拗らせて17年 ~乙女ゲームの端っこの更に裏~
「お母様みたいな地味な女性が、この私の母親だなんてあり得ませんわ!」
「ビアンカ……」
私は一体どこで娘の育て方を間違ったのだろう? 目の前で、母親である私に向かって暴言を吐くこの美しい令嬢は、私の実の娘ビアンカである。やはり、私が自分と釣り合わない美し過ぎる夫と結婚したことが、そもそもの間違いだったのかもしれない。
私はマリーナ・ベルツ。34歳の侯爵夫人である。私には一つ年上の夫と16歳の娘、そして14歳の息子がいる。私は伯爵家の出身で、17年前政略結婚をして、このベルツ侯爵家に嫁いで来た。夫は5年ほど前に父親から爵位を受け継ぎ侯爵となっている。
実は私は夫と婚約する前に、幼馴染の伯爵家令息イザークと婚約寸前まで縁談が進んでいた。ところが突然、イザークの家にベルツ侯爵家から圧力がかかり、私とイザークの縁談は白紙になった。そしてその後すぐに、ベルツ侯爵家から我が家へ縁談が持ちかけられた。あちらの長男ルトガー様の嫁に、ぜひ私を迎えたいと強く望まれたのだ。ベルツ家の強引とも言えるやり方に、私の父は面食らっていたようだが、「おそらく、我が領地の交易路が狙いだろう」と推測していた。
政略結婚の為にイザークとの縁談を潰された私は傷付いていた。幼馴染のイザークと私は兄妹のように仲が良かったのだ。イザークとなら、きっと穏やかな家庭が築けると思っていたのに……。しかし我が家が侯爵家からの縁談を断れるはずもなく、私とルトガー様との婚約は速やかに調った。
ルトガー様と私の婚約は、当時の社交界の話題をさらった。「全く釣り合わない二人」「あんな地味な令嬢がどうしてルトガー様と?」「ルトガー様は社交界一の美形と謳われる殿方なのに、あんな地味令嬢と婚約だなんてお可哀想に」と、それはもう散々なことを周囲から言われたものだ。それらは私に対する悪口ではあるが、真実でもあった。私は本当に地味で平凡な令嬢だった。他人から言われなくてもちゃんと自覚していた。そしてルトガー様は、それはそれは見目麗しく、多くの令嬢から熱い視線を送られる社交界きっての人気令息だったのだ。華やかな彼の婚約者になったばかりに様々な嫌がらせも受けた。まったくもって災難である。
結婚してからは、さすがに表立った嫌がらせはなくなった。陰で悪口を言われるくらいは仕方がない。実害がなければいいか、と思った。
夫となったルトガー様は思いの外、私のことを大事にしてくださり、正直驚いた。私としては、常に女性に言い寄られている美しい夫が、愛人の1人や2人、いやもしかしたら3人や4人? 作ることを覚悟していたのだ。しかし夫は結婚以来もう17年間、一度も一人も愛人を作ることはなかった。彼はきっと面倒事が嫌いなのだろう。
夫との間に産まれた娘も息子も、私には全く似ていない。二人とも夫にそっくりな美しい容姿をしているのだ。小さい頃は天使のように愛らしかった。二次成長以降はとんでもない美女と美男に育っている。そう……この見目麗しい家族の中で、私だけが地味で平凡なのだ。浮いている――自分でも思う。一人くらい私に似た地味な見た目の子が産まれていれば、ここまでの疎外感は感じなかっただろうに……。けれど、どんなに似ていなくても、自分のお腹を痛めて産んだ子供たちだ。私は娘と息子に惜しみなく愛情を注いで育てたつもりだ。子供たちも母親の私をとても慕ってくれていた。それなのに――――昨年15歳になり、一つ年上の婚約者が通う貴族学園高等部に進学してからというもの、娘ビアンカの様子が変わった。私に対して酷い言葉を投げつけるようになったのだ。一体どうしたというのだろう? もしかして婚約者に何か言われたのだろうか? 私のような地味な女が母親であることを揶揄われたとか? けれど、娘の婚約者である公爵家令息は、容姿は人目を引く美形だが性格は穏やかで優しい青年だ。彼が私を貶めるような事を口にするとは思えなかった。娘は一体全体何に苛立っているのだろう?
