蝶の棲む家
年季の入った日本家屋の居間。
小学四年生の絵梨は、旅行カバンを横に置き、少し緊張した面持ちで、座卓の前に正座していた。
部屋の障子と、縁側の掃き出し窓は開け放たれ、小さな庭が見える。明るい夏の庭である。
蝉の声と、時折涼しい風が入ってきて、風鈴をちりちりんと鳴らす。
縁側と反対側の襖が開くと、祖母の昌子が手に盆を持って入ってきた。
「あら絵梨ちゃん、足崩していいのよ。自分ちと思ってゆっくりして」
盆を置くと、持ってきたコップに麦茶を注ぐ。
「おばあちゃん」
「ん?なぁに?」
「これから一週間、よろしくお願いします」
生真面目そうに頭を下げる絵梨。
「はい、よろしくお願いします」
昌子が同じように頭を下げ、ふふっとニッコリ笑うと、ようやく絵梨も緊張が解けたようにふにゃりと笑った。
「さぁ麦茶でも飲んで。足崩して」
絵梨は頷いて正座を崩し、麦茶を飲み始めた。
庭の花の周りを、一匹の蝶がヒラヒラ飛んでいた。
七月三十日のことだった。
*
七月三十一日。
今日も蝉の声が響く。風が吹くと日陰は涼しく、風鈴と梢の揺れる音が聞こえる。
絵梨は座卓の上に宿題を広げていた。今日の分が終わり、一息つく。
少し考えて、カバンの中から折り紙を取り出し、折り始めた。
ちりちりんと鳴っていた風鈴がふいに鳴りやみ、蝉の声が途切れ、一瞬、音が消えたような間が訪れた。そこへ――。
「ねぇ、ピクニック行こうよ」
縁側から声がかかった。
見ると、絵梨と同じ歳くらいの女の子が、障子から顔を覗かせていた。
「私、マリコっていうの。ピクニック行こうよ」
女の子はニコニコして言った。
「マリコちゃん? 私、今折り紙してたんだけど、一緒にやらない?」
「いいよ」
そして二人で折り紙を始めた。
しばらく折り紙をしていたが、ふいにマリコが立ち上がって言った。
「またね、バイバイ」
そして縁側に出て、障子の陰に姿を消した。
急なことに絵梨が驚いていると、今度は反対の襖から昌子の声がかかる。
「絵梨ちゃん、スイカを切ったから食べましょう」
そして昌子が襖を開け入ってきた。
「あら、折り紙してたのね」
「うん。今片付ける」
絵梨が急いで片付ける。折りかけのものが二つあることに、昌子は少し不思議そうな目を向けた。
*
八月一日。
雨だった。庭の木や花にザアザアと雨が降っているのが窓の向こうに見える。
今日の分の宿題を終わらせた絵梨は、何となく縁側に目を向ける。
立ち上がって、障子の向こうを覗くが、しんとした板敷きだけが続いていた。
*
八月二日。
庭の植物は昨日の雨を受けてたっぷり水を吸い、今日の暑い日差しの中でも生き生きと輝いているようだった。
絵梨は宿題をしながらもチラチラと縁側に目を向けていた。
宿題を終えると、今日は絵を描くことにした。スケッチブックと色鉛筆を取り出し、描き始める。
ふいに周囲の音が途切れ、声が聞こえる。
「絵梨ちゃん、ピクニック行こうよ」
縁側を見ると先日のようにマリコが立っていた。
「マリコちゃん、一緒に絵描かない?」
「いいよ」
そして二人で絵を描き始めた。
しばらくすると、マリコが立ち上がった。
「またね、バイバイ」
マリコが縁側に消えると、玄関から昌子の声が聞こえた。
「ただいまー」
「お帰りなさーい」
応えて絵を片付けていると襖が開いた。
「あら、今日はお絵描きしてたのね」
「うん」
「片付けちゃうの?」
「……恥ずかしいから」
「あらそう〜残念ねぇ〜」
昌子が絵梨の好きなアイスクリームを買ってきてくれていたので二人で食べた。
*
八月三日。
土砂降りの雨だった。遠くの山は白く煙って見えない。閉められた掃き出し窓を、時折ザアッと雨が打ち付けている。
