第10話 夢の箱舟は、夢のまま
「……なぁ」
「……えぇ」
「姫殿下になにかあったら首が飛ぶな」
「比喩ではなく文字通りに」
「死ぬ時は一緒だぜ」
「勘弁してください」
表情は少しも変えず小声で言い合って、二人は浮かれているサクラの背を見守る。
はしゃいであっちにこっちに動き回り、その度にドレスの裾がひらりと回る。生誕祭を迎えれば二十歳になると聞くが、まるで子供のような笑顔の持ち主だ。
大志と銀臣、それから数名の軍人がサクラの護衛として抜擢された。なので今、乗る予定ではなかった船でこうして突っ立っているわけだ。
「お前って、姫殿下と知り合いだったりするの?」
「そんなわけないじゃないですか。生まれも育ちもこっちは野生ですよ」
「野生」
銀臣が微かに声を漏らして笑う。
ツボに入ったのか、しばらく肩を震わせた。それを横目で見ながら、大志はついさっきのことを思い出す。
『護衛は、この方にお願いしたいですわ』
船に乗ることが決まったサクラの為に、堤が護衛を選抜している時だ。
サクラはすいと輝くヒールの先を向ける。そして、大志の前で止まった。
『……………え?』
突然のことに、失礼だが大志にはそれしか返せなかった。
目を瞬かせているとサクラが見上げてくる。「よろしいでしょう?」と、にっこりと笑う顔に押し切られて、大志は気づいたら頷いていた。
大志が乗るならチームである銀臣が。銀臣が乗るなら息が合い連携の取れる遊一郎が。ついでに同年代だし将もと、堤がほいほいメンバーを決めていく。
そうしてよく見知った顔に囲まれて、大志は人生で初めて船に乗ることになったのだ。
「一目惚れされたんじゃね? お前、ここに来た時より垢抜けたし」
「垢抜けました? 自分じゃあまり感じないですね」
「ここに住んでるとな、街がその人を変えるんだよ。自分に相応しい人間にするのさ」
「街が、ですか?」
「ここはどんな人間も受け入れる訳じゃねぇ。街が人を選ぶんだ」
銀臣は含んだように笑って、それ以上は口を開かなかった。
意味がわからず、大志も黙る。返す言葉が浮かばなかったので、わかりやすく話題を変えた。
「それにしても、本当にすごい船ですね。港にあるどの船よりも立派だ」
視線をわずかに上にずらして、感心したように呟く。
巨大な帆が、誇らしげに風に吹かれていた。船体自体もかなり巨大で、波に揺られない。
「まぁ、海を渡ることを前提に作られてるからな。漁船とは比べもんにならねぇだろ」
「海の向こう、なにがあると思います?」
「さぁな。大昔みたいにいろんな人が国でも作ってんじゃねぇの?」
興味無さげに答えて、銀臣は横目で大志を見た。
大志はいまだ感心したように、目線だけを船のあちこちに送っている。そんな彼に、銀臣はついでのように聞いた。
「そういう宮本くんは、なにがあると思うんだよ」
「んー……宝島とか?」
「はぁ?」
銀臣は思わず素っ頓狂な声をあげる。
だって、この現実主義の塊みたいな男が、そんなことを真顔で言ったのだ。
大志は銀臣の反応を気にもとめず、そのまま続ける。
「最近流行ってるじゃないですか、海洋冒険物。けっこう好きなんですよ」
「へぇ、質素に堅実に、みたいなお前がああいうのに憧れるとは思わなかったわ」
「憧れてませんよ。憧れてないからこそ暇つぶしに読めるんじゃないですか」
「なるほど、そういう見方かよ」
「でも、いいじゃないですか。宝島って。俺も他人が必死に集めたであろう財宝を持ち帰って悠々自適に生活したいです」
「言い方がなんかイヤだな。夢を持とうぜ」
「ま、実際はそんなもの無いだろうから、こうやって一公務員として警護の仕事してるのが俺にはお似合いですけど」
「船が完成したら、乗組員を募るそうだ。応募するって手もあるが?」
「いやですよ。海の向こうの安全が確保されてない限り絶対行きません」
「言うと思った」
「おい、さっきからうるさいんだよ庶民ども。全く下劣な人間は、少しも口を閉じていられないのかな?」
嫌味を濃縮して、せせら笑いと不愉快さも足したような口調。
それは誰と言うまでもなく、重春だ。
色素の薄い見た目は、いかにも良いところのお坊ちゃんといった風体だ。しかし態度は不遜で、言動は皮肉を忘れない。
実際に彼の家は五大財閥に数えられる大金持ちだ。この態度も頷ける。
「はいはい、悪かったなお坊ちゃま」
銀臣が薄く笑いながら、鼻で笑って答えた。
それに重春はさらに目を吊り上げる。
「ふん、警護を怠るなよ。君なんて、体力と射撃の腕くらいしか価値がないのだからね」