そうして私は、もうかれこれ1年、娘の態度に悩まされている。もちろん親として注意もしたし、時には厳しい口調で叱責もした。けれど娘はますます反抗的になるばかりで、解決の糸口すら見えない。私は娘の暴言を夫や息子には伝えなかった。娘は父親と弟のことは好きらしい。二人と娘は良好な関係なのだ。どうやら彼女が疎んでいるのは私だけのようである。
私は鬱々としていた。もう1年間、一人で娘を諫めてきた。しかし娘の態度は一向に改まらない。疲れた。本当に疲れた。事情を知っている私付きの侍女と娘付きの侍女は、口を揃えて、
「奥様。そろそろ旦那様にご相談なさった方が宜しいのではございませんか」
と、心配そうに進言してくる。けれど私は夫に相談する気にはなれなかった。何故なら、表向きは優しい夫も、心の中では娘と同じように思っているかもしれないのだ。政略結婚で仕方なく一緒になった、自分と釣り合わない女――心のどこかで私のことをそう思っているかもしれない夫に、娘の暴言を相談することは憚られた。似ているのだ。息子もそうだが娘も夫にそっくりの美貌を持つ。娘に言葉で貶められる度に、夫に言われているような気がしてしまう……
私はどんどん落ち込んでいった。もちろん表面上は取り繕っていたつもりだが、夫は何か感じたらしく、
「マリーナ。何かあったのか? 困ったことがあるなら話してくれ」
と、度々気遣ってくれる。
「いえ、大丈夫ですわ。何でもありません」
その度に私は作り笑顔でそう答えた。
もう限界かもしれない……そう感じ始めた頃、学生時代からの親友フィーネから手紙が届いた。フィーネは最近、ご主人と2人のお嬢さんと共に田舎の領地に移り住んでいた。末のお嬢さんがひどい喘息で、療養の為だそうだ。手紙には《のんびりしていて空気も美味しい良い所です。ぜひ遊びに来てね》と書かれていた。
行きたい。この屋敷を離れたい。私にはフィーネからの手紙が今の私への救いに思えた。
「フィーネのところに行って1週間ほど滞在したいのですが、よろしいでしょうか?」
と、伺いを立てると、夫は、
「もちろんだ。君の気分転換には、いいかもしれないな。ゆっくりしておいで」
と、快く送り出してくれた。
田舎の空気は気持ちが良かった。フィーネもご主人もお嬢さん2人も私を歓迎してくれた。
「本当に良い所ね~」
私がそう言うと、フィーネは、
「でしょう? マリーナ、貴女何だか疲れているみたいね。ここでのんびり休憩すればいいわ」
と言ってくれた。
13歳と11歳のお嬢さんは素直で優しい子たちだった。
「「マリーナおば様。ねぇ聞いて」」
と、毎日、私にニコニコしながら色々な話をしてくれる。癒されるわ~。何ていい子たちなのかしら。実の娘にもう1年も暴言を浴びせられていた私は、2人とお喋りしたり散歩したりすることに、この上ない安らぎを感じた。
楽しい時はあっという間に過ぎる。1週間が経ち、私が王都に戻る日。2人の少女は涙を零して別れを惜しんでくれた。
「「マリーナおば様。また来てね!」」
「ええ、必ずまた来るわ」
私はフィーネに心からお礼を言った。
「フィーネ、本当にありがとう。生き返ったわ」
「マリーナ。あんまり無理しちゃダメよ。また、いつでも来てね」
ご主人にもお礼を述べて、私は馬車に乗り込んだ。穏やかな1週間はこうして終わった。
王都の屋敷に戻った私を、また毎日のように娘ビアンカが貶める。私は彼女を叱る気力すら失っていた。もうムリだわ。私は夫に申し出て一人でベルツ侯爵家の領地に行こうと思いついた。領地の屋敷には夫の両親が暮らしている。義父が5年前に夫に爵位を譲って以降、夫婦で領地に移り住んでいるのだ。