座卓の上には宿題が広げられているが、絵梨は右手に筆記具を持ったまま、卓上に乗せた左手の甲の上に顎を乗せて、窓を眺めていた。
縁側にも部屋にも、雨の音だけが響いている。
「マリコちゃん来ないかなぁ……」
ぽつりと言って、窓の表面を流れていく雨を眺め続ける。
*
八月四日。
カラリと晴れた日差しが庭に降り注いでいた。
絵梨は宿題をやりつつ、そわそわと縁側に目を向ける。
そこへ昌子がやって来て声をかけた。
「絵梨ちゃん、今日はお墓参りに行かない?」
木陰の道を昌子と絵梨が歩く。
昌子は線香などが入ったカバンを肩にかけ、掃除道具の入った桶を提げている。絵梨はお供え用の花束を持っていた。
「絵梨ちゃん、毎日暇じゃない? 一緒に遊べる子でもいれば良いんだけど、この辺は子どもがいないから」
昌子の言葉に、絵梨は少し目を瞬かせる。何か言おうとして、何も言えないまま歩いた。
墓を掃除した後、線香を立て、二人で並んでしゃがみ、墓に向かって手を合わせた。
「このお墓にはね、絵梨ちゃんのおじいちゃんと伯母さんが眠っているのよ」
「伯母さん?」
「絵梨ちゃんの、お母さんのお姉さん。九歳の時に病気で死んじゃったの。万里子っていうのよ」
「……マリコちゃん?」
「そう」
絵梨は改めて墓に目を向ける。
「ねぇ絵梨ちゃん、もしかして、万里子に会わなかった?」
絵梨は昌子を見る。
「時々ね、家にいる気がするのよ。おばあちゃんが一人だから心配なのかなって」
「……」
絵梨が何か答える前に、「なんてね」と言って昌子が立ち上がり、手を差し伸べた。
「怖がらせちゃった? 心配しないで、おばあちゃんの気のせいだから。帰りましょうか」
昌子の手を取りながら絵梨も立ち上がる。そして言った。
「……マリコちゃん、怖くなかったよ」
二人で目を合わせた後、昌子が笑って言った。
「ありがとう絵梨ちゃん。一緒に遊んでくれて」
絵梨はふるふると首を振った。
帰り道を二人で手をつないだまま歩く。行きに持っていた花が無くなった絵梨が、今度はカバンを持っている。
歩きながら絵梨が言った。
「ねぇおばあちゃん」
「なぁに?」
「明日、ピクニックに行こうよ」
*
八月五日。
出かける前に絵梨は縁側と庭に向かって声をかけた。
「ピクニックに行くよ!」
明るい庭は蝉の声と、梢の揺れる音と風鈴の音がしている。戸締まりをして、玄関に駆けていく。
昌子が連れてきてくれたのはブーゲンビリアの咲く丘だった。
ほとんどが濃いピンク色だが、淡いピンク、赤みの強いもの、白いものもあった。
花を見ながら散策して、景色を見渡せる東屋のベンチでお昼をとった。
二人で作ったサンドイッチはゆで卵のものと、キュウリとハムとチーズを挟んだもの二種類だ。昌子が作った唐揚げと、絵梨が焼いたウィンナーといっしょに食べる。デザートには梨だ。カットするのを絵梨も少し手伝った。
ブーゲンビリアの花の近くには蝶もあちこち飛んでいて、花と合わせて見る人の目を楽しませていた。
ふと絵梨が昌子を見ると、昌子の帽子にも蝶が一匹止まり、羽を休めている。
「おばあちゃんの帽子にも蝶がいるよ」
「あらそうなの?」
「ちょっと待ってね」
絵梨は両手でそっと、蝶を包み込むようにする。
「とれた」
「まぁ見せて」
二人で絵梨の手元を見る。
絵梨が両手を開くと、白く淡く輝く、小さな蝶がたくさん飛び出してきた。
「えっ」
驚いている二人を後目に、蝶たちは辺りをぐるりと飛び回り、そして、高く飛んでいくと陽光の中に紛れるように、輝きながら次第に消えていった。
最後の光が見えなくなるまで見守っていた二人は、目を合わせると同時に笑い合った。
再び空に目を向けると、キレイな青空が広がっている。白い雲。鳥の声。風の音。ブーゲンビリアもキレイだ。
絵梨は空を見上げたまま、ゆっくりと微笑んだ。