「おっ、俺の射撃の腕を認めてくれるのかよ。やさしーな、お坊っちゃまは」
「揶揄うのはよしてくれないかな⁉︎ 不愉快なんだよ柴尾銀臣!」
「まぁまぁ、そのくらいで。あまり騒ぐと本当にお叱りを受けますよ」
ヒートアップしそうな雰囲気を察して、大志が割って入る。
眉を垂れさせてすみませんと謝る大志を、重春は鬱陶しそうに一瞥してから下がった。
離れていく不機嫌そうな背中を見送り、大志は隠れてため息を吐く。それから隣の男をじとりと睨んだ。
「……まったく、いちいち突っかかるんですから」
「俺はなーんにも言ってないぜ。向こうが過剰反応してくるだけだろ」
「それを楽しんでる節がありますよ」
大志の苦言すら、銀臣は笑って受け流す。
聞く気がないと早々に察して、大志は諦めた。視線をサクラに戻す。
彼女はいまだ楽しそうに、従者の女性とはしゃいでいる。
いや、はしゃいでいるのはサクラ一人で、従者の方は気が気じゃ無さそうだ。
「見て、どんどん岸から離れて行くわよ!」
「姫さま、危のうございます! あまり身を乗り出さないでくださいまし!」
従者の注意も聞かずに、恐れもせず上半身を乗り出すサクラ。
その光景を見ながら、銀臣は片眉を上げて笑う。
「じゃじゃ馬だな」
「とんでもなく。ほのかさんとはまた違ったタイプですね」
「アイツはじゃじゃ馬じゃなくて、ただ騒がしいんだよ」
◇◆◇
「へ……へ……へっっっっくしゅ」
「おぉ、デッカいくしゃみだね、ほのかチャン」
「銀臣あたりがアタシの悪口を言ってるんじゃないですかね?」
風邪が悪化するからと岸に残ったほのかは、鼻をさすりながら笑った。
残ることを言いつけた堤は「そうかもね〜」と返してから、ある人物へと視線を持って行く。
その人物は、池のほとりで双眼鏡を覗いていた。
「あ……あぁ! サクラ……、ちょ、そんなに乗り出したら危ないじゃないの! ちょ、あ、ダメ、もうダメ見ていられないわ! あ、あ、心臓に悪い吐きそう!」
もう一人の姫殿下である菊乃は、船がほとりを出発してからずっとああやって身悶えている。
サクラが行くなら自分もと言ったが、「あなたは泳げないのだから」とサクラに置いていかれた。
おっとりしていて花の精のようなサクラは案外お転婆娘であり、菊乃が毎回振り回されているというのは有名な話ではある。
「あ、あ、ちょ、そんなに走り回ったらはしたないじゃないの! 威厳、もっと威厳を、あ、ちょーーっと!」
「姫殿下、あまり身を乗り出すと危険でございます。少しお下がりください」
「うるさいのよ黙ってなさい!」
「も、申し訳ありません……」
護衛の従者が、その気迫にすごすごと下がった。
それを見て、堤は隠れて苦笑いをこぼず。
「最近の若い子って怖いねぇ……」
◇◆◇
「これが本当に、海を渡れるんでしょうか。なんだか信じられないですね」
「少し前まで、写真だって『信じられない』技術だったんだぜ。この船だって十分『あり得る』技術になるだろ」
「大砲もけっこう積んでますね。自衛のためにですよね?」
「海にはどんな生き物がいるのか、ほとんど解明されてねぇからな。クラーケンが襲ってくるかも」
「さては海洋冒険小説、読んでますね?」
それを最後に、今度こそ黙った。重春に睨まれたからではない。心地よい風が流れたからだ。
空は青く、雲は白い。夏の訪れを感じさせる爽やかな日だ。
天高く鳥が飛び、風が船を進める。人類の進歩が、わずかな波に乗って前へ前へと。
ゆっくりと進む船につられて、おだやかな時間の流れを堪能していた。
サクラも風を浴びて、心地よさそうに目をつむっている。
指示を飛ばし合う船員たちの勇ましい声を聞いていると、ふと、船体が不自然に揺れたのを感じた。
「……?」
大志は、意識を足元に集中させる。
まただ。
ズンと、わずかな衝撃が足に伝わる。
「柴尾さん」
「あぁ、なにかおかしい」
その異変は周りも気づいたらしく、船員はみな戸惑ったように動きを止めていた。
「船底に当たっちまったかな?」
「いや、ここはわりと深いはずだが……」
「帆が風に煽られてるのか?」
「今日はそんなに強い風じゃないだろ?」
困惑したように言い合う船員たち。
その会話を頭の隅で聞きながら、大志は足元を見る。するとまた、不自然な振動が足に伝わった。
「柴尾先輩、大志!」
「なにかがおかしいぞ」
離れた場所で警備をしていた将と遊一郎が、慌てた様子で駆け寄る。
「あぁ、明らかに波に揺られた振動じゃなかった」
「なにかが船に当たったような感じだった。が、この湖はそんなに浅くはない」
