第6話 お前は何に飼われているんだい?
「しばしば私は思うのだ。子供とは、家庭という工房で作られる大量生産品なのだと。常識や理想というマニュアル通りに組み立てて、人と違うことをすれば縫い直し、思い通りになるように型に流し込む。そうして出荷した子供たちが、またマニュアルのままに子を組み立てるのだと。世にはこれほどたくさんの人そして家庭があるのに、誰も彼も見分けがつかないのだ、私には。それならば、生まれてくる必要などあるのだろうか。私である必要があるのだろうか。なぜ意思を持つ必要があるのだろうか。子を成す必要があるのだろうか。無事に生まれてくることを望み、健やかな成長を望み、安定した将来を送ることを望み。そうして子の本来の姿を殺すのだろう。常識に飼われ、秩序に餌を貰い、理想のままに美しく死ぬ君の死体は、どんな芸術品よりも破壊衝動を掻き立てる。なぁ、私は何に飼われなければならない。何故飼われなければならない。何故飼われることを前提で考えなければならない。なぁ、この本を見ている君よ。私の言葉を聴く君よ____君は、何に飼われている?」
「おいおい、小説家にでも転職するつもりか?」
子供に語って聴かせるような静謐な声は、割って入った存在に遮られた。
語り部だった青年はくるりと軽やかに振り返る。視線の先には見知った姿があった。青年は優しく笑って迎え入れる。
「僕の言葉じゃないよ、ある小説の一節さ」
「いや、一節って長さじゃ無かったぜ」
男はすかさずその発言にツッコンでから、青年の隣に座った。
と言っても、ここは野外だ。腰を落ち着ける椅子もテーブルも無い。
手頃な岩に腰かける青年の横、風が揺らす草原の中にドカリと腰を下ろしただけである。
「上仙寺譲治という冷笑主義者が、常識とはなにかを問うた話だよ。知らないかい?」
穏やかに尋ねる青年に、男はハッと粗暴に鼻を鳴らした。
「知らねぇよ。俺はお前と違って学が無いんでね」
「僕も学があるわけじゃないよ」
「このご時世、学校に行って学んだ奴なんて、俺からしたらどんな劣等生も博士様に見えるっての」
そう言われてしまえば、青年は黙る。
男の生い立ちはある程度知っている。あまり触れるものでもないだろうと考えた。決して憐れんだのではない。ただ彼らは、例え仲間だとしても触れてはいけない領域があるのを理解しているだけだ。
その青年の気遣いを聡く察した男は、頭をガシガシと掻いて「あー……」と唸ってから付け足した。
「冷笑主義ってなんだ?」
「そうだね……わかりやすく言うと、人間にとって最大の価値であり善とされるのは徳であり、あらゆる欲望から解放された時にのみそれは達せられるという思想だよ。まぁ、禁欲こそが美、って言えばまとまってるかな?」
「へぇー、俺には無理な思想だわ」
「そうだろうねぇ。お前は酒もギャンブルも大好きだ」
「オイ、それだけだと俺がクズ野郎みたいに聞こえるだろうが」
喉の奥を鳴らして笑う青年に、男は下から睨む。
青年は「失礼」と、全く悪びれもせず謝罪を入れた。
「んなチンタラ長い文よく覚えられるな。今、なにも見てなかったよな?」
「昔、さんざん読んだからね。まぁ、細かい言い回しやなにやらはもう曖昧だよ。確かめようにも本はもう手元に無いんだ」
「失くしたのか?」
「さぁ、どうだったかな。どこかに置いてきてしまったのだろうね」
「本屋に行けばあるんじゃねぇの?」
「禁書だから本屋には無いよ。いいんだ、縁があればまた巡り会うさ」
まるで子守唄のような、優しくて穏やかな口調。表情もそれに反することなく柔和だ。
そしてなにより、内側の温厚さが滲み出たような落ち着く声の持ち主だった。
男は微睡みそうになる。
空にはゆっくりと流れていく雲。温和な気候。心地よい風。下には布団代わりの草原。
眠くなるのにこれ以上の好条件があるかと思える世界に、男は欠伸を一つ。
青年もゆったりと瞼を下ろしては上げている。
肌をじんわりと温める日差しが、青年の髪にキラキラと反射した。
(眩しい野郎だな……)
比喩ではなく、見たままの意味だ。男は目を細める。
どこもかしこも白い。
髪もまつ毛も、肌だって陽に当たるわりには焼けていない。雪から生まれたような存在だった。
だけど春の日差しのような温かい声。ゆったりした所作。温厚な性格。白い中で唯一色を持つ、澄んだ空色の瞳。男の人生で、ここまでチグハグな印象の人間は初めてだった。
そうして空色が、にこりと笑う。
「これ以上ここにいると、眠ってしまいそうだね」
「お前……自分が犯罪者ってこと忘れんなよ。無防備に外で寝たら刺されんぞ」
「はいはい」
「兄貴ーーー! カズさーーーん! お待たせしましたーーー!」
二人だけの空間に、今度は明るい声が割って入る。
振り返れば、声の印象にそぐう人懐っこい笑顔がある。少年が手をめい一杯振りながら駆け寄ってきた。彼の特徴である犬歯も相まって、犬が飼い主に向かってダッシュしてくるように見える。
「真昼、ご苦労さま」
青年が優しく笑いかければ、少年は上機嫌にさらに勢いよく手を振る。
犬種は柴犬かなと男がこっそり考えていると、真昼は二人の前でピタリと止まる。
「兄貴を待たせちゃいけねぇと思って、急いで来ました!」
「いいんだよ、急がなくて。転んで怪我をしたら大変だ」
「も〜、オレもう十六っすよぉ。ガキ扱い禁止!」
口を尖らせる、大人になりたい子供。
仲間の中で末っ子だということを、周り以上に気にする子供だった。憧れの大人に少しでも近づきたくて、時々無鉄砲なこともする。
それがかえって子供に見えているのだというのは、彼が大人になった時に気づくことなのだろう。
「んで、ちゃんとやることやってきたんだろうなぁ?」
「もちろんっす!」
男の問いに、真昼はニカッと歯を見せて笑った。
それから片手に引きづっていた大きな袋を、ドサリと二人の前に投げる。
「領主の屋敷に仕えてる執事、ちゃんと拉致ってきました!」
底無しに明るい笑顔で少年は答える。
白い歯を見せて、褒めてと言わんばかりのしたり顔で。
男は腰を上げる。モゴモゴと動いている袋の前で屈んで、チャックを開けた。
「……間違いねぇ、コイツだ」
この地区を統べる領主の屋敷に仕えている執事長。白髪がちらほら目立つ、五十代の男だ。
多少手荒な手段で連れて来られたらしく、頭には少し血が滲んでいる。口はガムテープを何重にも貼られて塞がれ、体はロープでぐるぐる巻きにされていた。
「よくやったね、真昼」
「へへっ」
青年に褒められて、真昼は照れ臭そうに鼻を搔く。
子供扱いを嫌がるくせに、褒められると純粋に喜ぶのだから思春期はわからんと、男は内心で肩をすくめる思いだ。
「オレ、もう一人で任務に行けるぜ! もっと兄貴の役に立つんで!」
「おうおう一丁前な口ききやがって。お前はまだまだ半人前だっつの」
「えー! なんでっすかカズさん!」
