「カレーをスパイスから作る男はダメだよ」
コースターを敷いているわけを考えると、水滴がテーブルを濡らさないためだと気づいた。私は水滴がついてもついてなくてもどちらでもよかったから、コースターは捨てた。無地のものだった。可愛い猫が描いてあったら、もしかしたら捨てなかったかもしれない。けれど猫の上にマグを置くことは、なんとなく気が引けた。
水滴がテーブルに落ちてくると、円環状になった。テーブルは軽い色の木製だったから、その円環はよく目立った。何度か飲んで置いてを繰り返すと、前回と同じ位置にマグの底を合わせることができず、円環はベン図のようになった。
コーヒーの味はマグの位置を合わせることに集中していたからわからなかった。なんとなく後味で、苦いなあ、と思っていた。砂糖を足そうとキッチンへ向かう。
キッチンには私の夫がいて、夫は何やらカレーを作っていた。カレーといえば夕食のイメージだったが、彼にとってはそうではないらしく、朝っぱらから作ってもいいものらしい。
カレーからはスパイスの匂いがしている。初め「香辛料」と言っていた私は、夫の影響でスパイスへと語彙が移り変わった。私は気づかないけれど、夫もそうやって言葉を合わせてくれているのだろう。私たちの世間は、私たちだけの言語を獲得していて、言葉は世界観の注釈のようだったから、同じ度数のメガネをかけている気分である。
「スパイスからカレーを作る男はダメだよ」
いつか夫はそんなことを言っていた。当時大学生だった私たちは、よくお互いの家に泊まりに行った。彼は大変料理上手で、夕食を作ってくれる時はいつも楽しみだった。そうしていくうちに彼は、料理がネタ切れし、「実はカレーが好きなんだよね」とコンプレックスを告白するように言った。スパイスから作るんだそう。
スパイスからカレーを作る男をダメだと言っていたのは、凝り性が過ぎる男だからだそうで、自分を咎めるための発言だったらしい。私は大笑いした。そんなセンシティブな秘密を告白するみたいな顔されても困る。その後食べた彼のカレーは大変美味しかった。
彼は今夫になって、以前と変わらずカレーを作っている。スパイスから作ることも大概だったが、今は産地までこだわり始めていた。インドに行きたい! と言い出したときは流石に「この男め……」と思ったが、選んだのも私だから諦めるしかなかった。結局インドに一人で行った彼は有給を使い切り、私との時間をとってくれなかったので、それは怒った。
「あなたを尊重するけど、私たちは夫婦なんだから。尊重は、相手を無視することの免罪符じゃないと思う」
夫はシュンとしていた。私も当時は棘があったと思う。悪いことをした。けれど夫がインドのお土産で持ち帰ったスパイスは、かなり上質なものだったようで、それで作ったカレーは美味しかった。私は許してしまった。カレーに敗北感を負わされるとは。
「あれ? コースター捨てるの?」
夫がゴミ箱を見てそう言った。
「うん。大学の頃から使ってたやつだし。もういいかなって」
「そっかあ。たまに使わせてもらってたよ」
「要る?」
「いや。君の物だしね。けど供養してやろう」
夫がゴミ箱に手を合わせて黙祷した。カレーのいい匂いがする。