「お義父様とお義母様のお世話がしたいので、私を領地に行かせてください」
と申し出ると、夫は驚いたようだ。
「二人ともまだ至って元気で、使用人達もいる。君が行く必要などない」
「お願いします、ルトガー様。私、どうしても領地で暮らしたいのです」
懇願する私に、夫は美しい顔を歪めた。
「君は……私と一緒に居たくないのか?」
「そんなことはございません」
「だったら何故だ?」
「……とにかく、お願いします」
私は必死だった。娘と暮らすのはもう耐えられない。私の心が悲鳴を上げているのだ。
「ダメだ。君はこの屋敷に居るんだ」
「ルトガー様。私は領地に参ります」
「マリーナ。私は了承しない。この話はこれまでだ」
翌朝、日の出とともに私はこっそり屋敷を出た。そして夫の両親の居る領地へと向かった。
何の知らせもなく突然現れた嫁に、義父も義母も大層驚いていた。
「お義父様、お義母様。突然押しかけて申し訳ございません。お願いします。私をこちらに置いてください」
「マリーナ、一体どうした?」「ルトガーと何かあったの?」
心配そうに私に尋ねるお二人。
「いえ……。お願いします。どうかお願いします」
義父と義母は顔を見合わせていたが、取り敢えず私を受け入れてくれた。しかし案の定というか、夫に連絡をされてしまった。もちろん想定内だ。おそらく夫から叱責の手紙が届くだろう。私は手紙での叱責をのらりくらりと、かわしながら、このまま済し崩し的に領地に住み着こうと考えていた。なのに……驚いたことに、私がこちらに来てから僅か数日後には、夫が領地にやって来てしまったのだ。彼は、今までに見たことのない怖い顔をしていた。
「ルトガー様……」
「マリーナ! 私は許さないと言ったはずだ! 勝手なことをするな!」
夫に怒鳴られるなんて、結婚17年にして初めてだ。彼の剣幕に驚いたのは私だけではなかったらしく、義母が慌てて、
「ルトガー、やめなさい! 妻を怒鳴りつけるなんて貴方らしくないわ。一体どうしたというの?」
と、諫めてくれた。夫は苦しそうな表情で、私に向かって問う。
「何故だ? 何が不満だ? 結婚して17年も経って、今更私のことがイヤだというのか?」
「ルトガー様に不満などございません」
「だが、現にこうして君は私の制止を聞かずに家を出て、一人でこんな遠くまで来ているではないか!」
「……」
「理由は言えないのか?」
「みっともなくて言えません」
「みっともない?」
「ええ。強いて言えば、私が至らないことが原因です」
「ルトガー。マリーナは暫くここで暮らした方がいいわ。何だかとても疲れているみたい。心を休ませる必要があると思うの」
義母がそう言うと、義父も頷いた。
「私もそう思うぞ。わざわざ舅、姑と一緒に住みたいなどと言い出すからには、マリーナは王都の屋敷で相当参っているのだろう。暫く休養した方がいい」
両親にそう言われた夫は、それでも、
「マリーナは私の妻だ。口出ししないで頂きたい。マリーナ! 帰るぞ!」
と言い、私の手を掴んだ。義母がそんな夫を責めるように言う。
「ルトガー! 貴方、本当にどうしちゃったの? いい歳をして、そんなに焦って。17年も連れ添った妻が弱ってるのよ。暫く休ませてあげるくらい、いいじゃないの!」
義父も加勢する。
「そうだぞ、ルトガー。お前には妻の気持ちを思いやる余裕というものがないのか? 男なら度量を見せろ!」
夫は両親の言葉に余計苛立ったようだ。