不服げに頬を膨らませる真昼に、男は執事を拘束している縄の結び目を片眉を上げて睨む。
「まず、縄の縛り方がメチャクチャだ。なんだこれ、迅速かつ最短のやり方で縛り上げろっつってんだろうが。また特訓だな」
「うげぇ、カズさんの特訓って容赦ないからイヤっす」
「なに言ってやがる。コイツの特訓よりは優しいだろうが」
男が親指でビシッと差す先には、おっとりと笑う青年がいる。
青年はニコニコと笑いながら不思議そうに首を傾げた。
「え、僕なにかした?」
「え⁇」
青年の心からの疑問に、真昼は顔を真っ青にして後ずさる。
自覚がねぇのが一番ヤベェよなと吐き捨ててから、男は真昼に向かった。
「お前、他の連中呼んで来い。車回すように伝えろよ」
「はーい!」
指示を受けて、走り出す。
やっぱり犬だなと再確信していると、男の頭上からくすりと笑い声。
「……なんだよ」
見上げれば、青年が口元に手を当てて笑っている。そして穏やかな瞳をキョロリと男に向けた。
「やっぱりお前は優しいと思ってね」
「俺がやったほうが早いと思っただけだっつの」
「はいはい、そういうことにしておこう」
「…………チッ」
なにもかもを見透かすような澄んだ空色から視線を外して、男は立ち上がる。
そしてスラリと、どこからともなくナイフを取り出した。
それを見て、執事の男がさらに激しく踠く。んーーー! と、音になって響かない声を喉の奥で鳴らしながら。
「大人しくしろ。俺らの質問にちゃんと答えりゃ逃してやるよ」
「ただし、抵抗したり騒いだりしたら爪を一枚ずつ剥がすからね」
「一応、テメェの身柄は俺らの作戦が終わるまで拘束する。嘘ついてたらすぐ殺せるようにな」
男が見せつけるようにナイフを爪でパチパチと弾けば、執事は涙を浮かべながら首を激しく縦に振った。
それを見て、青年はにこりと笑う。
「領主の屋敷の見取り図が欲しい。執事長のお前なら、隠し部屋や細かいルートまで全て把握しているだろう? 見回りの警備員の交代の時間、屋敷に装備している武器も教えてほしいな」
「俺らが用があるのはあくまで領主とそこにたんまり眠ってる金目のものだ。テメェは用が済めば逃す。俺らのことは他言無用で墓まで持って行ってくれる約束さえしてくれりゃ、礼金は弾むぜ。悪い話じゃねぇだろ?」
執事長は何度も何度も頷いた。
この様子ならあまり手間取らないで済みそうだなと男が考えていると、青年が執事長の前に屈んだ。
「助かるよ、ありがとう」
どこかの絵画のような、完成された微笑み。まるで天使のようだと比喩するのがしっくりくる。
全てを赦して、道を指し示すかのような。
(拉致っといてありがとうもなにも無いだろ……)
そう、男は心の中で思った。
◇◆◇
「やっぱ使えねぇ……」
柴尾銀臣は、心の底から忌々しげにぼやいた。
美形の凄んだ顔とはやけに恐ろしく見えるもので、廊下ですれ違う軍人たちは皆「ヒッ」と短い悲鳴を上げて道を譲る。
銀臣はそれを気にかける余裕もなくズカズカと進んで、ある部屋の扉を乱暴にノックした。
「はいよーん」
中から聞こえる呑気な声に更に苛立ちを募らせ、ドアノブを回す。
「堤さん、今日こそ首を縦に振ってもらいますよ」
「おっすおっす、今日の大会ガンバッてねシバちゃん」
全く見当違いのことを言う上司、堤凪沙。色のついたメガネと真っ赤なシャツがホストにしか見えないともっぱら有名な人である。
銀臣は堤の激励に「頑張ります、けど」と前置きしてから本題に入る。
「もう我慢なりません。はやくアイツを警察に返品してください」
ここ最近ずっと聞いている銀臣のそれに、堤は剽軽な仕草でやれやれと手のひらを上に向ける。
「だからぁ、オーパーツを使える以上、うちに置かなきゃいけないの」
「使えないじゃないですか!」
「一回でも使ったら『適性者』認定されるのよ」
「一回しか使えなかったら適性者じゃねぇだろ!」
「ちょっとタンマ。この議論は平行線になりそうだからやめよ。ね?」
手のひらを出してストップをかける堤に、銀臣も一旦落ち着いて気を持ち直す。
「……この数週間、宮本大志をこの目で見てきました。が、体力面も技能面も普通。普通すぎる。グリーン・バッジに相応しいとは思えない」
射撃は本人も言うように、壊滅的な腕では無いものの実戦では役に立たないレベル。
体力も無いわけではないが、グリーン・バッジの厳しい訓練にはついていけてない。警察で町のお巡りさんをしているには申し分ない能力値であるが、反乱軍や危険生物との戦闘を主としているここでは到底使えない部類に入る。
「え〜? でも、みやもっちゃん真面目に働いてるじゃん。就任早々逮捕に貢献だってしたし。なんだっけ、あの、商店街に日本刀持って突っ込んだイカした野郎」
「確かに格闘術に関しては認めますけど」
「そうそう、まさか本当に代表選手になるなんてねぇ〜。いやぁ、掘り出しものだったなぁ」
満足気に笑う堤を、銀臣はじとりと睨む。
日本刀を持って暴れた男を逮捕した翌日に開催された、中央地方武術大会代表選出試合。
なんと大志は、本当に躰道部門の代表者の一人になったのだ。しかも男子60kg級で選出試合優勝までしてしまった。
「チラッと覗きに行ったけど、みやもっちゃんのあれはスゴイねぇ。俺、あの蹴り食らったらしばらく立てそうにないわ」
「実際、逮捕された男なんて歯が飛んで行きましたよ」
「うへぇ〜コワイ。みやもっちゃんのことは怒らせないようにしよっと」
「って、議題はそこじゃねぇ! とにかくアイツは足手まといです、せめてチームは解体してください!」
「じゃあみやもっちゃんのこと、他に誰が面倒見るの? 俺はダメよ。堤お兄さんはもういろいろと立場あるから、新人くんに割く時間無いよ?」
「アンタじゃなくても他にたくさんいるだろ!」
「その中の一人がシバちゃん、キミで〜す。はいブーメラン返った〜」
「子供かよ⁉︎」
両手で指差して「うぇ〜い」と囃し立てる上司に、銀臣は心底呆れ返った。
こんなのが二十七歳。こんなのが支部局で一番偉い人。その事実に目眩までする。
銀臣がなんとか説得する言葉を絞り出していると、堤が先に口を開く。
「体力も技能も、後からついてくるよ。適性者は統計的に身体能力が優れてるって証明されてるし。みやもっちゃんも、訓練すれば十分使える範囲だと思うよ?」
「反乱軍との戦闘はどんどん激化していってます。使えねぇ奴を育てるより即戦力を迎え入れる方がいいですよ」
「あ〜その考えはノンノン。ナンセンスよシバちゃん。即戦力になれる子なんて早々いないんだから」
とたんに、堤の口調が少し真剣なものになる。
「俺たちのお仕事は敵を潰していくことだけじゃないのよ? 後続を育てることも立派な職務。武器持って突進してくる奴に銃ぶっ放すより、ずっと難しくて頭を使う作業なのよ。だからこそ、使えない子を立派に育てれば職場での評価も価値も上がる。今のキミは『自分は無能です』って言ってるのと同じなのよ?」
