第五章 キムチと餃子は裏切らない~東信漬物と夢見亭 10
「小花、あれって」
「うん……道はないけど、裏山の袂だよね」
――山に感化される。山の気に呑まれる。犬若の言葉が頭の中に響いた。
太陽君が、無理矢理に下草の中に突っ込もうとした瞬間。私たちがもう一度叫ぼうとした時、
「あいてっ!」
と叫んで、小学生の影がひっくり返った。転んだらしい。
しかしすぐに立ち上がり、さらに進もうとする。それが、すぐにまたころりと転んでしまった。頭を打つような格好ではなく、とっさのことで体が丸まるのに合わせるような、おかしみのある――危なげのない転び方。
「な、何なんだよ!?」
片膝をついたまま動けずにいる太陽くんに、ようやく私たちは追いついた。
「さ、さち様……小花さん」
呆然としている太陽くんの足元には、ひょろりと長い濃褐色の影が、宵闇の中で身構えている。
「ジライヤ……お前なのか? どうして……」
ジライヤの黒々とした目には戸惑いがなく、自分の役目を全うしようとする、強い意志があった。まるでこうなることを予見して、心を決めていたように。
そうか。
つまり、ジライヤがずっと太陽くんと一緒にいたのは――
お姉ちゃんが、私の頭に思い浮かんだのと同じことを口にした。
「太陽くんを山に入らせないために、ジライヤくんは君の隣にいたんだね」
この間、私たちと太陽くんが初めて会った時はまだ昼間で、太陽くんもその場の流れで山に駆け込んだだけだった。
でも今は違う。
あまりにも辛い場所から逃れて、一人きりで、自分から夜の山に紛れ込もうとしていた。ジライヤは、それを止めた。
息を整えてから、私は言った。務めて、笑顔で。
「帰ろうよ。嫌なことは、きっともう終わってるから」
私たちは、太陽くんのマンションの前まで戻ってきた。
「母さん、怒ってないかな……」
所在なげにそうつぶやく太陽くんの横に、いきなり犬若が降り立った。
「か。怒ってなんぞおらん。今は放心しているが、早く顔を見せてやらんと、飛び出してくるか警察に電話くらいしかねんぞ」
「犬若……俺の母さんに、何があったの?」
「お前の母親は蝦蟇に取り憑かれていた。それも、暗く湿った場所を好み、憑いた人間を居つきやすい場所にするために、周囲から孤立させようとする、たちの悪い奴にだ。そいつはさっき、俺が退治しておいたので、もうどうということはないがな」
私は嫌な予感がしつつ、
「退治ってどうやったの?」
と聞く。
「む。知りたいか? あまり克明に聞かん方がいいと思うが。食い物がまずくなるぞ」
「えっあっうんやっぱりいい」
ぱたぱたと手を横に振る。
「小僧、辛い思いをさせて悪かった。お前がここのところ母親からどんな仕打ちを受けていたのかは、お前から漂う気配でなんとなしには分かっていた。それらは全て、その蝦蟇によるものだ。それを断ち切るには、少々の変化を与えて揺さぶり、俺が母親から引き剥がしてやるしかなかった。奴が、あんなに極端な行動に出るとは思っていなかったのだ」
仕打ち? と私は聞きとがめる。その様子を察した犬若が、
「打擲などがあったわけではないようだがな」
と嘆息して言った。
「いや、いいです、さち様と小花さんなら。俺今年に入ったくらいから、ずっと母さんからなんていうか……無視されてたんです。先週ここに挨拶に来た時も、母さん捕まえてなんとか頼み込んで来れたんですけど、お二人と話してる時は普通だったのに、行きも帰りもひと言も口きいてくれなくて……辛かったんだ、情けなくて、凄く。家の中で何を言っても聞いてくれない、呼んでも返事をしてくれない、それで手を引いたら、振り払って怒鳴られたり」
どうやら、私たちが聞いて感じていたよりも、家の中はもっと深刻な状況だったみたいだ。単に会話が乏しくなっていたのではなくて、明確な無視だなんて。
「ん。あの日は俺がいたんで、蝦蟇も影を潜めていたからな」
「このままじゃいけないって思ってました。息子なんだし、父親はいないし、俺がなんとかしなくちゃって。でも何とか話しかけても、仕事で疲れてるって言われたらそれ以上はどうしていいか分からないし、……結局、俺なんてまるで家にいないみたいに過ごしているのが一番いいんじゃないかって思ったら、じゃあ家にいる意味なんてないじゃんて……」
私たちが小さかった頃とは全く別の思いつめ方だ。それも、深刻な。
昨日太陽くんは、家のどこにいていいのか分からなくなる時があると言っていた。その上で、家の中にいる意味そのものも見失ってしまっていたということなら――……
「それでお前は、山に魅入られていったのだな。そうして、かまいたちとも出会った」
「はい。俺が本当に辛くなったら、もしかしたらジライヤが山に連れていってくれるんじゃないかと思ってたのに。まるで逆だったなんて」
「お前の母親が本当にお前の面倒を見られるたちではなければ、そうしたかもな。そのかまいたちも、母親の変調が妖怪の仕業だということは感づいていたんだろうが、憑き物落としというのはあれでなかなか骨が折れる。かまいたちの技では困難だ。それでせめて、お前の傍らに侍っていたのだろう。お前と母親の絆、それに、いずれ現れるかもしれん助けを信じて」
「ジライヤ……」
太陽くんが、潤んだ目でかまいたちを見つめる。
「それ、とっととお前の家へ戻れ。早く蝦蟇の落ちた母親に顔を見せてやれというのに」
「そ、そうでした。あの、犬若、さち様、小花さん。本当に……ありがとうございました」
ぺこりと頭を下げて、太陽くんはマンションの中を駆け上がっていった。
犬若がそれを追うように、また外壁からベランダへ上がる。
犬若の瞳術は、リビングでへたり込んでいたお母さんのもとに駆け込んでくる太陽くんを映し出した。
正気を取り戻したお母さんは、泣きながら太陽くんに頭を下げ、それを太陽くんが受け止める。
ひとしきりが済んで落ち着いたら、夕食になるだろう。
大丈夫。
太陽くんは、熱々の出来立てを食べさせてあげるため、まだ餃子をレンジに入れていなかった。
まさに今これから、温めることができるのだから。