第九章「任務中止」
静寂を破るように、ユウタのスマートフォンが震えた。
画面に表示された番号を見た瞬間、彼の表情が一変する。
「……組長だ」
誰にともなく呟き、ユウタは背を向けて電話に出た。
「はい、氷室です」
受話口から聞こえてくる声は、静かで落ち着いていたが、その底に鋭い威圧が滲んでいた。
『……依頼は中止だ』
一瞬、ユウタは耳を疑った。
「……今、なんと?」
『今この瞬間も、あのガキの動画が全国に拡散されている。ここまで広がっちまったら、そいつをやっても意味はねぇ。むしろ、火に油を注ぐ』
「……しかし、親父。俺たちは“受けた”仕事を途中で放棄すれば……」
『そのガキをやって何になる? いま処分すれば、氷見組が“消した”と全国に認識される。そんな筋の悪い話、俺はごめんだ』
ユウタは言葉を失った。
『家族も放してやれ。もう無理だ。あの少年は、いまや“世論”の加護の中にいる』
「……承知しました」
『まったく、厄介な仕事を回されちまったもんだ。……警察も政治家も、こっちの手駒に使おうとしてくるが、いつもこういうときだけ責任を押しつけやがる』
通話が切れる。
ユウタは無言でスマホをポケットにしまい、深く息をついた。
部屋の隅では、ひかるがじっとこちらを見ている。
「話は終わった。お前、運が良かったな」
ユウタの声に、いつもの毒気はなかった。むしろ、どこか呆れたような響きすらあった。
「お前をどうするかは……もう、俺が決めることじゃねぇ。とっとと帰れ」
ひかるはしばらく黙っていたが、やがて一歩、前に出て頭を下げた。
「ありがとうございました」
その一礼に、ユウタは少しだけ目を細めた。
「なぁ、お前ヤクザ興味ないか?原兄妹も一緒に面倒見てやるぞ」
「勘弁してください・・・」
ひかるは苦笑いしながら首を振り、背を向けて事務所を後にした。
*
一時間後、都内のとある一軒家に、あいりとタクミが到着する。
そこには、無傷のまま、ひかるの両親と妹がいた。
扉を開けた瞬間、あいりは一気に駆け寄り、ひかるの母に抱きついた。
「よかった、本当に……ごめんなさい、私、何もできなかった……」
母親は驚きながらも、あいりの頭を優しく撫でる。
「ありがとう、助けてくれて……ひかるを……家族を……」
その後ろから、タクミが静かに入ってくる。ひかるの妹が泣きながらタクミに駆け寄ると、彼は少し照れたように頭を撫でた。
しばらくの沈黙のあと、あいりはひかるの姿を探すように振り返る。
「……ひかるは?」
その瞬間、玄関のドアが開く音がした。
泥だらけの制服のまま、ひかるが立っていた。
あいりは無言で駆け寄り、思いきりひかるの胸に拳を叩きつけた。
「バカ……!もう死んじゃったと思った……」
ひかるはその拳を受け止めることもせず、ただ俯いたまま言った。
「ごめん……でも、もう大丈夫だよ」
その一言に、あいりは泣きながらひかるを抱きしめた。
タクミは後ろで、そっと煙草に火をつけ、空を仰いだ。
「……結局、このガキが一番度胸あったってことか」
その煙は、静かに夜明けの空に溶けていった。