堤は、話すのが上手い。
声の抑揚、間の取り方、距離感、速度、相手の耳に心地良いトーン、それら全てが絶妙なのだ。人の話の隅っこを取って会話を広げたり、何気なく言ったことを覚えていたり。そうして相手に心地良いと思わせる空間をつくる。
だからこそ、相手のペースを掻っ攫って自分のものにしてしまうこともできた。
(ほんと、能力のわりに階級低いよなこの人………)
堤は同年代の軍人の中でも、相当な実力派だと銀臣は思っている。
立場上あまり戦場へは出ないが、作戦立案や人心掌握。なにより人柄が優れた人であるのは認めている。本人には言わないが。
階級だってもっと上でいいはずだし、支部局長などではなく中央本部で手腕を振るっていてもおかしくない。
だが、彼はずっと今の椅子に腰掛けている。口には出さないだけで栄転や昇格の話だってあるはずなのにだ。
彼の性格から考えれば『上に行ったら窮屈で死んじゃう〜』とか言いそうであるが、たんに出世欲がないのか。
どちらにしろ変わり者だとは、彼を知る全ての人の共通意識だろう。
「みやもっちゃんは、きっと良い軍人になるよ。俺の人を見る目は狂ったことがない」
「………堤さんだって、間違うことくらいありますよ」
「うん、たくさん間違えてきたよ。むしろ正しいことをしてきたことの方が少ないかも。でもね、無様に転んで這いつくばって、あぁもうダメだ〜とか、なにもかもやり直したいなぁ〜とか思っても、それでもなんとか立てるのはさ、自分が正しいってどこかでは信じてるからだよ」
「…………」
「だから俺は、キミの判断を握り潰してでも自分の意見を貫く。堤お兄さんは大人気ないから」
「……自分で言うなよ」
堤はそれにニコリと笑って答える。今日の天気を語るような、世間話の口調で。
「自覚ある悪党ってのはね、しぶとく生きれるよ。自分が世間様に顔向けできる立場じゃないってわかってるから慎重に事を進められる。キミも立派な悪党になってみればわかるさ」
「別に悪党とまでは思ってませんって」
「えぇ〜、そうなのぉ? 堤お兄さん嬉しくなっちゃった、今ならなんでも言うこと聞いてあげるよ」
「チーム解体」
「ハイ却下」
「…………………」
「大会、三島チャン撒いて応援しに行くからね〜」
「また怒られますよ」
そして今日も銀臣は敗退し、支部局長室を出る。
「クソッ」
歩き出すのと同時に、銀臣は小さく吐き捨てた。
焦りがあった。なんやかんや堤に流され、このままでは大志と本格的にチームになってしまう、と。
(これ以上あんな奴といて堪るか……)
このままではまずい、まずいのだ。
彼の中の焦りと不安は、時間が経てば経つほど大きな渦を巻いて飲み込もうとしてくる。それを感じたくなくて歩調を早めた。
別に、何から逃げられるわけでもないのに。
◇◆◇
「おーい、大丈夫かー? 生きてるかー?」
「……………はっ⁉︎」
首がガクンと落ちる衝撃で、大志は目を覚ました。
場所は支部局に備えられている食堂。目の前には一膳の食事。なんなら箸を持っている。
(やべっ……食べながら寝てた………)
人生初の体験に、彼は軽く衝撃を受ける。食べながら寝るなんて芸当ができる自分に驚いた。
「相当お疲れのようだね〜。グリーン・バッジの訓練って厳しいもんね、仕方ないよ」
「すみませ………すぐ食べます………」
「いいよいいよ、集合時間までまだ時間あるんだし。ゆっくり食べなって」
「はい……」
もはや自分がなにを答えているかも曖昧な意識で、大志は無意識に箸を動かす。
味も食感もほとんどわからないままモソモソと食べていると、ふと疑問が浮かんだ。
(俺、誰と話してるんだ……?)
極度の疲労と消耗した精神でぼうっとする頭を起こし、大志は目の前の席に座る人物を見る。
大志と同じくらいの年齢の女だ。明るい髪色で、快活そうな顔をしている。胸にはグリーン・バッジがきらりと光っていた。
彼女はその見た目の印象を裏切らず、ハキハキと喋り出す。
「おーい、マジで大丈夫かー?」
「あっ、え、あ、すみません」
大志の顔の前でヒラヒラと手を振る。慌てて返事をすると、彼女はニカッと笑った。
「あっ、あの時の……!」
「やっと気づいたか新入りくん」
明るく笑う。衰えた思考で、大志はその笑顔を思い出した。
「その節はお世話になりました」
「いいってことよ。いきなりこんなトコに連れて来られちゃった元お巡りさん」
箸を置いて頭を下げる大志に、またも明るく笑う声。
勤務初日の市中見回りの前に、車のキーの場所や帳簿の付け方を教えた女はニッカリと笑う。
「あの時はうっかり名乗らなかったのがずっと気がかりでさ。アタシ、三浦ほのかっての。よろしくね」
「宮本大志です、こちらこそよろしくお願いします」
「知ってるよー! 帝都の端から来た、オーパーツを一度使ったきりの元お巡りさんでしょ? もう軍の中じゃ有名だよ〜」
「うっ……」
その言葉が、ぐさりと胸に刺さる。
言葉通り、食堂にいる軍人たちはチラリと大志を見ては声を潜めた。
就任初日から徐々に大志の噂は広まっていた。失われた叡智を一度起動したきりの、使い物にならない突然変異。あれでは突然変異ではなく欠陥品だ、と。廊下の角で偶然耳にしてしまった自分の噂話に、悔しいとかよりも『そうだろうな』と納得したのを覚えている。
使い物にならない、そう言われて当たり前。自分の評価は自分だってできている、と。
町のお巡りさんは、一気に好奇心の見世物へと身を落としたのだ。だが大志もこの現状は、正直なんとかしたいとは思っている。
その様子を察してか、ほのかはニッカリと笑った。
「だいじょーぶ、最近の噂話はもっぱら『軍に来ていきなり代表選手になった謎の武闘家』って感じだし!」
「俺、別に武闘家じゃないですよ……」
しかも謎ってなんだ謎って、元お巡りさんだっつのと心の中で付け足した。
そういえば食事の途中だと思い出して、ほのかに許可を取って食事を再開する。きゅうりの浅漬けをポリポリと噛み砕きながら、疲れた身には染みる味噌汁でそれを流し込む。
「でも、アタシは別にオーパーツが使えないなんてどうでもいいよ。仲間ってことには変わりないんだし、仲良くしてこうよ!」
「ありがとうございます。なんか、そういう言葉をかけられると今の疲弊した心にはもの凄く響きます」
「しっかも相棒がね〜、銀臣でしょぉ? アイツ取っつきにくいし話広げてくれないし素っ気ないし大変でしょ。堤さんも人選もうちっと考えてくれりゃいいのにね」
「はは………」
全くその通りで、思わず乾いた笑いがこぼれる。
だけど近しい仕事仲間の愚痴はあまり言えなくて、すぐに食事に戻る。口は災いの元という言葉が頭に浮かんだ。
そんな大志を余所に、ほのかは軽いノリで続ける。