「お二人とも放っておいてください! これは夫婦の問題だ。マリーナは王都に連れて帰ります!」
結局、夫は説得しようとする両親を振り切って、私を馬車に乗せ王都に連れ戻した。
王都の屋敷に戻ってから、私は努めて普通に生活した。いっそ自室に閉じこもって泣き暮らすことが出来たら、どんなに楽だろう。けれど私は若い令嬢ではないのだ。私は侯爵夫人であり、この屋敷に居る限りは女主人なのである。結局、ここに居る限り、私は何があろうと「侯爵夫人」の仮面を外すことは出来ない。
私は自分の心の安寧の為、娘を遠ざけた。食事の時以外、一切顔を合わせないようにしたのだ。親としての責任を放棄した。最低な母親である。きっと私の育て方が悪くて、娘はあんな風になってしまったのだろう。それなのに、その元凶たる私が責任を放棄して、自分の心の安寧を優先した。何というダメな母親なのか――私は就寝前に酒を飲まないと眠れなくなった。日に日に酒量は増えていくばかりだ。
ある日、夫に寝酒を咎められた。
「飲み過ぎだ。もう止めておけ」
寝室のテーブルで一人、飲んでいると、いつもより早い時間に寝室に現れた夫が私から酒を取り上げた。
「……貴方は、私から取り上げてばかりね」
私はそう呟いた。
「どういう意味だ?」
「そのままの意味よ。婚約寸前だったイザークを取り上げ、若かった私の将来を取り上げた。私とイザークは本当に仲が良かったのよ。それでも貴方と結婚して17年も尽くしたのに、領地で暮らしたいという私のささやかな望みさえ取り上げた。今、唯一心を慰めてくれるお酒まで取り上げたわ」
「……マリーナ。君はそんな風に思っていたのか?」
夫の綺麗な翡翠色の瞳が揺れる。
「ルトガー様。もう私を解放してくれませんか?」
「何を言っている?」
「政略結婚をして、子供を二人産みました。後継者となる男子もいます。二人とも、もう手がかかる年齢ではありません。貴族の妻としての最低限の義務は果たしましたでしょう? 貴方にとっても私はもう用済みではないのですか?」
私の言葉を聞いて、夫は表情を歪ませた。
「『用済み』だなどと……君は、私をそんな男だと思っているのか?」
「貴方は若い頃、それはそれは見目麗しい令息でしたわよね。いえ、今もますます美貌に磨きがかかっていらっしゃいますけれど。あの頃、たくさんの令嬢から想いを寄せられていたのに、貴方は親の決めた政略結婚をすることになった。貴方にとっては、さぞ不本意な結婚だったことでしょう。それなのに、仕方なく娶った私を大切にして下さって感謝しているのです」
「『不本意な結婚』? 『仕方なく娶った』? 君は本当にそう思っているのか?」
険しい声を出す夫。
「責めている訳ではありませんわ。貴方は美しくて優秀な方です。私のような地味で平凡な女とは最初から釣り合っていませんもの」
夫は愕然とした表情で呻くように呟く。
「17年だぞ……17年も一緒に居て、私の気持ちが分からないのか?」
「もう、いいのです。とにかく私を解放してください。離縁は外聞が悪くて貴方や子供たちに迷惑がかかるでしょうから、別居いたしましょう。私を領地に行かせて下さい。ご両親のお世話は責任を持って致しますから」
「……イヤだ」
「は?」
「私は君を……その……あ、愛してる。初めて会った時からずっとだ。君と離れて暮らすなんてイヤだ。耐えられない」
「愛してる」? 今まで一度も夫から聞いたことのない言葉だ。私は現在34歳。夫は35歳である。今更……それならどうして婚約する時に、いえ、せめて結婚してすぐに言ってくれなかったのか?