「船の不調かって、船長さんたちが話してたぜ」
「……いったい、なにが……」
大志が呟くのとほぼ同時に、また船体が揺れる。
今度はさらに大きく、船底を擦るような音まで。
「とりあえず、姫殿下を船の中に入れたほうがいいな」
「そうだな。救命具を着せて、念のため脱出用のボートの準備も__……」
「船の下になにかいるぞーーーー‼︎」
四人の中では上の階級である銀臣と遊一郎が話をまとめていると、船員の一人が叫んだ。
全員が船べりへ走る。下を覗き込んだ。
青い水の中、それが正体を現すのを待って静かな時間が流れた。
目を凝らす。太陽に反射する水面にちくりちくりと目を焼かれ、細めた時だ。
ぬっと、巨大な黒い影が水底から浮かび上がる。
影だけでわかる。かなり大きい。
魚のような尾ひれが見えた。
「姫殿下に救命具を!」
「岸へ急げ!」
「大砲用意! 急げ急げ!」
場が、一気に慌ただしくなる。
船員たちが船を岸に戻そうと動く中、大志たちはサクラに駆け寄った。
「姫殿下! 船の中にお急ぎください!」
「え、えぇ……」
大志が呼びかけると、サクラは不安そうな顔で頷く。
サクラと従者の分の救命具を持った将が、二人に救命具を渡そうとした時。
今までで一番の揺れが船を襲った。
思わず膝をつく。
全員でサクラを囲んで、体勢を低くして衝撃を乗り切った。
これは本当にただ事では無いと思い、すぐにサクラを立ち上がらせて船の中に急がせる。
しかし、遅かった。
いや、早く行動していればよかったとも言えない。
船とほぼ同じ大きさの巨大魚が、水の上へと姿を表した。
魚からしたら、ただ水面を跳ねただけかもしれない。
たがその体に見合った巨大な尾が、船体に直撃した。船の中心である柱が折れて、床を貫く。
「撃てーーーー!」
誰かの号令と共に、腹の底に響くような重い破裂音。
その一発が、巨大魚の体を射抜く。
痛みに暴れた体がまた船に当たり、脆くなっていた船体を真っ二つに割った。
沈んでいく巨体から生まれた波が船を煽り、船員たちは次々と水の中へと投げ込まれていく。
「きゃあっ!」
「姫さま!」
立っていることすらできない揺れの中、従者の叫び声。
足元の床がバラバラに散り、サクラが水の中へと引き込まれる。
「っ!」
激しい揺れに足をもつれさせながらも、大志は走った。
だがそれより早く、船が完全に崩れて水に沈んだ。大志は水の中に飲まれる寸前、めい一杯息を吸う。
きらきらと、水が太陽を反射している。
湖の中は意外にも透明度があり、水中に根を張る種類の巨大樹木が青々と伸びている。
青とも蒼とも、碧ともつかぬ美しい水中世界が広がっていた。その様に目を奪われる。
小さい魚が目の前を横切った。が、すぐに逃げていく。
真上に影がかかり見上げれば、船の残骸が降って来た。泳いで避けながら、サクラの姿を探す。
少し遠いが、すぐに彼女を見つけた。
気を失っているのか、ふわふわと水中を漂っている。回収しようとそこに向かって足で水を蹴る。
だが、残骸を押しのけながら痛みに暴れる巨大魚が、頭から湖の底に突っ込んだ。
清涼な世界の中、岩が轟音を立てて崩壊する。
それで終われば良かったのだが、底にぽっかりと穴が空いた。
水がそこに目掛けて流れ込む。激流が生まれ、体が押し流された。
大志は、船の残骸と共に流れていくサクラに手を伸ばす。何度も体を攫われながら、やっと手を掴んだ。
その体を胸に抱き、近くの樹木の枝を掴むが、あまりに強い流れにすぐに手を放してしまった。
穴に向かって流される。
掴むものを探して視線を彷徨わせると、銀臣が見えた。
一際大きな樹木にワイヤーをくくりつけて、大志に向かって泳いでくる。
手を伸ばされ、大志も精一杯応える。
だが激流が邪魔をして、上手く掴むことができない。
そうこうしているうちに、いまだ荒れ狂う巨大魚がワイヤーをかけた樹木にも突撃した。
樹木は根本から折れ、支えを失った銀臣も押し流されていく。
せめて逸れないようにと手を伸ばしたが、その手を掴むことなくお互いの姿を見失った。
「っ!」
大志はくるりと体勢を変えて、己の背を盾にした。
背中に衝撃が走る。痛みに耐える時に肺の中の空気も出てしまった。背負った最新型も軋んで唸る。
岩に気づくのが遅れた。避けようとした時は、すでに目の前まで来ていた。
背に刺さるような痛みが一瞬訪れて、それどころではないともう一度近くのものを掴もうと試みた。
だがその前に、水底に空いた深淵が大志とサクラの体を飲み込む。