし」
「走るだけなら、な」
加藤は小さなペットボトルと、ポケットからくしゃっとなったティッシュを差し出した。
「磨け」
「……ここで?」
「ここで」
⸻
凛はしぶしぶスパイクに水をかけ、指先で泥をこすり落とした。
最初は雑に、適当に。
でも、落ちた部分の革が、思ったよりも綺麗な色をしているのを見て、手が止まった。
(……こんな色だったっけ)
そこからは、自然と動きが丁寧になった。
爪先を、側面を、靴紐の穴の間を。
夕焼けが川を赤く染め、風が少し冷たい。
遠くで子どもがサッカーボールを蹴る音が聞こえる。
加藤は何も言わなかった。
けれど、その沈黙はなぜか心地よかった。
凛は手を動かしながら、つぶやくように思った。
(……そういえば、ちゃんと磨いたことなんてなかった)
⸻
しばらくして、加藤がぽつりと声を出した。
「ボールは嘘つかん。
靴も嘘つかん。
丁寧に扱っただけ、お前を助ける」
凛は手を止めなかった。
「……助けてくれる?」
「お前が助けてやった分だけな」
スパイクは、もうほとんど新品のように見えた。
いや、本当は違う。
でも、昨日までと比べれば、確かに“大事にされている靴”になっていた。
凛はじっと靴を見つめる。
加藤は続けた。
「お前はな、“才能がある側”の人間や」
凛の指が止まった。
「才能ある奴はな――
手ぇ抜く癖がつきやすい」
凛は息を飲む。
ちくり、と胸が痛んだ。
それが悔しさなのか、認めたくない気持ちなのか、わからなかった。
加藤は、川の方を見ながら言う。
「その癖、今直す。
まだ間に合う」
凛の喉の奥が熱くなった。
「……間に合う、の?」
「間に合わせりゃええだけや」
それは、なぐさめじゃなかった。
宣言だった。
⸻
帰り道。
凛はスパイクを抱えて歩いた。
昨日より、足取りは軽かった。
靴が軽いのか、心が軽いのか、わからない。
(……明日、ちゃんと走ろ)
誰にも言わない。
言葉にしない。
ただ、自分だけが知っていればいい。
夜風が、昨日よりずっと優しく吹いていた。




