第三章「兄はヤクザになる夢を見ていた」
夜、原あいりは部屋でスマホを握りしめていた。
ひかると電話しながら、これからどうするべきか、必死に考えていた。
「警察には頼れないよね……だって、その上のやつの息子が犯人なんだもん」
「でも、このまま何もしないのも……」
二人の声は不安と焦りに揺れていた。
その会話を、あいりの兄――原タクミが、廊下越しに聞いていた。
ドアの前で息を潜め、じっと耳を澄ませていたタクミの表情は、鋭く険しいものだった。
妹が“何か”に巻き込まれている。
だが、内容が具体的にわかるにつれ、タクミの中で色々な感情がぶつかり合った。
(あのひかるが……目撃者……)
タクミは、地元で名を上げたくて半グレの道に入り、正式な構成員としてヤクザの世界でのし上がるという夢を持っていた。
そして今、その夢のための“踏み台”が目の前にある。
上からの命令で人探しをしている。名前は伏せられているが、“ある事件の目撃者”らしい。
もし、その目撃者の情報をタクミが掴み、報告できれば——
親のいないふたりにとって唯一の家族であるあいりは何よりも大切な存在だった。そのあいりが好きなひかるを売るべきなのかどうか…
だが、タクミはあいりを溺愛していた。溺愛しすぎていた。
一番優先されるのはあいりの安全。
「……すまん、あいり。これはお前のためでもあるんだ」
タクミはスマホを取り出し、連絡先の一つを選んでタップした。
「見つけました。名前は掛橋ひかる。世田谷西高の学生です」
*
翌日、あいりは兄に呼び出された。
「おい、あいり。ちょっと話ある」
カフェの駐車場。人気の少ないその場所で、タクミは俯いたまま、口を開いた。
「ごめん。お前を巻き込みたくないんだ」
「……何の話?」
「あいつ、ひかる……目撃者だったんだな。俺、報告した」
あいりの顔から、血の気が引いた。
「……なんで!?なんでそんなこと……っ」
「俺も、上に行きたいんだよ。構成員になって、認められて、道を拓きたかった」
「……あんた、最低だよ…」
あいりの頬に涙が伝った。
「ひかるが犠牲になれば、俺は上に行けるし、お前も今なら無関係で済むんだ。あいつだけで終わる。」
「そんなの、あんたが良い思いをしたいだけじゃない!!私はもう傷ついた!!!一生恨んでやる!!!!!」
あいりは背を向け、涙を堪えきれず走り去った。
*
その夜、タクミは一人、公園のベンチに座っていた。
あいりの言葉が、ずっと胸に突き刺さっていた。
そしてスマホが震えた。
『目撃者の件、氷室が動くそうだ。お前はもう手を引け』
氷室ユウタ。
氷見組の実行部隊の一人。殺し屋も顔負けの冷酷さで知られる男だ。
(……もう、取り返しがつかねぇ)
タクミは唇を噛んだ。
あいりの涙と罵倒を思い出すたびに、自分が選んだ“正しさ”がぐらついていく。
タクミは立ち上がり、スマホを握りしめた。
「……だめだ…あいりを本当の意味で助けるにはあいつも俺が、助けなければ…」
ひかるを、このまま殺させはしない。
そう決めたタクミは、救出に動き始めた。