第五章 キムチと餃子は裏切らない~東信漬物と夢見亭 5
私たちは全員で、道を少し戻ったところにある休憩用の東屋の中のベンチに座った。ジライヤもおとなしく、木製のテーブルにちょこんとかしこまる。
お姉ちゃんが、穏やかな声で少年に話しかけた。
「この、ジライヤくん、君のお友達なの? 私は輪道さち、こっちは妹の小花と、妖怪の犬若」
「そうだよ。ジライヤが見える人、俺以外では初めてだ。……大庭太陽。東小学校の六年生」
学区からすると、すぐ近くに住んでいるようだ。
「仲がいいのね。私と妹も、犬若とは昔から知り合いなの」
「俺は、ジライヤ拾ったのは春くらい。……それから、今まで一緒にいる……います」
落ち着いて話してみると、太陽少年は素直に受け答えした。さっきの様子は、私たちがジライヤに何か悪さをするのではないかと驚いたためだったらしい。口調も、段々と丁寧になってきた。
「犬若さん、も悪かった、です……俺、ジライヤに何かあったらって……」
「ん。敬称なんぞいらん。俺とお前に、上下関係もなかろう。ところで見たところ、お前も片親だな? 親父の匂いがせん」
太陽くんはえっと口を開けた。
「そんなこと分かるんですか……? そうです、俺、母さんだけ。でも、最近は仕事が忙しくなって、あんまり会えないんです。顔合わせても、どっちかが寝ぼけてたり、ばたばたしてたり」
私は腕組みして、こくこくとうなずいた。
「あー、分かる、分かるよ。私たちもお父さんいなくて、そうだった。お母さんの方は遠慮しないで何でも言いなさいっていうんだけど、忙しそうだとこっちも気を遣うよね」
お姉ちゃんも目を伏せて、小さく、会釈のように首を縦に振る。太陽くんは「お姉さんたちも?」と少し親近感を持ってくれたらしく、口数が増えてきた。
「俺が母さんに言うことなんて、一個一個は別に、言っても言わなくてもいいことなんです。わざわざ母さんを呼び止めてまでしなきゃならない話って、あんまりなくて。そうすると段々、何も話さなくなっていって……それでも一応、頑張って話そうとはするんですけど。だって、同じ家に住んでて一週間まともにしゃべらないなんて、ちょっと変じゃないですか」
ちくりと胸が痛む。
私たちにも覚えがあった。一人で子供たちを育てるために働くお母さんに、進路に関わることならともかく、学校であった他愛もない話をわざわざするのは、家族であっても気が引けた。
お互いに愛情が途絶えたわけではないし、今に残る確執があるでもない。ただあの時は、少しずつ家族の間の距離が開いていくようで、漠然とした不安と――恐怖があった。
太陽くんに何か言ってあげたい、と思った時、犬若が私とお姉ちゃんの後ろから、小声でそっと告げてくる。
――さち、小花。この子供、このまま返すな。少し匂う。
匂うって何が? と聞き返したりはしない。お姉ちゃんはすぐに太陽くんの前にかがみ込み、正面から少年の顔を見た。
「ね、お互い妖怪が見えるご近所さんとせっかく知り合えたんだし、よかったら一度うちに、ご飯食べにこない? もちろん、お母さんのお許しが出たらだけど。お母さんも、ジライヤくんも一緒に」
「ジライヤも、いいんですか?」
「いいですとも。見た感じ、大切なお友達なんでしょう?」
太陽くんがお姉ちゃんを見る目が、みるみる明るくなっていく。
「そう、そうなんです。こいつ、俺が裏山に入ってうろうろしてたらいきなり現れて、俺を転ばして……それから捕まえてやろうとする俺と散々追いけっこして、その後家までついて来たんですよ。俺はその日、早く帰るって約束してた母さんがまた残業になって、腹が立ってて……でもジライヤと走り回ってる時は、そんなことは忘れてました。俺、学校でもあんまり友達っていないから、今はこいつが一番の仲良しなんです。俺が寂しい時は、いつでも一緒に遊んでくれる……母さんには妖怪が見えないんで、俺が一人でうまくやってると思ってるんでしょうけど」
私はそれを聞いて、意外に思い、つい聞いてみた。
「太陽くんて明るくて活発だし、友達多そうに見えるけど」
「母さんが家を空けがちなせいで、昔から俺がうちにいないと心配するみたいだから、あまり外に行かないんです。家の中はゲームとかもないんで、友達呼んでも遊べることがなくて。そうすると、あんまり仲いい友達ってできないんですよね。学校では普通に遊ぶんですけど。だからジライヤを俺の友達だって言ってくれるのは、かなり嬉しいです」
するとお姉ちゃんが、微笑んで言った。
「妖怪とお友達になれるって、凄く素敵なことだと思うよ」
「ジライヤが見えるのは、俺だけだと思ってました。だから、外から見たら俺って一人ぼっちなんだろうと思うと、これでも寂しかったんです。……そんな風に言ってもらえるなんて」
「うん。それに、私たちも、太陽くんと友達になりたいな」
「さち様……!」
さち様!? と驚いて見ると、太陽くんの目は星のように輝いていた。
それを横目に、犬若が小さくうなずく。ひとまずはこれでいいようだ。……いいのだろうか。
小躍りしかねない様子の太陽くんに、私は努めて静かな声で、
「じゃあ、太陽くん。ちゃんとお母さんに私たちのこと――妖怪のことは内緒でね――を伝えて、許可をもらってみて。難しいようなら、また相談しよう。……聞いてる?」
と彼の顔を伺った。
「はいっ……」と小気味よく返事をしながら、男子小学生の視線は、しっかりとお姉ちゃんに固定されている。
やはり何かまずかったんではなかろうか、とは思いつつ、私たちは皆で山を降りた。
犬若が「しかし坊主の敬語というのはどうも慣れんが、人間はそれが普通なのか」と首をひねっていた。
日が暮れかけている。
太陽くんにあれこれと話しかけられながら、お姉ちゃんは、しきりに頬の汗をハンカチでぬぐっていた。
「お姉ちゃん、大丈夫? 暑い?」
「う、うん……それもあるけど、ほとんど冷汗かな。締め切りまであと何時間か、数えたくない……」
張りついたような笑顔で静かに答えるお姉ちゃんの頬を、また一筋、汗が伝った。