「あんなんなのに顔だけはやたら良いからさ、モテモテなんだよ。信じられないよね。結局顔さえ良ければ性格がひん曲がっててもモテるのよ。世の中がバカらしくなってくるわ」
「ははっ……」
「だけど根は良い奴だからさ、まぁ、嫌いにならないでやってね」
「え、あ、はい、もちろん」
あれだけ言っていたのに、ほのかはふと声のトーンを変えてそう言った。
(柴尾さんと仲が悪いわけじゃないのか)
確かにさっきから銀臣を語る彼女の声に、嫌悪などの感情は無かった。
むしろ仲が良いからそこまで言えるのかと大志が考え始めると、彼女の後ろに影が立つ。
「なにやってんだ」
「あ、おはようございます」
「おーっす、銀臣」
朝から不機嫌な顔をした美青年、柴尾銀臣はほのかをジロリと見下ろす。
「ほのか、新人にちょっかい出してんじゃねぇよ」
「ちょっかいなんて出してないよ。仕事仲間にイビられてカワイソーな新人くんに、先輩は相談に乗ってあげてたわけ」
それに銀臣が、ピクリと眉を動かした。
「おい、まさかそれ俺のことか」
「ご自分のことがよーくおわかりになっているようで」
「てめぇは関係ねぇくせに出しゃばってくんな。さっさと支度して来いよ」
「うっへぇ、ホント愛想無い。こんなのがモテるんだから世も末だわ。大志くーん、また話そ」
「あ、はい。ありがとうございます」
また、と小さく付け足す大志に、律儀に「またね〜」と明るく返したほのかは、さっさと食堂を出て行った。
「…………」
「…………」
「…………はやく食えよ」
「あ、はい、すみません……」
ほのかとは全く逆のことを言われ、大志はなんとなく息が詰まる思いをしながら食事を胃に流す。
膳を返却口に置いて、急いで銀臣の隣に立った。
「今日の大会、頑張りましょう」
「……おう」
小さくそれだけ言い残して、さっさと背を向けて歩き出す銀臣。その後を追って、大志は小さく溜め息を吐いた。
(やっぱ一昨日のこと、怒ってるんだろうなぁ……)
だがあれは自分が悪い。彼を責める気にはなれないと、大志はしっかりと自己評価している。
山を駆けていた。
それはグリーン・バッジの山中行軍訓練で、敵陣営に山中から行軍して襲撃することを想定したものだった。小規模チームで必ず行動し、一日の平均睡眠時間は四時間。それで三日間獣道を歩き続ける。
グリーン・バッジは優秀な精鋭部隊と言われるが、そのぶん訓練は厳しい。危険生物の相手や反乱軍との最前線の戦場に出る為だ。過去には訓練中に死亡者が出たこともある。
大志は二日目の夜から急激な目眩と吐き気に襲われ、短い睡眠時間でどうにか回復させようと無理やり寝て、起きたら今度は耳鳴りまで追加されていた。
重量約40kgの野営荷物は重くのしかかる。だけど指定された時間までに合流地点に着かないと脱落扱いされる。
銀臣に荷物を少し持ってもらい、なんとか合流地点には時間ギリギリで着いた。
次は装甲車に乗って、敵陣営を想定した演習場での襲撃戦闘訓練。フラフラになりながら車に乗ろうとした大志の襟首を掴んで、銀臣は訓練総監督の堤に言う。
『脱落します』
『みやもっちゃん、かなりヤバイね。救護班回すから』
いえ、大丈夫ですと言おうとした大志の意思とは裏腹に、体の力は抜けていく。
ほぼ倒れるように地面に崩れ落ちるのを銀臣は受け止めながら、肩から荷物を下ろすのを手伝った。
それにお礼を言う余裕も無い大志。音がぐわんぐわん響いて、目の前はどんどん暗くなっていく。
こんなんじゃチームとして認めてもらうどころじゃないと自分を叱咤していたら、そこで暗転した。
目を覚ましたら、軍病院のベッドの上だった。
点滴での栄養補給と安定剤を貰って、次の日に退院。
『気にしないで〜。毎回必ず倒れる子はいるから。俺なんて新人の頃、同僚に担いでもらったこともあるしね〜』
堤には笑って出迎えてもらった。
さて一番迷惑を掛けた銀臣に謝罪とお礼をしようと出向いたら、だ。
『なんだ、警察に帰ったんじゃねぇのか』
と冷たく言われた。それからは妙に気まずい空気が流れている。
だから銀臣のこと態度も甘んじて受けようと覚悟は決めている。大志にできることは、なるべく彼の気に障らないようにいることだと目標を変更した。
「おい」
「はいっ」
前を歩く銀臣が、いきなり背中越しに声をかける。大志はそれに肩を跳ねさせて返事をした。
今度はなにを言われるのだろうと身構えていると、銀臣はぽろっと口から溢すように言う。
「イビってるように見えるか?」
「?」
「俺」
「……あぁ、そういう」
すぐに合点がいった。
ほのかに言われたことを気にしているのかは声音だけではよくわからなかったが、それでもそう聞いてきたということは多少気にしてのことだろう。
「いえ、そんなこと。俺が使えないのは事実ですし」
大志は素直な気持ちを言ったつもりだが、銀臣からすれば気を使われたように思えた。
気難しくて愛想のない先輩にイビられる後輩。ほのかに言われなくても薄々は自分も思っていたのだ、銀臣は。
「……警察に帰りたいとか思わねぇの?」
「え?」
「だから、地元だよ、地元」
銀臣は少し強めに言いながら振り返る。視線の先で、大志はキョトンとしていた。
それからじわじわと言葉の意味を噛み砕くような顔をして、静かに語り出す。
「あー……いえ、確かに訓練が厳しいと帰りたいなぁとか考えちゃう根性無しですけど、普段は全然、思いません。なんとかやっていかないとってばかり考えてます」
「アンタだって納得いかないだろ。たかがオーパーツが使える程度で……いや、正確には使えてねぇんだけど。一度起動したっきりでこんなトコに連れて来られてよ」
「そうですね……辞令が降りた時は本当に参りました。ここに来る列車の中でも、不安で全然落ち着かなくて」
「だろうな」
「だけど、あいにくと思い通りになったことがあまりない人生でしたので、諦めと切り替えが早いのも俺の特技ですね」
眉を垂れさせて困ったように笑う大志に、銀臣はほんの少し息を詰めた。
こんな大人しくて礼儀正しい大志がそんなことを言うなんて思いもしなかったのだ。平穏な暮らしをしてきたんだろうなと、銀臣は勝手に思っていた。
「……なに? 結構泥水すすってきた感じ?」
「はい、文字通り」
「は?」
《連絡、連絡、大会出場者用のバスが到着します。出場者の皆さんは正門前に集合してください》
「あ、いよいよですね」
言葉の真意を探る前に、連絡用の放送に邪魔をされる。
なんとなくタイミングを失った銀臣は、特にそれ以上追求しなかった。共だってロッカールームに荷物を取りに行く。
◇◆◇
西条地方・皆島村 領主館
ふふふ、と___妙にねっとりした笑い声が豪華絢爛な部屋に響く。
でっぷりと指まで肥えた男が、手に持った札束を数えては満足そうに口を緩める。
「ん〜、しかし新しく別荘を建てるにはまだ足りんかぁ。もう少し税率を上げるしかあるまいなぁ」
脂肪が邪魔してくぐもった声は、楽しそうだった。
