第6話:死者からの言葉②
第6話です。
この話はr15だと思います。ご注意ください。
(はぁ……)
今日も私は、家に帰ってお兄ちゃんの作ったご飯を食べるために勉強を続ける。もう、もはや、自分が何のために勉強をしているのか、何で学校に残っているのか、分からなかった。
「なんだ、まだ終わってないのか」
「……っ」
「本当にお前は馬鹿だな」
また、佐藤先生がやってくる。先生は30分ごとくらいに職員室から戻ってきては、何かを言う。そして、私の足に巻きつけられた印付きのテープがずれていないかを確認する。テープは椅子に付けられていて、先生はなぜか、テープをこっそり剥がしてトイレに行こうとすると、すぐにそれに気づいてしまう。廊下の水飲み場にいくことも同様だ。
「今日はお前1人かぁ。この程度の指導にもついてこれないようなやつらは、だから不登校にもなる。弱々しい」
「…………ぅ」
今日は居残りが私だけというのもあって、佐藤先生との距離が近い。いつ爆発するか分からない佐藤先生を怒らせないように、私は気を配らなければならなかった。
苦しい時間が流れる中、私は不意に死を想像させるような強烈な気配を感じた。
「なぁ……」
「……ぇ?」
佐藤先生の手が、私の頬に当たった。その手は頬から下へ少し降りていく。その時の私は佐藤先生が何をやっているのか理解できなかった。ただ、浴びるほどの強烈な、悪い欲のようなものだけを感じた。
***
その日の夜、家に帰った私は怖くなって、ご飯も食べずにベッドの中に入り込んだ。
「菘、食欲がないのかい?」
ドアの向こうでお兄ちゃんが声をかけてくれたけど、私にはそれに答える気力がなかった。
可能ならば、そのドアを無理やり開けてでも、お兄ちゃんから助けにきて欲しかった。
私の力のない体を支えて欲しかった。声も出せない私を救って欲しかった。
***
それから3日経って、私は学校に行くこともできなくなった。朝、重い体を無理やり引きずって、父と母には笑顔を振りまいて、お兄ちゃんと途中まで歩いた後、私は学校に行かずに近くの公園に向かった。
学校から少し歩いた場所にある公園は、普段から人がいなくて静かな場所だった。
「…………」
私はただ、ベンチに座って呆然としていた。
何もしない時間が、私には必要だった。
「あ」
そしてしばらく経った頃、私は思いついたようにベンチから立ち上がり、家に向かった。
何故か、この時の私は晴れ晴れとしたような気持ちだった。
今なら何でもできるような、そんな気がした。
「ははは」
家に帰った私は、まっすぐ台所へ向かった。台所は、お兄ちゃんが料理をしているのをたまに手伝うから、隅々までよく知っている。私はシステムキッチンのシンク下にある、横長の棚を開けた。そこには銀色の鋭利なものが入っている。
私は手始めに、その銀色を私の手の肌色に合わせた。そうすると、僅かな痛みと共に、肌色が鮮やかな赤色に染まる。私はそれが綺麗に思えて、少し安心した。
私はさらに、今よりも高みにいけるかのような高揚感を覚えて、手に合わせていた銀色を頬に合わせて、赤色の面積を増やしながら、すっと体全体を這うように銀色を移動させていく。
銀色と赤色のコントラストが、その時の私には非常に美しく見えたのだ。
そんなことをやっていると、私の意識はだんだんとぼやけてきた。まるでテストをやっているときのように、思考がまとまらなくなってくる。
満足した私は、そのまま意識を手放そうと、体を床に寝転がせて、力を抜いた。
私は宗教など、何も信じていなかった。私を救ってくれる神様など、いるとは思えない。いるとすれば、私の唯一無二の信頼できる家族だけだ。
だから、死んだ後、どうなるのかなど分からない。地獄に落ちるのか、消えて無くなるのか、それとも他の何かになるのか。できれば、今の状況よりも少しでもましになれば良いと思った。
「……あぁ」
意識は後少しのところで留まり続けた。思っていたよりも体がまだ元気だったのだろうか。もう少し傷を与えるべきだったかと、少し後悔した。
『ガチャ』
しかし、ある意味では幸せを感じていた私の時間は、突然終わった。
***
「はぁ……」
ため息をつきながら、石山芹と石山菘の母は玄関ドアを開いた。
彼女は今日、2人の父が運営する会社の仕事がそこまでなく暇になったため、買い物をして早めに家に帰ってきた。
「は?」
リビングに接続している台所から、鉄の臭いがした。芹が魚でも捌いているのかと思ってみてみると、そこには寝転がった菘がいた。
「あんた、何やってるの?」
「……っ」
母の声を聞いた菘は、怯えるように少し声を出した。
「どうしようかしらね」
母は菘が意識を失うギリギリであることに関しては、特に興味を示さなかった。彼女にとって娘の命は価値のないものであった。
「ああ、そうだ。ちょうど良いわね」
彼女の思考は、娘を思うものではない。強いて言えば、悪魔のようなものだ。彼女は台所の横にしまってあった手袋をはめて、落ちていた銀色を拾い上げた。
「ほら、持って」
「………ぁ」
彼女は持っていた銀色を、そっと菘の手に握らせた。菘はその意味を理解して、悲鳴をあげようとしたが、既に大声をあげるほどの体力は残っていなかった。
「さようなら菘」
***
(………あれ、ここは?)