「どうして今頃になって……。17年前に言ってくださったら、きっと違った結婚生活だったでしょうに」
私がそう言うと、夫は私の手を握りしめた。
「マリーナ、許してくれ。幼馴染との縁談が潰えて沈んでいる君に、その縁談を潰した張本人の私が、とてもじゃないが『愛してる』なんて言い出せなかった。結婚して誠意をもって君に接すれば、きっとそのうち私の気持ちを分かってくれると思っていたんだ。私はずっと君を大事にしてきたつもりだ。なのに、まさか今まで伝わっていなかったなんて、思ってもいなかった」
「……言葉にしてくださらなければ、分かりませんわ」
「そうだな……すまない。でも、本当に君を愛しているんだ。どこにも行かないでくれ。頼むからずっと私の側に居てほしい。マリーナ、お願いだ。何でもするから私を捨てないでくれ」
「ルトガー様……」
美しい夫が情けない台詞を吐きながら私に縋りついている。何だか目の前の光景が信じられない。結局、私は夫の懇願に負けて、王都の屋敷に残ることにした。
夫は初めて、私との結婚の真相を話してくれた――――若かりし日。ある夜会で私を見初めたルトガー様は、私と幼馴染の伯爵家令息イザークとの縁談が婚約寸前まで進んでいることを知った。ルトガー様は私を手に入れる為、ベルツ侯爵家の名でイザークの家に圧力をかけ縁談を潰したのだそうだ。そしてその直後、やはりベルツ家の名をもって、私の実家に有無を言わせない形で縁談を申し入れた。ルトガー様のご両親である当時の侯爵夫妻は、息子の強引なやり方に半ば呆れながらも協力してくださったのだそうだ。
「つまり、最初から政略結婚ではない。私はどうしても君と結婚したかったんだ。その為に卑怯な事をした。でも後悔はしていない。どんな事をしても君が欲しかった。他の男に渡したくなかったんだ」
熱く語る夫。しかし……
「夜会で見初めた? 社交界一の人気令息だった貴方が? 壁の花だった私を?」
そんなバカな!? まず、そこから信じられない。
「ん? そこからか? 君は私の理想の女性だ。最初に君を見つけた時は、夜会の会場の壁に妖精が張り付いているのかと思ったよ。本当に可愛らしくて見惚れた」
壁に張り付いた妖精?! 「ぬりかべ」という妖怪なら東の国にいると聞いたことがあるけれど……。夫は続ける。
「一目見て、私の運命の女性だと確信したんだ」
うっとりと話す美貌の夫……ちょっと引いてしまう。
「はぁ。そうだったのですね……」
人の好みは様々である、ということか?
17年間、妻である私に「好きだ」とも「愛してる」とも言わなかった夫。なのに一度口に出してしまうとタガが外れたらしく、所かまわず私への愛を言葉にするようになってしまった。35歳の美しい夫が34歳の地味な妻に愛を囁きまくる……客観的に見てイタイし、ビジュアル的にもオカシイ。急に人前でも私にベタベタするようになった夫を見て、娘も息子も使用人達も唖然としている。いい歳をして恥ずかし過ぎるわ……
そして案の定、娘に絡まれた。夕食を終え、私が自室に戻ろうとするところを待ち伏せていた娘。
「お母様。そんな地味なお顔なのに、どうやってあの見目麗しいお父様を誑かしたのです? お父様が人目も憚らずあんな風に……信じられませんわ!」
ビアンカよ。貴女は私たち夫婦の娘なのよ? 母親が父親を誑かす? それ、どういう状況よ?
「ビアンカ、何を言ってるの? 私たちは結婚してもう17年も経つ夫婦なのよ? 今更どうして、実の娘にそんな事を言われなきゃならないのかしら?」
娘は悔しそうな顔をして、私を睨みつける。
「地味な女は嫌いよ! あの女もそう! 一見控えめな振りをしてユリウス様に近付いて、ちゃっかり親しくなって! 私の方がずっとずっと綺麗なのに、ユリウス様ったらあんな女に誑かされて! あの女もお母様もどうして? どうしてそんなに地味なくせに愛されるの? 私の方が何倍も美しいのに! あの女はユリウス様に釣り合わない! お母様だって、お父様と全然釣り合っていないわ!」
「あの女」とは? 娘の婚約者が他の女性と親しくしてるってこと? で、どうして私が引き合いに出されるの?