机の上には、七番目の愛人に頼まれた別荘の設計図が広がっている。湖のほとりに静かに過ごせる療養所が欲しいと、儚い笑みで微笑んだ可愛い女だ。胸を患っている彼女の喜ぶ顔の為に、領主は日夜資金繰りに奔走している。
頭をひねり悩み抜き、出た結論は「税を上げる」という素晴らしいものだった。思考時間にして一分。男はその長い長い苦悶の末、領民に少し協力してもらうことにすることを決めた。
「仕方あるまいなぁ。一人の尊い若い命を救う為には、療養所が必要なのだ」
そうして自分の見事な手腕で資金を生み出し、湖のほとりにひっそりと佇む別荘を作る。そういえば愛人が指定してきた湖には先住民が小さな村を作っているが、それも早く立ち退きを命じなければならない。
愛人の喜ぶ顔(正確にはその肢体)を思い浮かべて、領主である男は椅子にもたれた。
領主とは、主に貴族から雇われた統治代理人のことを言う。
皇帝から貴族へ、領地や領民、それを取り仕切るあらゆる権利を与えられる。貴族は領民を保護する代わりに年貢や『礼金』を貰う権利がある。貴族はそこから決められた割合の上納金を皇帝に捧げる。
だが最近では、統治を代理する貴族が増えた。
土地や領民の管理を任せ、領主が徴収した礼金を貴族へ上納するという仕組みになっている。
だが領主も貴族も、『上』に納める税率は決まっている。なので、より自分の取り分を多くするには税を上げるのが手っ取り早い。
貴族が領主へ『税を上げろ』と命じ、自分の給料を上げたい領主は更に税を上げるという悪循環を招いていた。
「全く……貴族様は仕事もしないで金だけ巻き上げて……お気楽なものだ」
自分のことを棚に上げていることすら自覚していない領主の男は、数えた金を大事にケースに仕舞う。
これから、最近では一番気に入っている八番目の愛人が来るのだ。洒落た服に着替え、その前に体を洗おうと思い至った。
椅子から少し腰を浮かせた時、いきなり部屋のドアが開く。
どうせ躾のなっていない使用人だと思い、乗馬用の鞭で滅多打ちにしたあとクビにしてやろうと考えた。
「誰だ、ノックも無しに無礼な」
ギィ……と、やけにゆっくり開いていくドア。
そこには、用心棒に雇っている体格の良い私兵が立っていた。
「なんだ、汚い服でこの部屋に入ってくるんじゃない」
しかし反応は返ってこない。
氷のような無表情で、妙に焦点の合っていない瞳が空虚にどこかを見つめる。
「おい、返事をせんか」
様子が変だとなんとなく察した領主は、テーブルの横に置いてある鞭を手に持った。
使用人が少しでも粗相をしたり気に入らないことがあると、よくそれを殴るように叩きつける。それ故、鞭の先は血が染み付いていた。
「わたしの問いに返事もせんとは、覚悟はあるのだろうな?」
「はい、もちろん」
穏やかで優しげ。
なのに澄み渡りすぎて、ある種のもの寂しさすら感じさせるような声。
大柄で無骨な印象の男なのに、あまりに予想を裏切る声色に領主が怪訝に感じたのも一瞬だった。
用心棒の男は、次にはぐらりと倒れる。まるで糸が切れた人形のように、ぷつりと。
「な、な⁉︎」
突然のことに言葉が出てこなかった領主が立ち尽くしていると、人影は立ったままだった。
いや、それは見間違いで。用心棒の後ろに男がもう一人立っていただけだ。
「こんにちは、突然お邪魔してすみません」
そして澄んだ声の持ち主は、その男の方だった。
逆光の中、白い髪がきらりと光る。まるで日差しの中に溶けてしまいそうだった。声からしてまだ若い。青年のようだ。
「な、なんだ、何者だ貴様!」
「少し通りすがっただけです、すぐに消えますよ」
青年が一歩、部屋に入る。
いい部屋ですねと、どこまでも落ち着いて温和そうな声がむしろ恐怖を駆り立てた。
「わ、わかった! 強盗だな!? 金目のものが欲しいのだろう!? 好きな物を持っていけばいい! こんな物、わたしならすぐに買えるのだからなぁ!」
「確かに金目のものも目的の一つではありますけど、僕はあなたに用がある」
「わ、わたしに……!?」
「先日、この屋敷に奉公していた下働きの少年が死にました。あなたが『躾』と称する鞭打ちの傷が化膿して、感染病に。ご存知でした?」
領主は、きれいさっぱり忘れていた記憶を掘り返す。
確か歳は十を過ぎたばかりくらいの少年だった。家が貧乏で学校には行けず、下働きとして働きたいと。庭仕事の際、肥料と除草剤を間違えて愛人が気に入っていた薔薇を枯らしてしまった。泣く愛人の前で英雄と言わんばかりの勢いで鞭打ちをして、汚いので捨てた。その後のことは領主の知るところではない。
「そ、そんなもの、わたしの所為ではない。それに貴様にはそんなこと関係ないだろう!」
「えぇ、関係ない。僕はその男の子と話したことすらないし、どんな人生を送ってどんなものが好きなのかも知らない」
ならばなぜそんなことをと疑問に思う領主を尻目に、青年は穏やかに続ける。
「関係ないからこそ、僕は怒りや復讐に燃えることなく、お前を冷静な状態で殺せる。僕がお前を殺すのは復讐じゃない。ただ僕の通りすがった道に邪魔だった。それだけ。自分がなぜ殺されるのかくらい、知っておきたいでしょう?」
純粋な声。
逆光で今更気づいたが、よく見れば青年の手には一振りの日本刀が握られていた。
スラリと擦れる音と共に刃が現れる。ギラギラと光るそれに領主は短く悲鳴を上げた。
「ま、待ってくれ! 金ならいくらでも! いくらでも出す!」
しかし青年の足は一歩、領主へと近づく。
「なんなら手を組もう! 税率を上げればいくらでも、好きなだけ手に入るぞ! 取り分は半分だ!」
にこりと、青年の口元は緩やかに笑う。
だけどそれは領主の提案を飲んだからではなく、そんなものには興味ないと言う冷たい微笑みだった。
「な、なら女はどうだ!? 何人でも用意しよう、なんならあんたにも何かしらの地位をやろう! 遊んで暮らせるぞ!」
青年の足は止まらない。
「う、うわああああぁぁぁぁぁぁぁ」
いよいよ日本刀が眼前まで迫った領主は、混乱して冷静な判断を欠いた。
乗馬用の鞭で立ち向かったのだ。日本刀に。ただ突進していくようなやり方で。
しまった、これではただ斬られるだけだと、冷静な思考が頭の隅に戻って来た時にはもう遅かった。
鞭を持った己の手が飛んで行くという信じられない光景を見て、領主は絶叫しながらのた打ち回る。
「ねぇ、お前はなにに飼われているんだい?」
「っ……、……? ぉ……ぁ……、……?」
穏やかな問い。優しげな語り掛け。
まるで天使が人間に啓示を告げるような。
もしかしたらその先に救いがあるのかもしれないと、領主は馬鹿らしいことを考える。
武器を持って笑う天使など、いるはずがないのに。
「お前は復讐によって殺される価値も無い。ただ道に転がってる小石と同じだ」
殺そうとしている青年の方が、なぜか悲しげに笑った。
