第五章 キムチと餃子は裏切らない~東信漬物と夢見亭 9
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日曜日。
既に時刻は十九時を回っていた。
真夏の太陽は、ようやく沈んだものの、まだ黄昏の鈍い光が街を照らしている。
私たちは太陽くんの住むマンションに面した道路の片隅で、息を殺していた。かなり建物が古いようで、あちこちの壁ににひびや剥離があり、築何十年なのかも見当がつかない。
本来、明るいうちは犬若の、私たち人間の姿を他の人の目から隠す術――隠術というらしい――は効果が低いのだけど、堂々と太陽くんの家の周りをうろついているのもまずいだろうということで、犬若が神経を集中して術を施してくれている。
それでも途中何度か術を中断した犬若が、四階建てマンションの三階にある太陽くんの家の様子をこっそり見に行き――私とお姉ちゃんはその間別の場所に移動していた――、彼の調理がうまくいっていることを確認してくれた。
あとはお母さんの帰りを待つだけだ。
「いいか、二人とも。想定よりも小僧の母親の帰りが遅くなったのは、暗くなって俺の隠術が効きやすくなったという意味では僥倖だ。これから母親が帰宅したら、俺は隠術を解いて、小僧に見つからんように気配を消して奴の部屋に潜伏する。小僧にあれこれと説明するのも手間なのと、何より蝦蟇に気付かれたくないのでな。そうして蝦蟇を調伏する好機を待つ。その間、瞳術で俺の視界をお前らにも送る。何もせんで待つというのも苦痛だろうからな」
私はうなずきながらも、右手をすいと上げた。
「む。なんだ、小花」
「あの、こんな言い方もあれなんだけど。私とお姉ちゃんて、何かすること、ある?」
太陽くんの家に入るのも、蝦蟇と対決するのも犬若では、私たちは一体……という話になる。
「ふ。当然あるぞ。いいか、俺の予測では、俺が蝦蟇とやり合っている間は小僧が蚊帳の外になるわけだが――その小僧が、家から出ていくと踏んでいる。それも半狂乱に近い状態でだ」
「出ていく? どうして?」と今度はお姉ちゃんが聞き返した。
「蝦蟇のやり口が、俺の知る通りならそうなる。その時に小僧を抑えてくれ。あの小僧は山に近づいていた。人から逃げ、山の気に呑まれに行こうとする恐れがある」
私は犬若がわざわざ私たちに「洋袴と、踵のないで来い」と行った理由がようやく分かった。まさか、取り押さえをやることになるとは。
山に呑まれる。――神隠し。縁起でもない言葉が頭をよぎった。
「わ、分かった。小学生でも、体力はありそうだもんね。気をつけないと」と言いつつ、私は手を握ったり開いたりする。
「頼むぞ。恐らく俺たちに加勢も現れるだろうが、過信はできんからな」
加勢? と聞き返そうとした時、お姉ちゃんが「あっ」と小さく息を飲んだ。
すっかり暗くなった路地に、太陽くんのお母さんが現れた。きっちりとしたスーツ姿で、けれどその顔は、ひどくやつれて見えた。
お母さんがマンションに入るのを見計らって、犬若が隠術を解く。
「では、行く」
犬若が、マンションの壁を音もなく駆け上がり、太陽くんの部屋のベランダに到着した。
お姉ちゃんが「わあ、瞳術っていうの、不思議な感じ……」とつぶやく。私と同じ映像が見えているのだろう。夜の路地の風景に重なるようにして、犬若の見ている世界が、半透明に映し出されている。瞼を閉じると、暗闇の中に犬若の視界だけが現れた。
犬若はベランダの外から中をうかがっている。太陽くんはリビングに夕食――犬若が先ほどから確認していた通り、ほとんど昨日のうちでの昼食と同じメニューだった――の準備をしていた。足元にはジライヤもいる。
太陽くんが体をはっと一度強張らせてから、玄関の方へ小走りで向かっていった。チャイムが鳴らされたようだ。
やがて、親子二人がリビングに入ってくる。
そしてお母さんは、思いがけないテーブルの上の料理の支度に目を止め、驚いた様子を見せた。
お母さんの首がゆっくりと太陽くんへ向き直る。
そのまま、太陽くんを感謝と共に抱き締めでもするのではないか――と思われた。
しかし。
私は、目を疑った。
お母さんは眉をしかめて、まだ空のお皿を指さし、次にその指を自分の子供に鋭く突き付けると、何か叫んだ。
音までは聞こえてこないけれど、お母さんの厳しい表情とせわしなく動く唇からすると、太陽くんを罵倒しているようだ。
太陽くんの顔に湛えられていた元気が、みるみるうちにしぼんでいく。
そして、あまりにはっきりとした形で唇が動くので、何を言っているのかが分かってしまう箇所があった。
――お母さんの料理がそんなに気に入らないなら、出ていきなさい。嫌らしい。やり方が汚い――
小学生らしい、白いソックスを履いた太陽くんの小さな足がゆるゆると後ずさり、やがて彼の背中が壁についた。
そんな。
お母さんがさらに何か、激しく叫ぶ。太陽くんはふらふらと頭を横に振ると、部屋から駆け出していった。ジライヤがそれに続く。
そして、一人になった部屋の中で、お母さんは笑っていた。声は聞こえないものの、哄笑といっていいくらい、はっきりと。私たちと顔を合わせた時とは別人のような、異様な表情で。背筋が冷えた。
その、大笑いしているせいで揺れている頭から――何かが覗いている。頭頂部の辺りに、瘤のように、赤茶けた膨らみが不自然に盛り上がっている。
犬若が、ベランダから、ガラス戸をすり抜けてリビングに入った。お母さんの笑いが止まる。
その瞬間、私たちの耳にも、凄まじい轟音が届いた。
「わっ!?」とお姉ちゃんが両耳を抑える。犬若の咆術だ。
するとお母さんの頭の瘤が、さらにまろび出て、ぼろんと耳の横辺りに垂れた。
――蛙だ。丸々と太った、人の頭の半分ほどもある大きな蛙。
犬若が間髪入れずに踏み出し、それに噛みつく。引きずり出すように顎を持ち上げた。
その時マンションの昇降口から、太陽くんが駆け出してきた。
私たちは、つい異様な映像に意識が向いてしまっていたせいで、太陽くんに向かうのが一歩遅れた。
彼は私たちに気づかず、地面だけを見て走っていく。
「太陽くん!」
私がそう呼んでも、聞こえていないようだった。
私とお姉ちゃんは、慌てて後を追う。まさかここまで全力疾走になるとは。失態だ、と胸の中で悔やんだ。
太陽くんの足は速い。しかもこの辺りは当然道慣れているので、ためらいがない分、視界の悪い夜道では私たちよりも速度が出せている。
お願いだから車だけは通らないで、と願いながら走る。
幸い、交通量の多い道路とは逆側に向かっていた。やがて、目の前に舗装されていない急斜面が見えてきた。