その時、私は背後にただならぬ気配を感じて振り返った。そこには黒いオーラを纏った夫が立っていた。
「ビアンカ! それが母親に対する物言いか!? 何だ、その態度は!? マリーナに謝れ!」
まずい。夫が激昂している。
「ルトガー様、落ち着いて下さいませ」
私は夫の腕にしがみついた。彼が今にも娘に手を上げそうに見えたからだ。
「マリーナ。もしかして、君をずっと悩ませていたのはビアンカなのか? 実の娘にこんな酷い事を言われていたのか? どうしてすぐに私に相談しなかった?」
とうとう知られてしまった。
「私の育て方が間違っていたのでしょう。私が母親として至らないせいです。全ては私の責任ですわ」
「マリーナ。ビアンカはもう16歳だ。既に1年前に成人しているんだぞ。所業を全て親の子育てのせいに出来る年齢ではない」
「でも……」
娘が大きな声を出す。
「お父様もユリウス様もおかしいわ! どうしてそんな地味で平凡な女性に惹かれるの? お父様なら、もっともっといくらでも綺麗な女性と結婚出来たでしょう? 何故こんな地味なお母様なんかと!?」
娘の言葉を聞き、夫は怒りのこもった低い声を出す。
「お前というヤツは……。ビアンカ、お前はマリーナから産まれたんだ。私が他の女性と結婚していれば、お前はこの世に生を受けていない。お前を産んだのはマリーナだ。分かっていて、よくそんな酷い事が言えるものだな。お前が何と言おうと、私はマリーナを愛してる。初めて会った時から今までずっとだ。お前に私のマリーナへの想いをどうこう言われる筋合いはない。文句があるなら、この屋敷から出て行け!」
私は慌てた。
「ルトガー様。落ち着いて!」
「何よ! こんな家、出て行ってやるわよ!」
「ビアンカ! 何を言っているの?」
私たちが揉めている声に気付いたのか、使用人が呼びに行ったのか、息子と執事が駆け付けて来た。
「父上、どうされたのですか?」
息子は状況が分からず、娘を睨みつけている夫に向かって尋ねた。
「ビアンカは勘当する。もう親でもなければ子でもない。修道院にでも入れ!」
「ルトガー様! ムチャを言わないでください!」
私が声を上げても夫は娘を睨んだままだ。
「父上! 姉上は一体、何をしたのです!?」
息子は困惑している。
「旦那様。それはあんまりでございます。お嬢様、とにかく旦那様に謝罪なさってください」
執事はオロオロしながらも、娘に謝罪を促した。なのにビアンカは謝るどころか、
「分かったわよ! こんな家、出て行くわ!」
と吐き捨てて、自室に行ってしまった。その後ろ姿を呆然と見送る私。すると、いきなり夫が私を抱きしめた。
「マリーナ。ビアンカが君を傷付けていたなんて……一体いつからだ?」
「……ビアンカが学園の高等部に進学した、1年前からです」
「そんなに前からなのか? 私は同じ屋敷に暮らしていながら、今まで気付かなかった。本当にすまない。マリーナが何かに悩んでいるのは感じていたが、まさか実の娘にあんな酷い事を言われていたなんて」
「私の責任です。ルトガー様。ビアンカに態度を改めさせます。もう投げ出さずに、あの子ととことん向き合いますわ。ルトガー様も力を貸してくださいませ」
「ああ、もちろんだ。さっきのビアンカの言い方だと、そもそもの原因は婚約者のユリウスの行動にありそうだ。学園での二人の様子と今までの経緯を調べてみよう」
「父上。姉上を修道院へ行かせるなんて嘘ですよね?」
「旦那様。お嬢様はきっと苦しんでおられるのです。何卒、寛大なお心でお嬢様をお導きください」
息子も執事も不安そうに夫を見つめる。夫は少し表情を緩めて言った。