◇◆◇
帝都中央・総合技術センター
見上げるほどに大きな建物。
どれほどの規模なのか、一見しただけでは建物の全体像がわからない巨大な施設。コンクリート製のそれの玄関前には『帝国軍中央地方武術大会』と看板が出ている。
「お………おぉふ」
「なにその妙な声、ウケる」
昨年、警察武術大会で出向いた地方都市の体育館よりずっと立派な建物に、大志は萎縮する。
ほのかに笑われたことで、顔を赤くしてグッと口を閉じた。
その様子に、ほのかはカワイイ〜とさらに詰め寄ってくる。
「い、田舎者なんですよ」
「ホントかわいいなぁ〜」
「…………」
ほのかは大志の頭に手を置いて、わしわしと掻き回すように撫でる。
大志は無言でじとりと睨んだ。
放送後、銀臣と共に代表選手専用のバスに乗り込んだら、ほのかが座っていた。
ヤッホーと銀臣を押し退け、大志を横に座らせる。特に気にした様子もなく、銀臣は後ろの方へ行ってしまった。
道中はほのかがずっと話題を振って、大志がそれに答えるような会話をする。ほのかは水泳と空手の選手らしい。
人命救助や護身の為、水泳は警察や軍の中では『武術』に区分される。前年度は三位だったというほのかは、今年こそ優勝するのだと意気込んでいた。
しかし途中から、大志はほのかとの会話の記憶が無い。
それはそのはずで、いつの間にか寝ていたのだ。会場に着く直前でほのかに揺り起こされた。
起きてみればほのかの肩にもたれ掛かっていて、大志は慌てて顔を上げて謝罪した。
『カワイイ寝顔見ちゃった♡』
どういう意図で言っているのか、なんとなく居たたまれなくなってバスが停車したらすぐに座席を離れて今に至る。
バスからはぞろぞろと同じ支部局所属の選手たちが出てくる。
他の局の選手たちも会場に到着しているようで、結構な人で賑わっていた。
寝たら疲れが取れたとすっきりした顔の大志は、あることに気づく。
「あれ? そういえば柴尾さんは?」
「あぁ、銀臣ならあそこ」
ほのかが指差す方に視線を向けると、なにやらその一角だけ華やかなものになっていた。
「銀臣さん、今年もがんばってくださいっ」
「応援してますぅ」
「大会の後、時間ありますか? うちのお店で打ち上げしましょうよ」
「あのこれ、良かったら食べてください!」
「あーもー、いきなり囲んでくんなよ」
若い女にもみくちゃにされ、一向に前に進めていない。
輪の中心で銀臣は、迷惑なのを隠そうともせずげんなりをしている。体を捻ってなんとか女の檻から逃げようとしていた。
「無視して先に行っちゃお」
「モテるのも大変ですね」
「ほのかっ、てめっ、見捨てんじゃねぇよ!」
「聞こえなーい」
大志の背を押して、ほのかはさっさと控え室に向かう。
背中には銀臣の恨めしそうな視線が刺さっていた。
銀臣が南方第二支部局専用控え室に到着したのは、大志が着いてから実に十分後のことだ。
「……おつかれさまです?」
「疑問形やめろ……」
女の子に相当揉まれたのか、銀臣のスーツはやや崩れていた。
その様子を見た大志は、とりあえず一番相応しそうな言葉を掛けておいた。銀臣は睨んで返す。そのまま視線は、ほのかに行った。
「テメェ、見捨てやがって」
「だってあそこで乱入したら、アタシが恨まれるじゃん。女の嫉妬って怖いんだからなー」
「チッ……」
銀臣はズカズカと控え室に入り、手近に設置されているゴミ箱になにかを投げた。
ほのかと大志が覗き込むと、可愛くラッピングされた紙袋がいくつか。外装だけで相当凝っている。
「あーぁ、女の子たちの熱い想いをあっさり捨てていけないんだー」
「………手作りなんて怖くて食えねぇよ。だいたい、差し入れに手作りを持ってくる方が悪いっつの」
「まぁ確かにねー。あ、大志くんも気をつけなよ。手作りは食べちゃダメだからね」
「俺に差し入れる人なんていませんよ」
「わっかんないよぉ? 準々決勝くらいまで進むと急にモテるんだから」
(そういえば柴尾さんもそんなこと言ってたな……)
「おはようございます」
部屋にいる全員に向けられた声量に、選手たちは姿勢を正した。
入り口には、女性が一人立っている。黒いスーツを上品に着こなす知的な面立ちだ。
「今回、南方第二支部の総合マネージャーを務めさせていただきます。中央本部所属大将書記官、八重樫ヒナノです。なにかありましたら遠慮なく私まで」
選手たちが一斉に敬礼をする。それに直るように伝えてから、八重樫はさっそく大会の説明
入った。
「大会の大まかな決まりごとは、前年度とあまり変わっておりません。中央地方に属する三十七の局から、それぞれの種目ごとに選出された代表選手に競技をしてもらいます。一人最大二種目までの出場が可能です。個人戦であり、他の局より多く表彰されたからと言ってなにかあるわけではありませんが、ぜひとも皆さんには頑張っていただきたいです。どうか悔いのないよう、健闘をお祈りします」
マネージャーは上品に笑って、選手たちへ激励を送る。
水しぶき。
水面下から顔を出したほのかは、水泳部門のマネージャに順位とタイムを聞いて、それからガックリと肩を落とした。
そのままプールを上がって、更衣室に向かっていく。タオルを頭からかぶったほのかがトボトボと大志たちの前まで歩いて来て、それからワッと顔を上げた。
「二位だったーーーーーーー‼︎」
「泳いだ後なのに元気だな」
「でも一位の人とのタイム、一秒差じゃないですか」
「一秒だから悔しいんじゃーーーーーーー‼︎」
「そ、そうですね、すみません」
耳を塞いで顔をしかめる銀臣と、なだめる大志。
ほのかは意気消沈することもなく「来年はリベンジじゃーーー‼︎」と、もう一年後に向けて意気込みをしている。
そのあり様が彼女の人柄をよく表しているようだった。
一般の観客も混ざり、中央地方武術大会は盛り上がりを見せている。
ほぼ時間通りに競技が行われる中、大志は出番まで競技会場を練り歩いていた。
アーチェリー、馬術、居合いと見て周っていたら、女子水泳開始のアナウンスが掛かったのでほのかの応援をしようと立ち寄ったのだ。そこには銀臣もいて、無視するのも変だと思って断りを入れて一緒に競泳を見ることになり、今に至る。
「来年こそぜったい優勝してやるんだからーー!」
ほのかの後ろを大人しくついて歩いていると、銀臣は丁度あった壁掛け時計に目をやった。
「俺、もう行くわ」
「あ、そろそろ定点射撃の時間か」
「柴尾さん、出るんですよね。観に行っていいですか?」
「そんなのアンタの好きにすればいいだろ」
相変わらずの態度に、大志もいい加減慣れてきた。
なので笑って答える。
「そうですね、じゃあ観に行きます」
「アタシもー!」
「お前はうるせぇからダメ」
「俺もー!」
「アンタも……ってなんでいるんですか!」
突如後ろに立った堤に驚いた銀臣は、盛大に飛び退いた。
堤は相変わらず軽薄な笑みで銀臣の肩を叩く。
