第一章 小花 さち 犬若 4
夕食を終えると、お姉ちゃんがすぐに洗い物を始める。私はその間にお風呂に入ったり、部屋でベッド――私の部屋はフローリングの洋室だった――に寝転がったりするのが常だった。
食器を全部洗い終えたお姉ちゃんが離れに戻り、お風呂から出た私が入れ違いのようにして台所へ戻った。
「別に気を遣わなくても、洗い物くらい私がやるのに。そうでなければ交代制とか」
ひとりごと――だったのだけど。
「まあそう言わずにやらせてやれ。お前に料理番を任せきりで、さちなりに思うところもあるのだろう。昼飯は自分で適当に作っているようだがな」
「だから、いきなり出てくるとびっくりするってば」
台所からぬうと顔だけを出して、そこに犬若がいた。
「さちは一日中家にいる。外に出るお前より、自分が料理番を担うのが本来の筋だと思っているんだろうな」
「そんなの、しょうがないじゃない。私料理嫌じゃないし。お姉ちゃんだって働いてるんだし」
お姉ちゃんは体が弱い。何度か外に働きに出て、その度に体調を崩していた頃がある。無理をしなければさほど問題ではないのだけれど、その無理を、ついついしてしまうのだ。
考えてみれば、働いている人というのはたいていどこかしらで無理をしている。お姉ちゃんは、できる無理の幅が人よりも狭いとも言える。
それで今は、在宅でライターの仕事をやるようになった。一応フリーではあるけれど、定期的に仕事をくれる出版社があって、ほとんど下請けみたいなものだから、収入は安定している。何十万も稼げるわけじゃないけど、忙しい月は私よりも月収が高くなる。
ただ、会社勤めではないから楽というものでもなくて、むしろ仕事量はたっぷりあるのに明確な休日がない分、お姉ちゃんの方が疲れているような日もよくある。それでも、自分のペースである程度裁量できる分、社員になるよりは働きやすいらしい。
今では、普通に働く分には、体調には問題はない。問題があるのは……
「お姉ちゃん、味覚、治らないのかな」
「なんとも言えんな。人間の医者もさじを投げたのだろ?」
私は自分の部屋に戻った。台所のすぐ先にある階段を上がると、物置部屋と私の部屋が並んでいるという間取りだ。
中途半端な長さに伸びつつある髪を乾かし、ベッドに座る。
味が分からないのでは、料理は難しい。お姉ちゃんの味覚障害は味覚減退の状態で、感覚が鈍いだけで全く味を感じ取れないわけではない。においも分かる。ただ、常人と同じというわけにはいかない。
お姉ちゃんも、努力していたのを知ってる。障害が出始めた中学生の頃は、お母さんと一緒に、土日は一日中台所に立っていた。
私が外に遊び行く前には下ごしらえした材料が、そして帰ってくることにはすっかり出来上がった料理が、少量ずつ箸をつけられただけで台所のテーブルに並んでいた。
甘い、辛い、塩辛い、酸っぱい、苦い。五味と言われるそれらの味に富んだメニューを前に、テーブルに突っ伏したお姉ちゃんの姿を、私は部屋に入るために台所を通り過ぎるたび、否応なく見てきた。
――だめ。分からない。お母さん、味が分からないよ……
――昔みたいに分からない。ぼんやりして、あいまいで、本当に私は、この魚にあんなに塩を振ったの……?