「心配するな。ビアンカのことを放り出したりはしない」
良かった……。それを聞いて私は身体の力が抜けた。息子も執事もホッとした様子だ。
「マリーナ。何も心配するな。君の産んでくれた娘だ。悪いようにはしない」
そう言うと、夫は私に優しく口付けた。息子と執事がポカンと口を開けて私たちを見ていた。
夫が配下の者を使って調べたところ、娘の婚約者の公爵家令息ユリウス様は学園内で、とある男爵家令嬢と親しくしているらしい。その令嬢は雰囲気が私にとても似ているそうだ。つまり地味で平凡。けれど何故か男性の庇護欲をそそるらしい……。
「庇護欲を? そこは私とは違いますわよね?」
と、私が問うと、夫は頬を染めながら、
「いや、君も放っておけない。儚い妖精のようで守りたくなる」
などと、恥ずかしい事を言う。私、もう34歳なのですけれど……。美しいビアンカは、そんな地味な女に夢中になってしまった婚約者ユリウス様に蔑ろにされ、プライドを傷付けられた。いや、それ以上にユリウス様を慕う乙女心が傷付いたのだろう。幼い頃に婚約して以来、ビアンカはユリウス様が大好きだったのだから……。
私は調査報告書を読み終わって溜息をついた。どうして早く相談してくれなかったのか? 私への攻撃は、ビアンカのSOSだったのだ。婚約者を奪った男爵家令嬢と私を重ね合わせたのは事実だろう。けれど、聡いビアンカが分からぬはずがない。私と男爵家令嬢は全くの別人なのだ。私に怒りをぶつけても何の解決にもならないと――――結局、ビアンカは私に甘えていたのだ。美人令嬢と名高い自分が婚約者を他の女に奪われたなどと言い出せず、私に相談したくても出来なかったのだろう。けれど、その苦しさを私に分かって欲しくて、あんな歪んだ形での表現になったのだと思う。まったく……素直に相談してくれていれば、1年間も母子共に苦しむことはなかったのに……。
夫と私は調査報告書を前にビアンカと向かい合った。
「ビアンカ。ユリウスの学園内での不誠実な行動は把握した。半年前の学園祭の舞踏会では、婚約者であるお前をエスコートせずに、その男爵家令嬢と共に現れたそうじゃないか。そんな決定的な裏切りをされてなお、何故私やマリーナに相談しなかった?」
夫の言葉にビアンカは唇を噛んだ。
「……言える訳がありません。この私があんな女に婚約者を奪われた挙げ句、学園祭で恥をかかされたなんて、みっともなくて情けなくて、お父様にもお母様にも言えるはずがありません」
「ビアンカ……」
私は思わず娘を抱きしめた。
「辛かったでしょう。そんな仕打ちをされて、一人で抱え込んで……」
「お母様……」
ビアンカは私の腕の中で涙を零した。
夫はそんな娘を暫く見つめていたが、徐に告げた。
「ビアンカ。ユリウスとの婚約は解消しよう。お前を裏切った男など、これから先も信用できないだろう? それともユリウスに未練があるか?」
「いいえ、お父様。ずっとユリウス様をお慕いしていましたけれど、この1年間苦しんで苦しんで、結局は私自身がどんどん嫌な女になるだけでした。もう、ユリウス様のことは諦めます」
ビアンカは、きっぱりと言った。
「そうか。では、公爵家には私から婚約解消を申し入れる」
「お父様、こちらから申し出て大丈夫なのですか?」
「うん? 家格のことか? なるほどあちらは格上の公爵家だが、1年間もユリウスが婚約者のお前を蔑ろにして他の令嬢に現を抜かしていたとなれば、強くは出られないさ。もちろん、この調査報告書を叩きつけてやる。知っているだろう? 公爵は私の学生時代からの友人だ。息子を管理出来なかったアイツも悪いからな。シメてやる」