私は気付けば、透明な水のような場所に浮いていた。
体の感覚はないけれど、自分がここにいることだけは何となくわかる。
周りには何もない。ここは暗いようで、明るい。そして私は寂しいようで、何も感じない。死ぬ間際に感じた激情も、今はほとんど感じない。
ただ強いて言えば、私の最期を見た人が母ではなくお兄ちゃんであれば、私はもっと幸せだったに違いない、とは思った。
本当なら、私はお兄ちゃんの元でこの世から消えたかった。
私はこのまま、この場所に居続けるのだろうか?
寂しい感情もあまりないけれど、退屈かもしれない。
だれか、ここにやってくるのだろうか?
『オクル』
(え?)
『ソロソロオクル。ジュンビ』
水の中に、低音が少し反響した。その音は何か言っているようだったが、私には聞き取れなかった。
『ア?コトバ?ナゼ?ワカッタ』
『ヨカッタナ』
音は遠ざかっていった。
そして少しして、また少し、何かが開いたような音がしたのち──
「菘、聞こえるかい」
(………ぇ?)
お兄ちゃんの声が聞こえた。
(どういうこと?なんで?)
「僕は菘を守ることができなかった。本当に申し訳ないと思っている。ただ、僕がそんなことを言ったところで、菘の貴重なこの世の生の時間を失わせてしまったことには何も変わりない」
その声が幻だったのか本当に聞こえたのかは分からない。でも、その声を聞いて、私は後悔した。
声は会話ではなく、一方向に続く。
「僕はいつか菘に、この世に生まれて良かったと思えるような生を、与える事を約束するよ」
そう言ったお兄ちゃんの声は、いつもよりも低く感じた。
「そのためには、環境を整えなくてはいけない。菘がまたこの世に戻ってきたとき、前より良くなっていると感じられるような、幸せな世界にしておく必要がある」
不意に、私の頬に手が当たったような気がした。
それは私に安心を与えてくれる、神様の手だった。
「はは。その世界には、もしかしたら僕はいらないかもしれないね。色々な意味でね。僕は異物かもしれない。でもそれで構わない。菘が自由で幸せになれれば」
(そんなことは……)
ない、と言おうとしても、そもそも声を出すことができなかった。
「僕は菘の幸せな世界に必要のないものは全て排除する。だから安心して、その時を待っていてね」
(排除……?)
私はお兄ちゃんが普段使わないような強い言葉を聞いて怖くなった。感情が乗せられているわけではないのに、心の底から冷えて凍るような恐ろしさがあった。
「菘の辛さを、共有できなくてごめん。貴女の心を、少しでも私は理解できなければならなかった」
ここで声は途切れ、そのすぐ後に私の石山菘としての人生の記録も途切れる。
唯一自分を愛してくれた人の人生を縛り付けてしまったのではないかと思い、行き場のない不安と後悔を抱えながら、私はこの世から完全に消えることになった。
お読みいただきありがとうございます。