「やだなぁ、応援しに行くって言ったでしょぉ。遅くなってゴメンね。去年も抜け出したから三島チャンの監視がキツくてさ。棚の下にハンコ落としたって言って探してくれてるうちに抜け出して来た」
「最低だ……」
「鬼畜の所業……」
大志とほのかは侮蔑の眼差しを向ける。
銀臣は「仕事してくださいよ」と呆れの意と共に溜め息を吐く。しかし堤がそんな意見を聞くわけないとすでにわかっているので、その一言で流すことにした。
「ほらほらシバちゃん、はやく競技会場に行かないと。遅刻は失格だよー?」
「わかってますよ」
じゃれる堤と、鬱陶しそうにしながらも相手をする銀臣。
なんだか兄弟のようだなとそのやり取りを見ながら、大志はほのかと後ろからついて行く。
射撃会場は外に設営されているようで、外へと続く通路を出た。
選手控え室に向かった銀臣と別れ、三席連なって空いていた席に堤を真ん中にして座る。
観客席にはかなりの人がいて、一般客と軍関係の比率は六:四くらいだった。そして客席前方の一角には、花畑が咲いている。
「銀臣さーん!」
「がんばってー!」
「応援してるよー!」
鮮やかな余所行き用のドレスを身に纏った女性の集団。花の髪飾りやらつば広の帽子がいかにもオシャレな都会の娘という感じだった。
ほのかはそれを見てゲッと口を引くつかせる。
「銀臣のファンだ」
「いいなー、俺も女の子に応援されたい。ね、みやもっちゃん」
「いえ、俺はああいうのは……」
「あんなののどこかいいのかね〜」
ほのかの心底不思議そうな疑問に、周りの席から「全くだ……」「許すまじ柴尾銀臣……」と恨めしそうな声が聞こえる。非モテ男の呪いの言葉をしっかり聞き取って、大志は会場を見渡した。
綺麗にカットされた青芝の中に、的が並んでいる。
定点射撃のルールは簡単だ。選手は立位でスタンドラインに立ち、それぞれ十メートル・二十五メートル・五十メートルと三つ設置されている的の、より中心に近く撃った者が勝つ。
ただし、的はそれぞれ高さが違う。十メートルの的はほぼ地面すれすれに設置されていて、五十メートルの的は成人男性の頭くらいの高さに設置されている。この高低差が難所と言えるだろう。
「射撃っていうのはね、見る方が思ってるよりかなーり神経使うのよ。競技が終わった後の選手なんて、体重が数キロ単位で落ちてることもある。だからあんま騒いでほしくないんだけどな〜」
堤は甲高い声をあげる集団を見て、やれやれと息を吐いた。
確かに、射撃の前は精神統一をしているという友人が警察にいたことを大志は思い出す。まぁ、あまりに騒げばスタッフから注意がいくだろう。そう結論を出してから会場に視線を落としてチームメイトの姿を探す。
銀臣は自分の待機場所であるベンチに、目を閉じて座っていた。
「銀臣さーん!」
「こっち向いてー!」
「今日もステキよー!」
(柴尾さんがそういうのに反応するわけないって……)
という大志の予想を裏切り、銀臣は海色の瞳を見せた。それから騒がしい集団の方を見上げる。
驚いて目を瞬かせていると、銀臣が動く。
自分の人差し指を口元に持っていて、しーっと息を吐いた。それから唇だけを「しずかに」とゆっくり動かす。
それを受けて、興奮度合いが絶頂を超えた女性たちは急に静かになった。
ただぐずぐずに溶けきって騒げなかっただけなのであるが。声もなく見惚れている。
「うわっ、なに今のイケメンにのみ許さた技。腹立つぅ〜」
「シバちゃんって天然でやるからね。ムカつくから今度ロッカーにクサヤ入れちゃおうかな」
「それ、被害が柴尾さんのロッカーだけじゃ済まないんでやめてくださいね」
図らずも銀臣のおかげで静かになった会場で、いよいよ競技開始の放送がかかった。
選手が五人ずつスタンドラインに立つ。銀臣もいた。
いつもどこか気怠げな目が、この時ばかりは真剣そのものだった。
選手の気迫を受けて、観客たちも息を飲んで見守る。審判の笛が鳴って、選手全員が拳銃を前に構えた。
笛が鳴ってから、十五秒以内に撃たなければならない。それから残り二つの的に、それぞれ十秒以内に発砲するのがルールだ。見てる側からしたら長いようにも感じるが、選手からしたら一瞬の時間。
誰からともなく発砲して、銃声が何発も響いた。
「どうですか?」
ほのかが隣の堤に尋ねる。
懐サイズの折り畳み式双眼鏡を覗いていた堤は、満足そうに笑った。
「ほぼド真ん中。さすがシバちゃん」
続く銃声。二十五メートルの的もほぼ真ん中に当てる。最後の五十メートルではなんと真ん中を射抜いた。
スタンドラインに立つ選手が全員打ち切ったところで、会場が湧く。女性の黄色い声も再び戻ってきた。
その中で堤はヒューと口笛を鳴らしてから、双眼鏡を畳む。
「表彰台はほぼ間違いないね。シバちゃんを抜くには全部の的のド真ん中に当てなきゃならない」
「あとの選手にはプレッシャーですね〜」
「本当にすごいですね。どうやったらあんなに上手くなるんだろう……」
予想以上の銀臣の射撃の腕に、大志が感嘆の息を漏らす。
大志の射撃の腕は、全くの使い物にならないわけではないが実戦では使えない。田舎町の交番で働く分には問題ないが、グリーン・バッジとしてというなら力不足だった。
「安心しろ、アイツも最初はかなり下手だった」
「そうなんですか………え、すごくナチュラルに入ってますけど、どちらさまですか?」
流れで返事をしてしまったが、聞き覚えのない声に大志はものすごく冷静に反応してしまう。
隣の空席にはいつの間にか、大志と同じくらいの年齢の男が座っていた。
きっちり整えた黒髪。鋭い双眸をメガネで隠すいかにも神経質そうな印象だった。
「あ、ユウちゃんおっつー」
「おつかれさまです」
堤に向かって軽く頭を下げる。ほのかも「よっ」と手を上げて挨拶をした。男もそれに同じ仕草で返す。意外にお茶目なやり取りの後、ほのかが紹介をしてくれる。
「アタシや銀臣と同期の紀州遊一郎。まだ会ってなかったんだ。銀臣といたからとっくに知り合ってると思ってたよ。遊一郎と銀臣ってニコイチのイメージだもん」
「俺は長期任務であまりいなかったからな。ここへのバスも二便に乗っていた。紀州だ、よろしく」
「宮本大志です」
「聞いているぞ。ギンとチームを組んだのだろう」
大志はギクリと肩を揺らした。それから小さい声で乾いた笑いをこぼす。
「はい……一応」
「一応じゃないからねー。正式だからねー」
大志と堤の態度で、どうやら相棒生活が上手くいってないことを悟ったらしい遊一郎は溜め息を吐いた。
「ギンのことはすまんな。もう少ししたら慣れるだろうから待ってやってくれ。今は借りてきた猫の逆バージョンのようなものだ」
「あ、もしかしてギンって、銀臣の字から取ってギンと呼んでらっしゃるのですか?」
「そうだ。だがお前は気安く呼ぶなよ。ギンは勝手にそう呼ばれるともの凄く不機嫌になる」