夫はニヤリと笑った。そんな悪い顔をしても美しいとはこれ如何に。
「ビアンカ。お前が苦しんでいたことは分かった。しかし、だからと言って母親に暴言を吐いて良い理由にはならん。お前はマリーナにきちんと謝罪をするべきだ」
夫は毅然と娘に言った。
「……はい」
ビアンカは意を決したように、真っ直ぐ私を見る。
「お母様……この1年間、たくさん酷いことを言って申し訳ありませんでした。お母様に話を聞いて欲しかったのに、プライドが邪魔をして本当の事が言えず子供じみた八つ当たりをしてしまって……本当にごめんなさい」
私に深く頭を下げるビアンカ。
「ビアンカ。私も母親として至らなかったわ。貴女の苦しみに気付いてあげられなくて、ごめんなさい。貴女の謝罪を受け入れます」
私はそう言って、再び娘を抱きしめた。
「お母様……ごめんなさい。ありがとう」
その後、暫くして、ビアンカとユリウス様との婚約は正式に解消となった。
1年後。学園で、娘の1つ上の学年の卒業式が行われた。ところが式の後に始まった卒業パーティーで、大きな騒動があったらしい。王太子殿下が、ご自分の婚約者である公爵家令嬢を一方的に断罪した挙句、婚約破棄を申し渡したというのだ。更に殿下は、ユリウス様の恋人であるはずの件の男爵家令嬢と「婚約する」と高らかに宣言されたとか。ちなみに自分こそが、その男爵家令嬢の恋人だと思い込んでいた男性が、王太子殿下とユリウス様を含めて計5人もいたそうだ。おめでたい卒業パーティーの場で、その5人が「恋人」をめぐって争い始め、会場は修羅場と化し大混乱に陥ったらしい。まったく呆れ返ってしまう。それにしても、学生の身で5人もの男性を手玉に取るとは、その男爵家令嬢は一体何者なのだろう? 娼婦も真っ青ではないか。
結局、卒業パーティーに来賓として出席されていた国王陛下の怒りを買い、王太子殿下は謹慎処分となったそうだ。その後、貴族の間では、いずれ第2王子が王位継承者に指名されるのではと囁かれている。騒ぎを起こした他の4人の男性も、各家当主によって厳しく処罰されたようである。そして、騒動の元凶である男爵家令嬢は、王族や高位貴族令息を誑かした危険人物として、王命により国外追放となった。彼女は最後まで「私はヒロインなのに! どうして?!」と喚いていたらしいが、何のことだか分からない……
午後のひと時。私とビアンカは庭のテーブルで二人でお茶を飲んでいる。
「お母様。私、あのままユリウス様の婚約者という立場にいたら、トンデモナイ騒動に巻き込まれるところでしたわ。1年前に見切りをつけて、本当に良かったと思いますの」
ビアンカは、サバサバした口調だ。私は頷く。
「私も本当にそう思うわ。ユリウス様との婚約を解消したのは正解だったわね。今回の件で、これから先も彼にはずっと悪いイメージが付いて回るに違いないわ。挽回するには相当な努力が必要になるでしょうね」
「ふん! せいぜい足掻けばいいんだわ!」
「そうね。――ところで、ビアンカ。貴女に縁談が来てるのよ。とっても良いお話なの。その方はね、実はずっと貴女のことを想い続けていらしたんですって」
「まぁ……」
ビアンカは恥ずかしそうに頬を染める。我が娘ながら美し過ぎて眩暈がしそう……ルトガー様と私の大切なビアンカ。どうか、幸せになって。
――――それから3年後――――
私は赤子を腕に抱いている。夫は目を細めて赤子を見つめる。
「可愛いものだな」
「ええ、本当に」
「【 孫 】がこんなに可愛いものだとは思わなかった」
「うふふ。『目に入れても痛くない』って、本当ですのね」
終わり