お母さんがお姉ちゃんの肩を抱いて、その頃にはもうお姉ちゃんの部屋になっていた離れへ、連れて行った。
私はそっと台所に入り、今お姉ちゃんが指さしていた、鯵の塩焼きを少しちぎって、口に入れてみた。
途端に、舌を刺すような刺激が走った。塩辛い。とても呑み込めない。
これの味が、ぼんやりしているなんて。
その時私は、お姉ちゃんが、それまでの私の姉から、別の存在に変質していってしまうような怖さを覚えた。
でも、当の本人であるお姉ちゃんの方が、きっと何倍も怯えていたに違いない。
味覚障害の原因は今も分からない。昔飲んだ薬の副作用じゃないかとか、精神的なストレスじゃないかとか、それっぽいことは色々聞いたけど、結論としては「分からない」なのだ。
お姉ちゃんは特に病気というわけではなく、体が弱い、としか言えないとお医者さんが結論付けた。
普通に生活していれば、特に健康が損なわれることはない。それが分かると、シングルマザーだったお母さんはばりばりと働き始めた。
私が中学に上がると、お母さんは出張が増え、時には海外に行き、私たちと家で過ごす時間は激減した。
それを薄情だという人たちもいたけど、お母さんにしてみれば、もう娘たちは自分の面倒くらいはある程度自分たちでみられる年齢だ。それに、稼げる時に少しでも稼いでおかなければ、それこそこの先何かがあった時に、家族の選択肢は思い切り狭くなる。
そのために頑張ってくれているのだということが分かっていたから、私たち姉妹はお母さんに感謝こそしても、恨むことはなかった。
「次、お母さん帰ってくるのは来週かあ」
私は冷えた髪をつまみながら立ち上がった。
台所で何か飲もうかと、階段を下りる。すると、台所にまた犬若がいた。
「あれ、犬若ひとり?」
「うむ。さちは、今晩中に片付ける仕事があるようでな。気が散ると悪いから、出てきた」
犬若は犬若で、なかなか気を遣っているようだ。
「ときに小花。最近は、あまり亜鉛とやらを料理に用いんようになったのだな」
「ああ、うん……。お姉ちゃん自分でサプリとか飲んでるみたいだし、なんだかプレッシャーになったら嫌だなあと思って」
「それにしても、さちは味に鈍くなっているし、俺に至っては犬妖だというのに、相変わらず味には手を抜かんのだな。さほど手が込んでいるようには見えん料理の時でも、細心の注意を払って味付けしているのは俺でも分かるぞ」
「それは、私も自分で食べるわけだし」
私はわざと笑った。
でも、犬若がなだめるような目で私をじっと見つめてくれているので、本音をぽろぽろとこぼしてしまう。
「だって……どうせよく分からないだろうからって、適当においしくもないもの食べさせられてたら、……お姉ちゃんに悪すぎるよ。それに犬若も言ってくれたでしょ、鮭が出来がいいって。そういうの、嬉しいもの」
いつの間にか、私は左手で後ろ頭をかいていた。犬若がその手にふんふんと大きな鼻先を寄せる。
私は左腕を回して、腕全体で犬若の顔をゆるくつかんだ。犬若とこうすると、腕を組んだような気持になる。
「お姉ちゃんの舌が元に戻った時、私の料理があんまり下手だったら、それこそもったいないしね。今だってにおいはちゃんと感じるんだし、本調子じゃない味覚でも、やっぱり、おいしいって言ってもらいたいじゃない。ちょっと大げさかもだけど、私にとっては生き甲斐なんだよね」
犬若が鼻を鳴らす。
「小花。お前らはいいやつだ。俺が出会ってきた、どんな人間よりも」
「な、なに、いきなり」
「だが、いいやつというのは得てして損をする。得をしやすい人間というのは、たいてい次の二種類だ。理性を失くしたやつか、常識を捨てたやつ。お前らにはどちらも無理だろう」
「犬若って、今までどんな人間と会ってきたのよ……」
「だから、せめて俺が傍にいてやる。さちの体は治せんが、少しは役に立つだろう」
「少しじゃないよ。犬若がいなかったら、お姉ちゃんだって、私だって今頃どうなってたか」
私は急須にお茶の葉を入れ、湯呑とスープ皿を出した。
「犬若もお茶飲むでしょ?」
「いただこう。……ところで、さちはいい加減入ってこないのか?」
「え?」
そう言われて台所の入り口を見ると、お姉ちゃんが立っていた。
「なんで!? い、いつからいたの!?」
「私もお茶いれようと思って……いつからと言われれば、亜鉛のくだりから……」
「ほぼ全部……!」
お姉ちゃんは、なにやら涙なんてこぼしながら、両手を胸の前で握りしめていた。
「わ、私、味覚治すからね……絶対に治すからね。小花、私、小花のためなら死ねる……!」
「いや死なれても……っていうか、なんで聞いてるのもおおおお!」
犬若がくっくっと笑っていた。
まあ、これがおおむね、我が家の日常と言って、差し支えなくはあった。