「呼びませんよ。自分から状況を悪化させるほど勇者じゃないです」
視線の先に、すでに銀臣の姿は無かった。
遊一郎に気を取られているうちに会場を出たらしい。個人戦なので、自分の番が終わったあとは自由だ。もうすぐこちらへ来るだろうと思っている大志の背中を、堤が叩く。
「親密度を上げる為にもシバちゃんに射撃教わりなよ。教えるのじょーずだから」
「えぇ……なおさら引かれないですかね?」
「だいじょーぶだいじょーぶ、シバちゃんって押しに弱いから。とりあえず押しとけば大体のことは言うこと聞いてくれるよ」
「あぁ、断られそうになったら遮れ。遮った上で頼み込めば大丈夫だ」
「見捨てられそうになっても、同情を誘うように困った顔しとけば絶対見捨てられないからさ〜」
「皆さん……柴尾さんのことをなんだと思ってるんですか……?」
「おいユウ、そろそろお前の番じゃねぇのかよ」
後ろから銀臣の声が聞こえて、大志は肩を跳ねさせた。
今の会話が聞こえていたらマズイのではないかと冷や汗を垂らしながら振り返るが、銀臣の様子はいつもと変わりない。
内心でほっと息を吐いていると、遊一郎が立ち上がった。
「わかっている、もう行くところだ」
「紀州さんも射撃の選手なんですか?」
「いや、俺は運転技術だ」
運転技術は文字通り、規定の車に乗って運転技術を競うもの。
場内には至る所にコーンが設置され、倒した分だけ減点される。馬術と並んで観客が盛り上がる競技である。
堤の提案で、全員で観に行くことにした。
連れ立って射撃会場を出て、長い廊下を歩く。
運転技術の会場である裏手のグラウンドまで向かっている最中、前方に体格の良い背中が見える。
筋肉質で、背筋が綺麗に伸びている。別段気にすることもなく通り過ぎようとしたら、堤が男の顔を覗き込むように前に屈んだ。
「あっれぇ〜? もしかしてフミちゃん?」
振り返った男は堤の顔を確認するなり、眉根を寄せる。
「…………凪沙か」
「やっぱフミちゃんだ、久しぶりぃ」
「その呼び名はやめろと言っただろう」
フミちゃんと呼ばれた男は、不快の感情を隠すこともなく堤を睨み付ける。
短髪に、スーツの上からでも鍛え上げられているのがわかる体つき。精悍な顔立ちをしたいかにも軍人然とした男だった。
大志たちに向き直った堤は、彼を親指で差す。
「コイツね、前道文近。通称フミちゃん」
「勝手に通称にするな」
鋭く入る言葉が妙に慣れていて、毎回こんなやり取りをしているのだろうなとその場の全員が感じつつも、敬礼で挨拶をする。
前道は「直ってくれ」と手を下げさせる。堤は前道の肩に手を回して、いつもの軽い調子で話し出した。
「俺の同期なの。今は中央本部でお偉いさんやってるんだよ。スゴイでしょ」
「なにを言う。何回も本部に来るよう打診しているのに、断り続けているのはそっちだろう」
「俺、ああいうお偉いさんばかりのとこキラ〜イ。それに、新人の頃から知ってる子が立派になるのを見届けるのが趣味なの」
「永遠に終わらないじゃないか」
「そ、てことでゴメーンね」
「全くお前は……」
心底呆れたように息を吐く前道を笑い見てから、堤は思い出したように大志を呼ぶ。
「みやもっちゃん、おいでおいで」
「え、は、はい」
手招きに応じて、大志は戸惑いながらも前に出た。
「この子ね、例の子。真面目に働いてくれてるよ」
「あぁ、お前が熱烈に自分のところに配属希望をしていた……」
「え」
予想外の言葉に、大志は勢いよく堤に顔を振る。
堤は「本部まで行って強烈に駄々こねてきた」と、何故か誇らげだ。
その時のことを思い出した前道はまたも深々と溜め息を吐いてから、大志を憐れんだように見下ろす。
「本来なら、君は北方第一支部に配属予定だったのだが……凪沙がな」
「ちゃんとお世話するしご飯もあげるし適度なお散歩もするからお願いしまーすって本部のジジイたちを説得してきた」
「扱いが犬猫ですよね?」
突如として投げ打たれる自分の扱いに対する疑問に、大志はそれしか言葉が出ない。
「適度なお散歩って山中行軍訓練のことか?」
「全然適度じゃないじゃん」
後ろでは銀臣とほのかがヒソヒソと耳打ちし合った。
暫し談笑していると、前道の後ろから部下らしき男が「お時間です」と控えめに言った。前道は軽く頷いて、堤に別れの挨拶をする。
「あれフミちゃん、大会出ないの?」
「若い頃と一緒にするな。立場があると時間がなくなるものだ。少し寄っただけなのにお前に捕まった」
「えー、フミちゃんせっかく良い腕してるのに」
「もう世代交代の時期だろう。大会で腕を競うのは若いのに任せて、お前も少し落ち着け」
「俺らまだ二十七じゃん! 勝手に若くない世代にしないでくれる⁉︎」
堤はわざとらしく肩を怒らせ歩き出す。
その背中に前道は「本部転属の話、考えておいてくれ」と投げたが、堤は「蚊がうるさくて聞こえない〜」と子供のようなことを言ってさっさと行ってしまう。
銀臣たちも、前道に敬礼をしてから堤の後を追って行く。
大志も倣って敬礼をし、歩き出そうとした。
「待ってくれ」
またも大志にとっての予想外が起きる。
なにか呼び止められるような非礼をしてしまったのだろうか、オーパーツが使えないことでなにか言われるのだろうかとドキドキしながら返事をすると、前道は少し声のトーンを落とした。
「君は、凪沙のところに行ってまだ日が浅いな」
「はい。一ヶ月経たないほどです」
「そうか………」
そこで一旦口を閉じた前道は、難しい顔をする。
一体なんだろうと顔には出さず訝しんでいると、彼はさらに声を落とした。
「……君から見て、堤凪沙になにか不審な動きは無いか? 」
「え?」
「就任したての君の方が、下手に付き合いの長い人間より客観的に見られると思うのだが」「え、支部局長に、ですか? えっと……」
質問の意味がわからず、返答に迷う。
堤はお調子者でノリも軽いが、良い上司であると思っている。不審な点を聞かれても、これといって思い浮かばなかった。それに質問するにしても、表現が大雑把すぎて意図がわからない。
そもそも、新任の自分にこんな質問をするなんて何か裏があるのでは。むしろその質問に対する自分の返答を試しているのかという考えにまで至る。
前道の表情からはなにも読み取れず、大志は完全に無言になってしまった。
その様子を見て、前道は眉ひとつ動かさず詫びを入れる。
「いや、突飛な質問だったな、すまない。忘れてくれ」
それだけ言い残し、さっさと背を向けてしまう。
離れた位置で控えていた部下を引き連れ、その姿は廊下の角に消えた。
急な展開に完全に思考を置いていかれた大志は、しばらく立ち尽くす。
「なにをしている。置いて行くぞ」
戻ってきた遊一郎に呼び掛けられたことで、正気に戻った。
「すみません、すぐ行きます」
とりあえず今は大会のことを考えなければと、前道の言葉を頭の隅に追いやる。